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1.「形が後から追い縋る」
「形が後から追い縋る」とは、私達、舞踏カンパニー「友惠しづねと白桃房」が唯一その技術と精神を受け継ぐ舞踏の創始者とされる故・土方巽の言葉である。
土方は舞踏という体表現に契機する舞台作品の創作法を「土方舞踏メソッド」として確立しようとした。メソッドとは表現の「形化」を導くものである。「形化」は表現の意味を内包していなければならない。そして、その意味によって表現ジャンルの定義のキャパシティーが決まってくる。
舞踏はお座なりの定義では括れないとの見識を持つ人がいる。他のジャンルの定義とは相対化されない特化されたものという見方は、それを紐帯として人間の定義にダイナミックに関連づけさせようとする大いなる野心に裏付けされている。だとしたら、アートという一つの抽象的カテゴリーの特権者として安住しようとする行為は傲慢以外の何ものでもない。
溢れる想いはそれを表現する術を求める。そして形を手に入れる。しかし、刹那のカタルシスに満足しないような想いは形から逃れようとする。やっと成就した恋愛相手を物足らないからと捨て去るようなもので、相手は必死に追い縋る。修羅場である。
こんな危うくもスリリングな領域に形を定めようとする舞踏とはいったい何なのだろうか?
舞踏はそのジャンルの定義が曖昧なまま自国と西洋で認知された稀な現代舞台アートである。そのため、舞踏とは何か?という問いが未だになされている。
生前、弟子に「あんなもの舞踏じゃない」と他の舞踏家と云われる人達への批判は、土方の舞踏の「形化」への意志を表していた。
今まで、多くの舞踏論、土方論が上梓されてきているが、それらは土方舞踏の技術には一切触れていないか若しくはその表層だけに終始するものだった。そのために自己を恣意的に投影しただけの私的な文学以上のものはあまり見受けられない。踊りである舞踏の体の技術を無視すれば、その欠落を埋めるために観念が歪曲され肥大化してくるのもやむを得ない。また、「土方の言葉」を組み合わせて自論を展開するものもあるが、これも舞踏技術の構造との関係を知ってこそ、その言葉の真意(説明、詩、キャッチコピー、虚飾、誇示、媚びなど)を掴むことができる筈である。
私は舞踏の魅力を広く知って貰うためにホームページや雑誌に幾つかの拙文を上梓してきたが、今回は「土方舞踏メソッド」のあらましを紹介することにより舞踏というジャンルの定義の核に迫ってみたいと思う。
私達は当団体結成当初、土方舞踏のメソッドの検証を幾多の公演創作と稽古を通し徹底して行った。それにより土方舞踏の構造とその可能性だけではなく限界も知らされた。本稿「土方舞踏批評」は同時に私達の舞踏論に直結するものである。
「土方舞踏メソッド」といってもその資料は膨大である。中には創作過程で捨てられたものも多い。全てを開示するつもりはないし、その必要も感じない。また、初めから高度な技術を提示したところで体表現は感覚的な言語でしか伝わらない要素が含まれてくるため、順を追わなければ読者には必ずしも理解しがたいものと思われる。
そこで、ここでは土方晩年に行われた「土方巽舞踏講習会」でのテキストを中心に彼の舞踏技術を批評的に開示することで舞踏とは何か?を語りたいと思う。
私達の上梓するホームページは、舞踏家、舞踏ファンだけではなく他ジャンルの舞踊家やパフォーマー、役者やそれを志望する方々など広く訪れる。舞踏初体験という方も少なくない。そんな方々にも「土方巽舞踏講習会」なら比較的分かり易く舞踏メソッドを解説できると思う。入門編としては相応しいと考える。それというのも、土方の講習会でのテキストはビギナー向けに整備されたものだからである。しかし、その整備のされ方は些か強引さも感じられることもある。実際の舞台創作に直結するものばかりではないことは予めご了承願いたい。
本稿は二部に分かれる。第一部はメソッド創作時の舞踏を取り巻く状況を生活者の日常的な視点、他ジャンルとの比較、私達の実際の活動を織り交ぜ、できるだけ分かり易く語っていく。これは、読者を翻弄するためとしか思えないような難解なものや観念だけが先行し象牙の塔に耽溺するような巷の舞踏論に陥ることを回避するためである。また、舞踏家の体は日常生活者のそれと甚だしい隔絶を持つものではないと考えることも理由になる。舞踏家の体は生活者個々人のそれを反映することを本領とする。
第二部は具体的な舞踏の技術を紹介していく。私達のホームページには舞踏の振付けに関心を持たれている方が多く来場される。そんな方々のご要望に少しでもお応えできればと思う。初めに申し上げておくが、「土方舞踏メソッド」はあくまで舞踏舞台の創作法である。振付けと演出と踊り手が三位一体でこそ成立するものである。振付けだけをピックアップして解説したところで意味を成さない。しかし、土方は彼の講習会では演出面は一切語っていない。これは講習会の目的があくまで踊り手を養成することに絞られていたからだ。舞踏の場合、踊り手は振付け、演出法を知っていてこそ自身の本来性を発揮できる。これを知らなければ踊り手の表現には早々と限界が生じてしまうことになる。しかし、土方はこれを怠った。そこには彼のある思惑が読み取れる。本格的に舞踏を学ぼうとする方は振付け、演出法も同時に身に付けて欲しい。
体の技術を言葉で解説することは不可能といっていい。本文は第一部である。第二部は写真、図解若しくは映像を用いて別の媒体で紹介することになる。
2.舞踏の周辺
モダン・ダンス出身の土方を中心に’60年代に始まる日本の一つの「前衛舞踊」運動はその後「暗黒舞踊」、「暗黒舞踏」とその名称を変え、’80年代に入ると「Butoh」として西洋の舞台アート界に喧伝されることになる。
名称の変化はその内実の変化を表象するものであると同時に時代の趨勢に即応させる戦略的な行為でもあった。
土方の活動は、初期の頃は「前衛」特有の実験性を前面に押し出すものであった。脱モダン・ダンスの色合いを帯びたものだが足場となる技術は確立されてはいない。当時、週刊誌のグラビア等で今日まで舞踏の一般的なイメージを固定化させるに至る裸と坊主頭、白塗りメイクというエキセントリックな意匠で広く耳目を惹いた。
日本は「終戦」を機に起きたパラダイム変換で占領国であるアメリカ化を浸透させ続けていた頃、音楽は今日の和製ポップスを先駆けるように、当時のアメリカの流行歌を模倣した歌がヒットする。和服、髪結いの需要の減少に伴い、スカート、ジーパン、パーマネントが普及する。
昭和3年秋田県生まれの土方は戦後、モダン・ダンサーとして活躍するのを夢見て東京に出るが、’60年代、その活動は前衛へと向かう。戦前の反動から自由の象徴ともなった女性のヌードの需要が高く、裸を多様した土方の舞台アートは放送コードも厳しく普及率も低いテレビの時代、情報の全国ネットを築く週刊誌の恰好の素材となった。勿論、土方自身が注目されるための話題作りのために率先してこの流れに乗ろうとしたことは否めない。ところが、己に被さる前衛という名称はその出所ジャンルを意味しない。前衛という言葉は常に時代においてのそれであり、己の活動をジャンルとして自立させ得るものではない。また、ここで新たな野心が彼に芽生える。
コネも金もない田舎出身の青年が東京で名を成したのである。彼の野心は叶ったといっていい。稽古場付き女性との婚姻により金蔓を掴みモダン・ダンス業界の日本的序列世界から解放された前衛舞踊での成功。「どうしたら金蔓と離婚しなくて済むか?子供作りゃーいいの」とは舞台で売れないお笑い芸人が言った言葉だ。私には彼の真意の程が分からない。舞踏家と云われる人の中にも何人かこんな人がいる。自分の子供を放ったらかしにする男の身勝手は人類を視座に置く舞踏アートの理念と齟齬を来すように思う。己のアートの地盤の脆弱さを吐露するに等しい。私は土方の煩悩にまでは付き合う術を持たない。てなことを言うと、私は随分と立派な人間とでも写ろうものだが、そんなことはあろう筈もない。土方とはモラルに関する座標軸が少しばかり違うというだけだ。ただ、舞踏は創作の効率性から日常も大事になってくる。表現の次元が高くなってくると表と裏というような二分法的な生き方では速度が間に合わない。それっぽい演技をする余裕はとてもじゃないが無い。
前衛を脱皮し己のアートを新たな舞踊ジャンルとして確立しようとした時期から土方は自身の出身地「東北」をその活動のプレゼンテーションに盛り込むようになる。
’60年代は経済、文化の格差で都市と農村の対立が際立つ時代でもあった。生活に余裕のある子弟による学生運動が流行ると同時に「金の卵」と称される中卒労働者が都会に流れ込んでいた時代である。高卒の土方は出身県である戦前の秋田県の庶民(農家)の生活をモチーフに「東北」として括り(主に演出とプレゼンテーションで。実際の身体所作においては「東北」にこだわってはいない)東京のアート界に対する。これには二つの理由が考えられる。
一つは己を都会に暮らす他の若手の舞踏家達との差異化を図ること。もう一つは当時、哲学思想でモードになっていた文化人類学、構造主義が希求するアニミスティックな核を「東北」としてシンボライズに提唱することで、それを体現しているとする自己を特化させるためである。興味を示したのは身体表現に疎遠な文学者、美術家が多かった。ミュージシャンも来る時期はあったが、彼等は長居はしない。他ジャンルからのインスパイアは希求するが同じ身体表現者である土方との差異は近いからこそ互いのコードの違いが観念ではなく身体感覚として浮き立つ。必要なものを腑分けする感性に無駄はない。
日本で「戦後は終わってない」と言われていた時期、ライブアーティストである舞踏家と文学者、他ジャンル間のオフステージでの交友は互いの創作を触発し合う創造的な関係にあったことは事実だ。しかし、このことが舞踏と身体表現に馴染み切れない言葉とのややもすれば無節操な関係の温床を作り出し、体表現としての舞踏から自立性を失わせ、本来「豊穣でどこまでも魅惑的である筈の体表現」の可能性を閉塞させてしまっている今日の現状には、私も一舞踏家として責任を感じている。
私は何も言葉を駆使する文学者等との付き合いが悪かったといっているのではない。その質が問題なのだ。文学、特に詩の言語はそれが表象する内容の異質性により日常言語とはズレた文法を培った。言葉によってそれを産み出した生を内省しようとする行為は、体を使ってそれが属性となる生を遡行しようとする舞踏と共通する。両者の交流は必然ともいえた。韓国では100万部を超えるような詩集が出版されていると聞くが、今日の日本の現代詩に元気がないのは残念だ。内容に普遍性を有するのであれば万人とのコンタクトが可能な筈だが。表現の難解さ故にジレンマが生じているのだろうか?
’70年の狭い稽古場での仮設舞台での公演を最後に土方の活動は4年間休止され、それに伴い文学者達との交友も疎遠になっていく。しかし、舞踏の自立した批評法も確立せぬまま土方に依存する形で言葉を弄していた輩には居残る者もいた。
それはともかく、舞踏の「形化」が生成、発展する時期での土方の4年間の活動停止は、その後の活動に大きなハンデを産むことになるが、それは後述する。
言葉とは怖い生き物だ。他人を翻弄し誑(たぶら)かしもするし、たった一言に命も宿しもする。人に依る、と云えばそれまでだが、「文学の言葉」と「文学的な言葉」、「詩の言葉」と「詩的な言葉」との決定的な違いを知る人達が去ることで舞踏をその周囲で華やがせた言葉は萎れていく。土方が亡くなるとそれまで彼が押さえてきた箍が緩み、拍車が掛かる。
箍の緩んだ場に居坐ろうとするのは、やはり箍の緩んだ人間なのだろうか。言葉で舞踏家を懐柔出来ると思い込む「舞踏ゴロ」なる輩も出てくる。彼等は単に自慰行為のために舞踏の周辺で自己誇示することが好きなのだろうか。舞踏の核が律動することを恐れているのだろうか。井戸端会議に加わるだけであたかも舞踏の識者を気取る者が多いのは悲しい現状である。彼等の批評の多くは自立する言葉を持たない。「舞踏」と「舞踏的なもの」は違うのと同じように「批評」と「批評的なもの」は違う。こうした輩は舞踏に必要ない。
言葉の真偽を見極めるのは容易い。発言者が如何程リスクを背負っているかを体を通して感じとれば良い。直ぐに分かる筈だ。体は正直。「裸の王様」には成りたくないものだ。
私達は近年、より多くの人達に舞踏の楽しさを知って頂きたいためにボランティア活動として小学校や老人ホーム、知的障害者の方の作業所などでもやらせて頂いている。舞踏を「芸術」というややもすれば前時代の特権的な領域に閉塞させることで自己のアイデンティティーを充足させようという人達の愛玩物にはさせない。
3.舞踏のスタンス
私達は今まで国内外を問わず多くの人に舞踏を講習してきた。海外では公演と講習会がセットで企画される場合も少なくない。新しい体表現に興味を持たれて一度体験してみようという人。既にモダン・ダンスや演劇をされていて舞踏の技術を自分のジャンルに取り入れられないかと模索されている人。当時の時代の思想的モードを表象する舞踏とやらを味わってみようじゃないかという人。東洋の精神性を探求しようとする人(舞踏は「空」かと問われれば、私はそれに限りなく憧憬するが「否」と答える。あるとないとの止揚概念はあってないものになるのは必然。しかし滅びる物質としての体への固執という脆弱さを併せ持つことが舞踏の沽券にもなる。両者の関係の塩梅は美という個性的であるがゆえに不安定な物差しで塩梅する。そこには一番もビリもない)様々である。
人に教えるという作業を通して、逆に教わることは実に多い。
講習生の中には講習後に質問メールを下さる熱心な方もいる。(こっちは体が汲々だよ、勘弁して)と思うことはあるが、私はその都度真摯に対応してきた。自分達の生き方を新たに認識し直すことが出来るし、多様な展望も育まれる契機になる。
わざわざ海外から来られて私達の舞踏講習会を真剣に受講していかれる方もいる。自国に帰って、小さな発表会を開催する。すると、「ある観客から、あなたのは舞踏ではないと言われました。どうしたらいいんでしょうか?」というメールを頂いたこともあった。批評した観客がどれ程舞踏を心得ているのか知らないが、恐らく2、3の舞踏家の公演と写真集からの俄知識で批評家を気取る輩であろう。何処でも舞踏ゴロがいるものだ。
誰しも好き嫌いはあって然るべきだ。しかし、正否の判断を行うには舞踏の定義を批評の根底に据えていなければならない。ところが明確な舞踏の定義を表した批評家には未だお目にかかったことはない。
「舞踏は誰にも括らせない」と公言していた土方に振り回され続けているようだ。舞踏の技術言語は既存(他の舞踊、演劇)の身体言語からは些かズレている。第二部で触れることになるが、知覚の変換(例えば、音を見る)が基本文法となる。それは踊り手を契機にする空間(舞踏空間)が観客と感覚を共有することで成立するコミュニケーション手段である。分析的な観方はこれを拒否する(括らせない)ような質を持つ。浸潤し合おうとするものは対象化できないのだ。
舞踏らしさは演技できるものだ。馴れから生まれる余裕があれば簡単なこと。しかし、余分な思考は表現と表現者の間に距離を産む。だからこそ余裕の処理が難しい。安息する形に焦がれながらもそれを捨てていかざるを得ない。いつも、より高いハードルを必要とするのもそのためである。私達がそれまで舞踏の象徴とされてきた裸や坊主頭、白塗りメイク(白という膨張色を施すと踊り手の存在感が大きく増す。特に海外公演では舞踏に期待する神秘的な幻想を観客に与える効果が得られる)などのエキセントリックな形を捨ててきたのもそんな理由による。虚飾を払拭した表現は冷たいまでに真実を浮き掘る。それには等身大の体の方が都合が良い。
先の講習生に対してだが、(あんなに一生懸命稽古してきたんだから、自分の信条と感性に誇りを持てばいいだけでしょう)と言いたくもなるが、ひた向きな人程傷付き易いし、ましてやビギナー。土俵は踊り手自身の体なのだから、無責任に口先だけで処世する輩に言葉で勝つのは難しいことなのだろう。「私達はあなたが確かな舞踏家だと想っているんです。どうか、自信をお持ちになって下さい」と勇気付ける訳だが、前衛と目されるアーティストの場合、気概も必要である。最近、その講習生からビデオ作家とのコラボレーションDVDが送られてきた。勿論、白塗りメイクはしていない。頑張って欲しいものだ。
しかし、未だに古い観念だけが先行する舞踏のイメージを払拭出来ない自分には腹立たしいし、講習生に対しては申し訳ない気持ちにもなる。
私達の舞踏に「仏」と呼ばれる踊り(仏像から形を模写した土方の振付けは、劇場の違いによる多様な舞台空間などとの関係を考慮に入れないため形が固定化する。私はこれにちょっと見では変わらないが場に即応させるための多様な振付けを加えている。人の体は常に環境と相互作用を持つとの立場からだ)がある。
この「仏」を外国人に振り付けた場合、日本人のそれとは表現される質感が明らかに違ってくる。これは体型の違いだけでなく、体が培われてきたそれぞれの文化、風土の違いを反映しているように思える。というのは、体型が日本人と近い、しかも仏教に馴染みのある他のアジアの国の人のその表現される質感にも大きな違いが現れるからである。
舞踏が、誰もがそれと生きる体を媒介にした万人のためのユニバーサルアートであろうとするなら、多様な文化、風俗、時代を率先して受け入れるべきだと思わされる。矮小な欲のために特権性にしがみつこうとするなら東北、日本に固執した「単なるフォークロア」に成り下がるのである。かといって、安直に西洋のコードに順応しようとする姿勢は日本人の体に歪みを生じさせる。グローバル化という画一化が浸透する中、舞踏は体を通して日本を再考し続けなければならない。
舞踏が西洋で脚光を浴び始めた時、その創始者の土方が海外に招聘されることになる。しかし、土方は’83年のヨーロッパ公演で成功を収めることができなかった。準備不足も一因するが、その理由は技術編に預ける。
私達が始めて海外公演を行ったのは’89年のオランダ・アムステルダムだった。その間、多数の舞踏家が西洋舞台アート界に名乗りを挙げる。
私達は「糸宇夢(しうむ)」という日本的永遠性をテーマにした作品を上演した。これは利賀フェスティバル他、日本各地で絶賛されたものだった。オランダの観客にも好意的に受け入れられ、アムステルダム国立劇場のディレクターからも絶賛され(彼は私達のニューヨーク公演も観に来てくれた)私も安堵したのだが新聞評はどれも申し合わせたように痛烈な悪評。私は唖然とした。海外での舞踏の評価の座標軸は先人者達の活動で既に確立されたようだった。それは日本人から観るととても日本とは思えない「西洋という鏡に写った日本」をスタンスに置いたもののように感じられた。オランダの主催者サイドによる舞踏紹介のパンフレットには舞踏がドイツ表現主義舞踊の傘下に位置付けられた系譜が載っていたりもした。だからといって、私は自分の創作姿勢を変えることは断じてしなかった。
それ以降、私達の海外公演は「ビヨンド舞踏(ニューヨーク・タイムズ紙)」と、新たな評価軸を得ることで賞賛され続けてきた。別に賞賛されることが目的ではないが、海外公演の場合、失敗との評価はその地域で二度とできなくなることが多い。また、一緒に創ってきた公演の主催者や現地スタッフの気遣いに対して申し訳ない気持ちになる。
4.舞踏の「形化」
前衛と云われる舞踏に限らず一つの表現スタイルが十年も続けば表現上のアイデアも出尽くし、その行為はパターン化する。嫌でも「形化」の路を辿ることになる。この時、表現者は延命のために大きく分けて二つの方法を選択せざるを得なくなる。
一つは経験上有用であると思われるパターンを効果的になぞらえる方法。これは舞踏の興行化に繋がる。その特徴として創作方法を固定化することが挙げられる。例えば踊り手をキャラクター化するなど。
追求すれば切りのない人間アートはそれが深まる程、膨大なエネルギーを表現者に強い続ける。経費(時間、労力)が掛かり過ぎるのである。例えば、主役、脇役を固定化する創作法はテレビドラマ等では濫用されている。固定された観客の観方に当て嵌めるという創作法である。視聴率低減などリスク回避のための安直な方法といっていい。これを舞踏の舞台でも用いている者も少なくないのには辟易する。予め役割を担わされて産まれてきた体などないのだ。役割は効率性で指定する。しかし、舞踏家の体は鋳型に嵌められることを拒否する。
ある時代「危機なる身体」とプレゼンテーションされた舞踏の体のライブ性は不要な属性としてセーブされ、より効率良く公演を繰り返すために「演技する術」が求められる。ライブならではの生の交感は著しく失われる。舞踏公演をそれに掛かる経費により「博打」と捉える舞踏家もいる。しかし、舞踏公演で賭けるべきものは金銭に絡むものではなく己というアイデンティティーなのだ。それは絶えまざる可能性に人間と舞踏アートを晒す。興行に捕われ過ぎると舞踏からその核を奪い、粉飾しただけの「舞踏もどき」に堕す。
私は「舞踏という演技」を出来るだけ回避するために再演作品でも、その都度新たなハードルを意識的に設け、新作を創るのと同じ手間を掛け続けて来た。振付けも含め創り込んだ作品には、予め要となるシーンを即興の場にし作品にもリスクを背負わせた。作品に興行的リスクが生じることを嫌がるプロデューサーは「困りますね」と顔を顰めるが。
’60年代西洋舞踊で鍛えた土方の身体は、エキセントリック(長髪、坊主頭、眉毛剃り、髭面、着物)に意匠することで独異性を放った。その彼の意匠を今日において表層的に模倣し、土方とイメージをダブらせることに奔走する人達もいる。恥ずかしいことだ。土方の厳(いか)つい面差し(ジョルジュ・ドン、ルドルフ・ヌレエフの色気は持たない)がその一因になっているかどうか分からないが、西洋舞踊に見切りを付けることで新境地を開いていこうとした。’68年の「土方巽と日本人」での彼の身体はモダン・ダンサーとしての若き苦節の日々に華々しい別れの鬨を告げるが如く西洋舞踊の技術を取り入れた踊りを披露する。それは生死の境界領域を魔王のように闊歩する精悍さを放つ。これを最後に西洋舞踊に対峙する独自の日本の舞踊の創成に取り組み、’70年代にそれまで世界に類例のない全く新しい舞踊技術を開発していく。残念ながら、その時、振付け、演出に専念する土方自身は踊らなくなるわけだが、これは鍛錬によって造りあげた自らの西洋的身体が一つのネック(胸を開く西洋舞踊と違い、舞踏はどちらかというと背中を開く)になっていたようにも感じられる。
もう一つは舞踏技術の体系化を図ることにより舞踏家の表層的な個性を排除し、舞台として統一された世界観を打ち出そうとする方法だ。しかし、舞踏は歴史も浅い。深みを探求しながらの技術の体系化は至難であるし、人は簡単に育つものではない。ここでは主に言葉により観客に先入観を植え込むことで、舞踏家個々の技術上の未成熟さを覆い込みによりカバーリングする必要に迫られる。しかし、予めプレゼンテーションにより舞台の世界観を脚色し過ぎれば、実際の舞台で生きる踊り手の個性は大幅に制限されてしまう。土方が自身の公演で多用せざるを得なかった方法だ。
体を媒介にした舞踏の可能性を追求するために敢てリスクが生じる多様な実験的活動を行いつつ、尚かつ舞踏の核心(そのジャンルとしての定義を含め)を深め公演を続けることは、膨大な人的労力の投資と人間アートへの真摯な心が必要になってくる。簡単なことではない。
形の表層的模倣に意味はない。誰しも体と片時も遊離しない心の模倣までは出来ないし、する必要もない。皆、それぞれなのだ。
自分という体の独異性を見つめることから舞踏の心が醸成される。
5.舞踏とパラダイム
’60〜’80年代、文化人類学の他に人間の意識構造をリゾーム(根の形状)と捉えたポスト構造主義哲学がパラダイムとなる。その差異性に対する考えから言語により成り立つ哲学の否定を導くこれらの思想は、前衛アート業界にもその理論構築に影響を与えていた。私には、「脱構築」を提唱するこの思想の構築者はその創造性において魅力を感じもするが、追随する日本の識者の中には「彷徨える主体」という概念に浸り「迷妄芝居」を演じる人も少なくなかったように思われた。
潔い学者の中には哲学から足を洗う者も出てきた時代だ。手前味噌で恐縮だが、私と同い年の親戚に東大の哲学修士になりながら医大に受験しなおし医者になった変わり種がいる。「学費も高いのに」と親戚からは顰蹙を買っていた。尤も、訳の分からないことをしていることからの顰蹙の度合いは私の比ではないが。
西洋の舞台アート界で若手の舞踏家によりアニミスティックな要素=神秘を醸す表現として「Butoh」が注目された時、市場参入に乗り遅れた土方は流行のパラダイムを舞踏に擦り合わせ、積極的にプレゼンテーションに盛り込もうとした。舞踏の体の技術として「分岐、分裂」を具体的に取り入れてもいた。
’85年の「舞踏フェスティバル」を前に、これから展開されるであろう日本の舞踏の興隆の中でその創始者としての立場を再確認させるために、舞踏アートの核心を提示しようとする。舞踏というジャンルが野方図に拡散していこうとしていた状況も踏まえてのことだった。
’80年代半ばは日本がバブル経済を迎えようとする時期。モードの発信基地として前衛アートを取り込み若者層を将来の顧客として呼び込もうとする西武デパートの企業戦略が舞踏を放って置かなかった。’87年にオープンする「銀座セゾン劇場」の柿落とし公演での土方舞踏の出演は決まっている。土方にとって舞台は整っていた。
しかし、同じ西武系列の「西友」などのストアーの全国展開が象徴するように戦後の「都会と地方」の葛藤が終焉を迎えた時代、それまで他の舞踏と特化させ得た土方の「東北」という「暗黒舞踏」のキーワードは「おいしい生活」という消費文化の中で、昔のようには機能しない。そこら辺の機微を肌で感じていた土方は己のアートのプレゼンテーションを、先程も述べたようにレヴィ・ストロースに始まりジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズに連なるフランスのモード思想にクロスさせようとした。
「山海塾」の海外公演の成功で「柳の下の泥鰌」(若しくはアンチ)を目指して若手の舞踏家達が活気づく中、土方は4年の活動のブランクで空疎化した組織を立て直す必要に迫られる。しかし、「入門」という師弟関係を前提にした前時代的な入会方式は、情報化時代を生きる若者には、もはや窮屈にしか感じられない。早急に団員を募る方法、「ワークショップ」という当時流行り出した簡易な講習形態を土方もまた選んだ。
6.「ワークショップ」
’80年代に入ると「ワークショップ」と云われる新しい文化教育システムが広まる。「カルチャースクール」という一般の人が低料金で気軽に参加出来る受講体制がデパートや公共施設で盛んになるのもこの時期だ。
「体験コース」等、受講者への金銭的、精神的負担を軽減し、各々の文化ジャンルの楽しさを多くの人に紹介し楽しんでもらうことを目的とする。高度経済成長で潤った日本人の生活状況が、それまで文化人か変わり者に独占されていたアートが私のような庶民にまで一気に普及しようとする。「一億総アーティスト時代」への突入。ここではアートの意味合いはより多様になる。
こうした時代背景の中で、舞踏も「短期講習会」など自団体の魅力を簡易的にだが率先してアピールしようとする動きが活発になる。組織的背景を持たない一個人でもそれを行う人が多出する。
講習生にはモダン・ダンサーやパントマイマー、俳優など既にジャンルは違えど他の団体に所属している人、プロ・アマ問わず音楽家や美大生、自称詩人や小説家志望や、その頃は今とは違ったニュアンスを持っていたパフォーマー(自らの身体を素材とする動く彫刻家。舞踊批評家の故・市川雅氏解説)なる人から教師、サラリーマンもいた。ワークショップは、自前の稽古場を持つ団体(個人でも稀にいる)は其処で、スペース的に賄え無い団体は公共施設などを借りて行う。料金は2〜3時間の団体講習で1〜3千円。前金制で講習期間一括払いのところもあれば、当日精算のところもある。
学生、フリーターが多かったが、講習生は逡巡する。なるべく安く、拘束力も出来れば少なく、まだ見ぬ自分の可能性を賭けられる場を探して。「もしかしたら人生まで賭けられる場、人と出逢えるかもしれない」。
土方のワークショップは、舞踏初級コース1週5日間。それをクリアーした人のみ中級の同じく1週5日間コースに進める(システム、日数の変化はあった)。事前に銀行振込で1コース分1万5千円、2コースなら3万円納入させる。1日だけの講習は3千5百円。一括払いなら1日当たり3千円で済む。誰もが金銭的に余裕がある訳ではない。バイトや仕事との兼ね合いもあるし、「短期とはいいながら続けられるだろうか?もしかして、稽古が厳しかったらどうしよう?」。節約のためか、JR目黒駅からバスで停留所5つ目の稽古場への道のりを歩く人も多かった。ただ、「初級、中級」とコース分けした舞踏ワークショップは土方のところだけだった。クリアーすれば、それも一つの「資格」の取得ではある訳だし、舞踏では唯一体形化されたシステムを持つという重みを感じさせた。講習生としては何処に行こうか悩むところだ。
当時、講習生で複数の舞踏ワークショップに参加する人は少なくなかった。そうした講習生同士は、当然他の団体の場でも顔を合わせることになる。情報交換は活発化する。「ぴあ」等の情報誌、ミニコミ誌がそれに拍車を掛ける。中には恋人探しなど、主旨のズレた目的を持つ人もいたようだが、多くの講習生によって楽しい舞踏交友ネットワークが形成されることになる。人生で友達が出来ること程嬉しいことはない。
しかし、このオープンな状況は舞踏に興味を持つ講習生に間口を拡げるという点では利もあろうが、主宰者にとっては必ずしも気持ちの良いものではない。
元々、他団体との競い合いに汲々としていた主宰者にとってワークショップは、団員集めのための行事だった。
講習生の中には、舞踏を少しばかり齧ったからといって自ら「俄舞踏家」を任じ物知り顔で各組織を比較したり、中には複数の組織の公演にも出演するという強かな者(実は警戒され、嫌われているのだが)も出てくる。
このようなことは同じ踊りの業界である日本舞踊、クラシック・バレエ、モダン・ダンスの世界では絶対に有り得ないことだった。私は「花柳流であり若柳流」の踊り手であるという舞踊手は聞いたことがない。’80年代から興隆する「ワークショップ」という講習システムは流派・派閥というそれまでの日本的組織事情とは馴染まないものであった。
7.舞踏家のライフスタイル
東京には演劇団体が3千あると云われていた。俳優、その志望者は万単位にのぼるが、それに比べると桁が2つは違うほど舞踏は小さな業界である。にも関わらず各団体(個人も含む)により舞踏アートに対する姿勢は多様であり、その活動も世界のオペラハウスを公演旅行する団体から、アート表現より身体を通して自己発見やセラピーを目的としたものまで多岐に渡る。
ファッション業界と絡む者、学生運動を経験する人も多いゆえか反体制的な匂いをもつもの、「四畳半フォーク」的なのまで様々である。そこにはメジャーかアンチメジャーかの対立の図式も読み取れる。
モダン・ダンス、パントマイム、太極拳、オイリュトミーなどの経験者も多く、表現上もジャンルの境界が曖昧な業界ゆえ自称も含む舞踏家が多く活動する所謂「中央線」文化と、青山に事務所を構える山の手線内のそれとの文化的対立構造が浮かび上がりもする。
新宿駅から北西に伸びる中央線沿線は、学生、フリーターが住み易い街だ。例えば高円寺駅は物価が安い。いつでも屯出来る安居酒屋には事欠かない。ライブハウスも多くロックミュージシャンを志す若者の長髪や金髪などのファッションもここでは自然に受け入れられる。坊主頭で眉毛を剃った如何にも舞踏家然とした人も違和感を与えることはない。同じく学生、フリーターに人気のある 新宿駅から小田急線で西へ行く下北沢はちょっと上品に成りつつあるのか、舞踏家はいない。
東京といえど中央線の少し奥は自然が豊かである。バブル経済期に流行る「仕事は都会で週末は田舎で」という余裕のあるサラリーマンのライフスタイルを先取りする者もいる。私の住む目黒の土方の稽古場は住宅街にあり、公演などを開催すると住民から苦情が出たそうだが、上記のような文化的縮図からは少し距離を持っていたようだ。
8.ビギナーと批評家
ワークショップというオープンな講習システムを取り入れた舞踏は、また「耳学問」で舞踏を論ずる人を量産させた。舞踏を経験して数ヶ月のビギナーの発表会に批評家が足を運び、公演後の飲み会で酒を酌み交わしながら論評するという縮図は確かに’60年代〜’70年代半ばまでの土方とそれを取り巻く文学者との関係を彷彿とさせるかもしれない。しかし、彼ら俄舞踏家は他の業界を引き合いに出すまでもなく、大した技術的な背景もなく、故にろくな稽古もせず、アートへの想いを醸造する時間もそれを支える心を鍛えるための負荷の掛け方も知らない所謂アマチュアである。
アマチュアといっても、新聞などの選評に選ばれることを糧に日々の生活の中で俳句、短歌を書き続ける人、詩人や小説家を夢見て雑誌に投稿し続けたり、あるいは同人誌を編む人、甲子園や花園を目指して苦しい練習に堪える青少年達など、他の多くの文化ジャンルの時には趣味のレベルを超えた、人によっては人生を掛ける程の情熱を傾ける人達に比べると舞踏家のそれは安直に思えることがある。既に他ジャンルの下地を持った人か天才でも無い限り、いくら身体表現の曖昧さを自由の根拠にするアートジャンルとはいえ、金銭を媒介にして人前で発表する水準には及ばないものが多いのは致し方ない。
私はアートにおけるアマチュアリズムは否定するどころか歓迎すべきものと思っている。そこにこそ実りを求める自由は多彩に萌芽する。しかし、自由はその定義が200以上あると云われる程捕らえ所のないものだ。土方はワークショップで自由を「何か成し終えた後の充実感」と言う。講習生に舞踏の思いつき的行為を戒める(そこには「形」へのいざないが示唆されていた)ためであった。
また、舞踏の形態は多様であるがゆえに、それへの批評は盲爆し易い。例えば、舞台俳優の場合は舞台で声が通るか否か?モダン・ダンサーなら股関節の開き方は如何程か?など技術的な判断基準がある。批評行為も最低限の指標は立つ。
しかし、舞踏はそれぞれの表現者によりアート観が根本的に違う場合が間々ある。技術もまちまちであり共通コードは無いとも言える。そこに舞踏批評の難しさがあるが、舞踏に対して恣意的で無責任に対する輩にとって夢想の場を提供することにもなっている。彼等に振り回されるビギナーにとっては気の毒な状況だ。私は自身の非力を恥じ入る他ない。
「千里眼」とか「不死身」とか、超人的なイメージで自身を演出していた土方だが、飲酒による肝硬変から早過ぎる死を迎えているのである。
9.「門外不出」のメソッド
「秘すれば花」的なプレゼンテーション、マネージメント法を取り入れる主宰者・経営者はどの業界にでもいるのであろう。「風姿花伝」に記された能の技芸メソッドはプレゼンテーション術まで含めた実践的なものである。茶道、華道、剣道等、日本的「道」思想を技芸の根幹に据える伝統芸能では、師匠の弟子へのメソッドの継承は、技術だけでなく精神的、身体的(心と体の)シンクロをもって伝えられるとされる。「家名」の信用を壊さないための「一子相伝」という継承システムは未だに強く残る業界もある。
所謂「免許皆伝」という、あるハードルをクリアーした者にのみ伝授される「御家」のメソッドは「門外不出」の「秘伝」として一般には公開されない場合が多い。このシステムは伝統に基づく業種から、今日では日本人の食生活の必須アイテムとなったラーメン屋さん等まで広く採用されている。
「門外不出」とか「秘伝」という言葉の効用は二つある。
一つは、同業のライバル達にメソッドが盗まれるのを防ぐため。営業上、個性が重要視される業界では他との差異化が必要条件となる。また、表現者の理念から不完全な形でメソッドが広まることを防止するというモラル上の姿勢による場合もある。不埒と想える弟子を「破門」と公表することにより、表現の理念を貫くこともある。
いま一つは、舞台裏を明かすことで表現に対するオーディエンス(お客さん)の想像力を限定させないため。批評のためにスコアーやコード、コンテキストを媒介にしながら表現に対する専門家と違い、一般のお客さんは精神的、身体的に、よりニュートラルに表現と接する。お客さんと表現者は観劇料、飲食料など金銭を媒介にする契約関係を結ぶ。そこではお客さんは個々に自立した多様な好みを、提示された表現の判断基準にする権利が与えられ、下した判断に公的な責任を取る必要はない。勿論、表現者サイドにも「客を選ぶ」権利が与えられている故、両者はフェアーな関係と言える。
ただ、イニシアティブを執るのはあくまで両者の関係の契機を作る表現者サイドであり、その営業活動の一貫として宣伝をする。強い理念において己を律する表現者以外は、お客さんとの関係を有利に構築するための先入観を与えようとするのが一般的だ。それは、「権威」付けやモードの「先取り」等のプレゼンテーションという商業主義的な色彩を帯び、その方法はテレビや雑誌等マスコミを利用するものからチラシ、口コミによるものまで規模によって様々である。ここで「門外不出」、「秘伝」などとコピーを提示されれば、言葉は表現の内容、内実を脚色する手段となる。得てして誇大な。一概に善し悪しは言えないが。
さて、「門外不出」の「秘伝」とされる土方の舞踏メソッドとは如何なるものか?彼は何故、メソッドを「封印」したのか?営業上の理由もあるだろうが、後人を不毛な幻想に耽溺させないためにも、また安直な演出だけの舞踏擬商売を跳梁させないためにも公開すべきだったのではないかと思っている。完成に至っていない(土方自身は感覚的に捉えていた要素が多いゆえ整備されていず、そのために限界が露呈していた)とはいえ、彼の舞踏メソッドは時間的にも空間的にも限定された個々の体を通してその束縛から人間を解放していこうとする大いなる魅力を内包していると私は感じた。自他不二の文化で、何も隠す必要はない。良いもんは分ち合う他ないじゃない、と私は思うのだが。これはアートの理念に関わる問題である。
「みんな(技術を)盗んでいくけどね、本当に習得するにはどちらかが死ななくちゃだめなんだよ」と彼は私の顔を見て言ってニヤッと笑ったが、多分、生来病弱な私は抱え込む死の分量が人より予め多いのかもしれない。
言葉はそれが持つ示唆性により「無いものが在るもの」と看做される場合がある。「神」という言葉があることによって、神の実在感はリアリティーを持つ。マークやアイコン、キャラクターグッズなど記号性を備える象徴物も言葉と同じ役割を担わされることがある。白塗りメイク、坊主頭、裸、ぼろ着物などを意匠するグロテスクな写真集の多くもそのフレーミングの画一性から神秘性を伴う舞踏の概念を示唆しもするが、内実と大きく距離を持つものが少なくない。もう殆ど記号だ。
10.舞踏の言葉
街筋の店頭に掲げられた「在庫処分市」、「本日特売」の看板のコピーに心を踊らせるお客さんの心理は如何なものなのか?気持ちは分かる。私もバーゲン品を買ったときなど、得した気持ちになり妙に浮き浮きする。ところが、その看板は何ヶ月も、時には何年も外されることのない店がある。少し複雑な心持ちがする。
土方はその活動に「暗黒舞踊派結成八周年記念」、「燔犧大踏鑑第二次暗黒舞踏派結束記念公演」、「アスベスト館売却成立記念公演」とかいう大業な言葉を数多く掲げてきた。
「封印」という言葉も使う。「封印」とは「魔除け札」のように、ある力を封じる印としての意味を持つが、単に力がなくなり捨て去られた内容にこの言葉が用いられると、確かに「在る」が二度と「見れない、味わえない」という重みを与え、表現者の現在の活動に歴史性を持たせる営業上の効果がある。
「封印」されているのだから実際に在るか無いか、若しくは例えそれが在ったとしても「なんぼ」のものなのか検証不能の価値を「封印」は、その言葉の示唆性により対象物を厳かに脚色する。
観客の挑発的、煽動的色彩を帯びた初期の舞踏で使われた言葉は、相乗効果によりその舞台活動を脚色する営業言語の「キャッチコピー」の色合いを持つものが多かった。土方にかかれば「舞踏」という古来からの日本語の言葉も、それが「ある」か「ない」かとは関わりなくポエジーの核を現出させる。健康食品の効用と違い「ある」、「ない」の検証のしようもないのだから詐欺罪に問われることはない。そこがアートの面白さとも言えるが、良心だけは忘れたくない。土方の死後、その親族が「舞踏」という言葉を「登録商標」しようとしたというのだから呆れる。勿論、通る筈もない。こういう勘違い野郎も出てくるのだから言葉は気を付けなくてはならない。
当時の土方の取り巻きの文学者の中にも彼の活動に言葉で参画しようとする者も出てくる。土方もまた、言葉のプロである彼等を情宣活動に取り込もうとする。例えば、’68年に日本青年館で行われた「土方巽と日本人」という公演の評で種村季弘の「肉体の叛乱」という言葉を公演後引用し改題とする。ラディゲの「肉体の悪魔」、鈴木清順監督の映画作品「肉体の門」等、当時の時代の文化的コンテキストと親和するこの言葉は、体を扱う実際の現場とは距離を持つとしても、営業コピーとしては存在感を放つ。
巧緻取り混ぜ舞踏の営業上の「コピー」を井戸端会議で持ち出す輩は後を絶たない。彼等は自分の言葉で喋ることが出来ない。
例えば、舞踏とは「命がけで突っ立つ死体(土方)」などという言説を初対面で突き付けられ、たじろがない人は少ないのではないか。「命」とか「死」とか健康で正常な社会人にとっては非日常的な語彙と、意味上矛盾をきたす表現。これが土方の名を冠したイベントなどで白塗りメイク、裸、坊主頭、眉毛を剃る等のエキセントリックな意匠を凝らし、しかもアカデミックな評価も受けている舞踏の鳴り物入りのプレゼンテーション映像と重層するなら観客も含めた舞踏のビギナーにとっては己の素直な判断を許さない威圧感を与える。
この場合、それを喋る人間が、言葉の内容をどれだけ咀嚼しているかは問われない。不可解な言葉のインパクトがそれを無防備に聞かされる人に、喋る人を喋れる人に錯覚させ、両者の関係を序列化する。喋る人は、聞く人のたじろぐ姿を見て優越意識を持ち言葉の効用を確信する。そして、今度は聞く人が、眼前にいる喋る人が持つ優越性への憧憬から己が喋る人へと変貌する。客が営業マンにその役割を転化させるのである。
実質の検証無しに客を営業マンとして取り込み組織を拡張する方式を用いるのは「ネズミ講」と心ない宗教組織である。この時、必ず得をするのは既得権者なのである。故に早晩、破綻する。 実質と言葉が遊離していれば必然的な成り行きであろう。
生存に関わる疾患を持つ人の体の感受性は皮膚を一枚脱ぎ捨てたように敏感な場合が多い。舞踏の言葉の遊びには付き合っている余裕はない。彼等は瞬時に見極める。彼等は言葉を体で読む。私なども持病の喘息で随分と苦しんできたので彼等の想いは少しばかりは分かるつもりだ〔人間の境界領域からその形を採集(振付けのためにピックアップ)しようとする土方舞踏は心身障害者の体の形と動きを模倣しているが、その姿勢は当時のモード哲学でのフィールドワークに寄せられた批判と同じように、ある高みからの特権的視座に依っているように感じられる。その傲慢さは表現においてすかさず限界を露呈する〕。
私は何も表現に先入観を与える言葉を使用してはいけないなどと思っていない。
事前情報は、より深く多様な表現理解(気付き)のための道標となりもする。ただ、表現の内実と実質的に噛み合わないような「コピー」の言説は目先の営業上の効果は上がる一方、表現の真の理解へと繋がる言葉と混同され、長い目で見るなら表現に誤解を招き衰退させるリスクを内包させることになるのである。
先にも述べたが舞踏の場合、実質表現を具体的に成立させる技術は他の多くの業種と比べて開示されていない分量が大変多い。表現技術を知らされていない者が「コピー」の言葉と表現の内実を示唆する言葉を腑分けするのは難しい。
生きている人間の定義にまで通底しようとする故に括り切れない形、挫折を宿命づけられようが追い縋らざるを得ない舞踏の形を、己というアイデンティティーを確保するために使い古された言葉で安直な足場を突貫で組み立てようとする行為はおぞましい。人間アートを目指す舞踏は、不要物として排泄された経験を足場にすることを断固拒否する。
人には今を生き抜くための言葉こそ必要だ。それは何も耳目を惹くような派手なものとは限らない。
しかし、生きるのにはパンも必要だから舞踏のキャッチコピーも、その功罪を受け止め切る責任さえ持てば別段、悪いことではないのである。
体と言葉の綾なす世界は、これから人類に何を開示してくれるのだろう。
アジア人同士でも共通語になってしまっている苦手な英語に日々四苦八苦する私だが、最近「猫語」は分かるようになってきた。先生は「友惠ニャンコ先生」という名の猫なのだが、実に教え方が上手い。彼女は体を縦横無尽に駆使する。単なる観念言語ではないのである。
同じ漢字を使う中国語は日本人にとっては一見馴染み易く思えるが、日本語との差異は絶後の感がある。ソウルからはここ10年で漢字の看板が減った。これから日本はアジア文化との創造的交流により、また未踏の人間観が培われていくのではないだろうか。その場合、大事なのは「一人に一つの体」という人間であるための絶対条件の足場だと再認することだと思う。そこに名前はいらない。体は記号になってはいけない。象徴物でもない。
11.舞踏の形
さて、舞踏の創成期をリードしてきた土方は4年間のブランクの後、新たなシェアとなった欧米で活躍する若手を後追いする形で’80年代を迎える。
活動停止期間に霧散した組織の立て直しのためには、まず団員集めから始める。その活動の一貫としてワークショップを開催したことは既に記した。
注目を浴びる若手舞踏家に対して、創始者としての沽券は保たなければならない。そして、土方にとって沽券とは「形」であった。
それまで舞踏と縁遠かったファッションやテレビコマーシャル業界までそのシェアを拡大していくことは土方にとっては想定外の現象であった。こうした状況に対するには文学者など過去の文化人との交友録を寄せ集めるだけでは自身の舞踏のプレゼンテーションには不充分であった。
シェアの拡大に伴い表現も多様化する中「舞踏とは何か?」との問いが創始者である土方に向けられる。「舞踏は誰にも括らせない」と明言していた土方は創成期に同じ問いに対して「命がけで突っ立つ死体」との応えも、既存の舞踏ファンならともかく時代性にそぐい切らないと感じた。舞踏のジャンルとしての核を具体的に明示する必要に迫られる。
多様化していきながらも注目を浴びる舞踏、その核。それが「ある」のか「ない」のかの問題も含めてどう対処するかが渦中の土方のポジショニングの決めてとなる。他の舞踏家達との相対化を恐れて、とりあえずペンディングとした。’85年、東京の各所で行われた「舞踏フェスティバル」には活気付く他の舞踏家達を尻目に自身は公演を行わない。’87年に予定された西武デパート主催による「銀座セゾン劇場柿落とし公演」への出演が眼中にもあった。
「形」はジャンルとしての定義付けを避けて通れない。少なくとも時間も場所も測定できる何かで無い限り。「形」とは人の世の抽象だからだ。
一つの表現がもし表現者個人に収斂されるものならばジャンルはいらない。外部者が便宜的に表現(者)を括る為にジャンル化させることはある。例えば「前衛」とか「コンテンポラリー」がそれに当たる。しかし、土方はこれらの言葉で括り切られることを嫌った。彼の活動が「前衛舞踊」から「暗黒舞踊」、「暗黒舞踏」へとその名称を変化させてきたことは既に記した。これは土方の意志である。
初期の頃、モダン・ダンス出身の土方を中心に実験的な活動を行ったことで前衛舞踊家と目されたが、そこに集う者はモダン・ダンスの経験者は少なくなる。踊りの未経験者が無理なく参加できる(多くの舞踊表現はそれを修練によって導くのに時間が掛かる)新しい踊りの形態が今日「舞踏」と云われる身体表現アートの契機になる。
土方は’73年、渋谷西武デパート内の西武劇場の柿落とし公演「静かな家」での失敗(「よそよそしさを感じさせたのは、劇場がモダンできちっとしていたからの様に思えてならない。〜観客は坐り心地よい椅子に反応の端緒を失ったかのようであった」市川雅氏)を機に大きな転換を迎える。日本人の体の特異性に着眼した画期的な演出・作舞法を編み出し、舞踏の礎を築こうとした。それは西洋舞踊からの完全な決別を意味した。
これは彼の弟子であり恋人である芦川羊子との共同作業によって目黒の稽古場の仮設舞台による公演によって形作られた。「白桃房」シリーズ13公演(1〜3は古巣の新宿アート・ビレッジで上演)である。終盤の「ひとがた」、「鯨線上の奥方」でその本領が発揮され、高い評価を得た。演出、振付けに徹した彼自身は以後、舞台に立つことはない。また、東京育ちの芦川の主演公演では「東北」というプレゼンテーションはなされていない。
キャパシティー60余り、奥行き2間半、幅3間半程の舞台と客席が一体化した稽古場劇場は小劇場特有の体感をもコミュニケーションの手段にし得る空間であった。
貸し劇場と違い時間などシステムに縛られず存分な実験作業が行うことができた。
土方の感性に直結し得た操作性の良い簡易な照明、音響システム。既存の舞踊経験の無い、その意味ではニュートラルな体を持つ気心の知れた踊り手との作業。
上記の条件が土方舞踏メソッドを確立させた訳だが、このことが逆に土方舞踏の限界を内包することにもなる。この時点では本人は気付いてはいないが、土方舞踏は劇場を選ぶのである。また、彼の創作は良いも悪いも一人の踊り手の精神的、身体的資質に依存することになる。土方はこの状況を危惧し、晩年まで幾人かの踊り手に特別な入れ込みをしようとするが、踊り手の退団などで頓挫する。
’76年の「白桃房シリーズ公演」最後の「鯨線上の奥方」は作品の密度が増しすぎ力押しで成功に導いたが、前作「ひとがた」の方がより人気があった。これはよくあることだが、作品のスタイルが完成すると、それに続く作品はどうしても前作の形をベースに加算法的な創作に終始しそのため密度が高くなり、いわゆる「抜け」の美が失われてしまう。
何にしても、メソッド確立後の4年間の活動休止は惜しまれてならない。というのは、メソッドを精査し発展させるための体力を養う期間を奪ったからだ。弟子も芦川一人になってしまう。’83年のヨーロッパ公演の失敗もしかたのないことであった。作品での使用楽曲が市販の西洋音楽であったこともネックになったようだ。
土方舞踏の特色としては作品のプロット毎に踊りがパーツ分け出来ることが挙げられる。このパーツを組み合わせて一作品とすることから作品構成はコラージュと呼ばれていた訳だが、全体としては「序破急」という形を成しているように思える。小劇場演劇の構成に類似する。
踊りとして独立性の高いパーツは抜き出され他の作品に組み入れられることもある。例えば、’76年「ひとがた」の「桜の踊り」(加山又造の桜の屏風を模写したは美術パネル、婚礼着物を衣装とした踊り)は’83、’85年「日本の乳房」に組み入れられている(西洋物を使用することへの海外公演の批判から音楽はパーシー・フェイス・オーケストラの「サマー・ドリーム」から効果音「地鳴り」に換えているために、音楽、音響操作、美術、照明、踊りが絶妙に混淆することで産み出されたシーンからダイナミズムは失われ、ゴリ押しの感は拭えない)。’76年「鯨線上の奥方」の「フサ(老婆の名前)の踊り」は’83年「フック・オフ88−景色へ一瓲の髪型」に組み入れられている。
土方の踊りは、生前、本人が国立劇場での公演を打診していたことからも分かるように、跳んだり開脚したりの西洋舞踊とは根本的に体の使い方が違い日本舞踊に近いが、一部の例外を除き詞に頼らない土方の振付けは日本舞踊の当て振りには依らない。また、あくまでも踊りである彼の舞踏に体をオブジェとして扱う振り付けはない。これは舞踏の形を示唆する上で、その基軸となる体の尊厳に関わる問題を提起する。
12.土方舞踏メソッドの生成
土方の作品創作はまず主要になる踊り手への振付けから始まる。振付け過程で舞台美術(パネル)は想定される。あらかたの振付けと作品構成、舞台美術が完成されてから音楽を決め、荒仕込みの照明を設置した舞台に乗せてみる。ところが、シーンは思うように成立しない。これは美術館に展示される場合と違い(普通、観客が一つの美術作品を観る時間は数十秒であるとされる)長時間観客の目に晒される舞台美術が場のテンションを固定化するために、その中で踊られる緻密だが緩慢で地味な踊り手の動きは単調に感じられたのである。シーンに蠢きが生まれない。観客が飽きるのに時間は掛からない。土方の踊り手は舞台環境に対して主体的に参画する手立てをその振付けに組み入れられていないことも大きな原因となる。土方の踊り手は操り人形と揶揄されていた所以でもある。
土方にとっては想定外となる事態の打開策として、彼は独自の音響、照明操作による演出法を編み出した。この演出法抜きでは土方の舞台は成立し得ない。
普通、日本舞踊の公演では舞台照明はフラットになる。彼はこれをモデリングしたと思われるが、日本舞踊の場合、美術と踊りの関係はその歴史の中で緊密さを醸成し得ていた(とはいえ現今、日本舞踊の魅力は不振とされ、海外公演での招聘は皆無に近い)。しかし、土方の舞台ではそうはいかない。振付けと美術の関係を観念で捉えていたということになる。音楽との関係と然り。
土方の照明は「呼吸をするように」といわれるように美術パネルや踊り手を煽るように明暗を繰り返す(踊り手に全く照明が当たらないこともある)。音響操作では音楽に効果音やナレーションをコラージュさせるなどの工夫が為される。シーンにダイナミズムを生み出すためである。これにより劇場内が生き物のように蠢き出す。しかし、観客の意識は踊り手に収斂されている。これは照明、音響操作により観客の聴覚や周辺視野の情報、体感(音の振動、場内の熱気)などの知覚情報を踊り手への視覚情報に転化させるからである。故に観客の視線は踊り手に惹き付けられる。土方に振付けられた踊り手はフラットな場では観客を長時間惹き付け続けることは出来ない。踊り手単体の場合だが、只でさえ動きの少ない振付けられた踊り手の体の質感が固定化しているために観客の視線の動きがパターン化してしまい、観客が飽きる(場が散漫に感じられる)のに時間は要さない。芦川にしてもその形の堅牢さ(写真でいえばフルショットでキッカリ収まるサイズ)故、観客の視線を一定時間(踊りによっては5分。長くて7分)釘付けにすることはできても、舞台環境(舞台空間、共演者、舞台美術、音楽など)と浸潤する柔軟さを持ち合わせていないため体の質感は単調であり同じ状況に陥る。また、彼女の視点は舞台の立ち位置に多く頼るために舞台環境へのそれは育っていなかった。幾つものシーンを重層させて複合感覚的なメッセージを生み出すには、シーンの理解が淡白すぎる。この視座では作品は創れない。私には土方と芦川は割り符の関係に感じられ、芦川の欠落部分を観ると土方が浮かび上がってくるように思えた。
前述したように、土方の舞踏メソッドは狭い稽古場劇場で培われた故に、その適応範囲には自ずと限界が生じる。舞台と客席が一体化した劇場では観客が感じる体感までも劇場内効果として作品に取り込むこともできたが、小劇場といってもキャパシティーが大きくなるか、場内の質感の変化によってこの効果は一様には機能しない。
また、舞台と客席が区切られている劇場では照明、音響操作は観客から鳥瞰され、いわゆる「段取り」が読まれてしまい白けさせることにもなる。それ以前に劇場の業務用の照明、音響機材の操作は手前勝手にはいかない。音の振動は座り心地の良い椅子に吸収され観客の体感による知覚情報は奪われる。また完備された空調システムは場内の熱気を減衰させる。
晩年の土方作品では、その上演中、照明オペレーターに指示を出し続ける土方は調光室から追い出されるという悲惨な状況を招いた。作品は彷徨するのだが、対処のしようもない。照明は彼の指示に即応的に対応することはできないのである。舞踏の照明は演出家である土方しかできない訳だが、彼は照明のシステムも段取りも知らなかった。振付けを知らされていない(土方はそれを秘匿していた)オペレーターの音響操作も遅れがちになる。舞踏が注目される中、プレゼンテーションの言葉のパワーと実質の間にはその世界に可成りのギャップがあったように感じられた。舞踏を脚色する言葉は、未だ到達し得ない舞踏の不備を表面的に購いはしたが、同時にそのピュアーな魅力を隠すことにもなり、体を置き去りにした言葉に耽溺する人間を多出することになった。
私は土方舞踏のメソッドを徹底的に検証した。それは数多くの小劇場、実験スペース、多目的ホール、ライブハウス、オペラハウス、マルチメディア(テレビ電話回線により遠隔地による講習会、コラボレーション。国内外、20ヶ所以上で行う)などでの公演を通して、生成破壊を繰り返しながらの熾烈な作業であった。他ジャンルの多くの共演者や熱心な舞踏ファンに支えられたことは言うまでもない。同時代性を生きる彼等との創造的な交流は、その進化において土方舞踏から友惠舞踏への脱皮を促すものであった。しかし、これも土方の示そうとした舞踏の核に導かれてのことのように思う。
カンパニー発足当時、私達には作品も無く、衣装や美術、音楽も無く、自前の稽古場も無く、お金も無く、修練を積んだスタッフも無く、あるのは体だけだった。それを支えたのは土方舞踏への深い想いだった。
舞踏の技術は体に理不尽な負担を強いることはしない。個々あるがままの体のポテンシャルを如何に引き出すかに着目する。また、それぞれの民族、国民、人種の文化、風土を表象する体の違いを個性と捉える。その意味では普遍的なコミュニケーション手段への可能性を秘めている。
土方舞踏メソッドの構造や密度は存分に心得ているとの自負を持ち、それを乗り越えるメソッドを開拓し続けてきた私であるが、今でも現場では土方の創作の波動を感じることがある。(土方はここまできていたのか)と、彼との想わぬ邂逅に一人苦笑することもある。
何れにしても舞踏の技術は、人が抱き続ける大いなる夢の道程として途上なのである。
第二部につづく
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