舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。

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新宿アート・ビレッジ(仮題)

文:芦川羊子
 新宿アート・ビレッジ

 アート・ビレッジは、新宿歌舞伎町のコマ劇場と、映画館に囲まれた広場に通じる路地のなかにあった。
 雑居ビルの三階に映画上映の目的でつくられたスペースである。
 「幻獣社」舞踏公演のためにスクリーンの下に平台を組み、間口二間半、奥行き一間半にも満たない舞台をつくった。
 客席は約四十席、立見を入れて五十人ほどを収容した。平日は三時と五時の二回公演、日曜、祭日には七時の公演が加わり三回公演が行われた。一本の演目を二ヶ月ほど上演した。収入は歩合制だった。
 集客は建物入口に手書きの看板を立てて、路上で行った。
 処は歌舞伎町、風俗店の密集している地域である。客引きのお兄さんたちと同じ路上で呼び込みを行う。内心怖いと思うけど、負けられない。はじめは睨みをきかしていたお兄さんも、毎日顔を合わせるようになると、彼らの方から声をかけてくるようになった。そのお兄さんも、めぼしい客が通ると、顔つきが変る。場所柄、客層は似通っていた。農閑期には土木工事の出稼ぎに来ていた人も多い。

 看板に出演者の白塗りヌード写真と、家のアルバムから抜き出した幼年期の写真を並べ、
「幼いこの子が、何の因果か、花の東京で、このようないまわしい姿を晒し…」
と、見世物小屋かストリップ小屋かと見誤る仕掛けにつられて、客が入ってくる。
 日曜、祭日には立見もでたが、平日は十人前後の客入りだった。
 開演時間になると、馬の交尾の映画を上映する。七分ほどの映画が、フィルムが擦り切れて、仕舞いには三、四分になった。
 この後、カラヤン指揮のLPレコードに針を落とし、土方の映像をドボルザークの「新世界−第三、第四楽章」に合わせスライド機で上映する。スライド機を手に持ち、場内の壁から壁へ、天井から床へ映像を動かす手順を土方が指示した。スタッフに余裕がないと出演者がその操作を行う。

 二十五分ほどの映像が終わって、実演に入る。白いブルーマーに新聞紙を詰め込んだニワトリ女、胸に破れ太鼓をくくりつけ、ガラスの外れた窓枠と格闘する女。「幻獣社」初演の「ギバサ」はこの後、白塗りレスビアン、ストロボ照明のディスコダンスのシーンへと続く。
 入場料を払い、訳のわからない映像に付き合わされた観客の欲望と、渡り合う。
(入場料を騙し取られた)
と、悟らせないよう、はだかは商品として外せない。
 「幻獣社」公演は、エロスが売り物の舞踏ショーだった。
 ストリップを期待してきた観客の欲望を無視できないどころか、私の表現能力はこの観客の目に鍛えられた。
 暗い客席から送られる視線との真剣勝負。
 床を這う四つんばいが、観客の視線にもっとも敏感になれたのは、その姿態のせいだろう。頭と同じ高さに突き出した尻で、視線を秒刻みに捉えた。
 新宿には私の実家がある。小学校の同級生も、サングラスをかけて、こっそりと私のはだかを見に来た。間の悪いことに、こういうときに限って、裸体をわずかに覆っている小さなバタフライが外れるものなのだ。中断することもできないので、最後は全裸になって踊った。
 正月、人通りの少ない自宅付近を歩いていると、この同級生とばったり会った。どちらも顔を赤らめて、挨拶もそこそこに別れた。

 「幻獣社」公演の、エロティシズムと等身大のアクションは、舞踏の内容として限界があり、土方の振付が綿密になってくると、必要でなくなる。
 さらに友惠しづねが土方舞踏を精度において昇華させた今日の舞踏とは、あきらかに次元が違っている。
 しかし、うごきの緩急を識る微妙な管理が必要になってきたとき、欲望のまなざしにさらされた経験は、得がたい成果をもたらした。
 「美術手帖」の取材記事は、「アート・ビレッジの暗い場内には新宿署の刑事が張込みでもしているような気配だ」と、記述している。
 他にも当時隆盛だった週刊誌のグラビアや記事を読んで、コマ劇場に出演中の役者ものぞきにくるようになった。
 連日興行といっても、楽屋にブーケなどを届ける気の利いた観客がいたわけではなく、エロスが売り物の芸術か、ゲテモノショーか、きわどいところにあったのだ。
 ある日土方が大野一雄を招待した。
 見終わった大野一雄は「女の人の踊りは汚いですね」と、率直な感想を述べて帰られた。

 二作目「売ラブ」は新宿アート・シアターでの約一ヶ月の通し公演「東北歌舞伎‐四季のための二十七晩」「疱瘡譚」の下絵になり、三作目「すさめ玉」は同タイトルで上演された。
 使用した音楽は当時流行のビートルズだった。森進一の歌う古賀メロディーに、蝉や風という自然音も使われた。
 こうして「幻獣社」公演は、映画館の新宿アート・シアターで、夜の映画上映が終わった後に、簡単な舞台を作り上演した「東北歌舞伎‐四季のための二十七晩」と、渋谷パルコにオープンした西武劇場(現パルコ劇場)における「静かな家」上演の重要な布石になった。

 一作品の上演が二、三ヶ月に及ぶ興行なので、作品が仕上がれば、演出の土方は毎日顔をだす必要はない。それでも、歌舞伎町の雑踏を好んで、よく出かけてきた。
 オーナーの園田某は概して淡白な人間で、土方が階段を上がってくると、さっさと受付を明け渡した。土方にも魂胆があって、数人分の入場料をごまかすのである。オーナーも私達も察知して笑って横目で見ていた。
 長髪をベレー帽で隠し、だみ声でお客と対応した土方は、受付を降りると入場料をポケットに新宿の街に消えた。
 たまの日曜日には詩人の吉岡実と待ち合わせることもあった。アート・ビレッジの近くに、吉岡実行きつけのコーヒーショップ「トップ」がある。コーヒーを飲みながら、ふたりの芸術談義に花が咲いた。
 見世物小屋もどきの舞踏ショーからはじまったアート・ビレッジの「幻獣社」公演は、アンダーグラウンド演劇のさきがけともなり、時代の一翼を担った。

 ジャズ喫茶タロー

 同じビルの二階にジャズ喫茶のタローがあった。四階はタローの楽器置き場で、ドラムセットや音響機材で埋まっていた。ジャズマン志望のボーヤが、将来に不安の気色を浮かべて、しょぼくれた顔で時折ドラムを叩いていた。アート・ビレッジの出演者も、化粧のために四階の一部に間借りした。
 タローの演奏は、階上のアート・ビレッジまで、振動とともに伝わった。
 「幻獣社」公演の舞台に出演させていたウサギが、三階と四階の大音響と環境に順応して、日ごとに逞しくなった。そのうち各階を駆け回るようになり、タローに紛れ込んだウサギを、本番前に探しにいくこともよくあった。
 タローのミュージシャンも、手書きの看板を並べ立て、路上で呼びこみをする私達を(なんだ、こいつら…)と、好奇の目で見ていた。
 タローは、新宿に何軒もあったレコード中心のジャズ喫茶と違って、生演奏を主体に行う数少ないジャズ喫茶。ヒッピーやフォークゲリラといった若者文化で沸いた新宿の街中でも、プロのジャズマンが出入りするタローは、若者には近寄りがたい雰囲気を放っていた。

 現在ある「友惠しづねと白桃房」の前身が「白桃房」、そのまた前身の「幻獣社」公演がアート・ビレッジで行われた一九六九年、タローには、フリージャズ界の精鋭が多数出演していた。
 ジャズと舞踏、異なるジャンルのライブが同時代、同ビルの上下階で行われていたが、その当時、両者が共演することは想像もできなかった。
 ところが、友惠しづねがはじめての舞踏と音楽のコラボレーションによるセッションを行った相手(共演者)が、当時のタローに出演していたウッド・ベース奏者の吉沢元治だった。
 六十年代、土方と同時代に活動したジャズ・ミュージシャンが、八十年代の友惠しづねによって、音楽と舞踏の濃密なコラボレーションを実践することになる。血脈とは、こういうことをいうのだろう。
 以来「友惠しづねと白桃房」のメンバーは、実に多彩な異業種間コラボレーションを行い、音楽で共演したミュージシャンのジャンルもジャズ、ロック、クラシック、邦楽と多様で、国内外を問わず百人以上のミュージシャン名を挙げられる。

 ショークラブへ

 五時の興行が終ると、次の仕事場に回る。日替わりで行く先が変わる。
赤坂のクラブ・スペース・カプセルもそのひとつ。各界の著名人や、会社の接待に利用されていた高級クラブである。ソ連が有人飛行に成功した当時の宇宙ブームの最中、建築家の黒川紀章がスペース・カプセル内をイメージした、ステンレスの内装が話題を呼んでいた。
 アイドルタレントの出演もあり、土方の演出によるショーや、寿三郎の人形劇、寺山修司、唐十郎の演劇が上演された。出演団体の顔ぶれだけでも、この手のクラブとしては、特異なショー内容である。
 土方の演出による出し物は、レスビアンショー。白塗りの肌は、スライドの映写効果がよい。パリのショークラブ・クレージーホースをご存知の方は想像していただければよい。
 スライドとストロボ照明のなかで展開するレスビアンと男女のアダージョ。白塗り裸体に着用した、中世ヨーロッパの貞操帯のレプリカと、ゴールドの模造巨大男根が人目を引いた。
 クライマックスは、両腕を広げた大きさにカットした真鍮板を持って、震わせ反らせる。ストロボ照明の反射がスペース・カプセルのステンレスの内装と相乗して効果をあげた。
 土方が「土方巽と日本人‐肉体の叛乱」の舞台で使用した真鍮板からの発想。扱いやすい厚さの真鍮板を目黒川沿いの工業地帯に買いに行った。
 「材料屋さんや、板金屋さんが、沢山あるからね。板物(いたもん)というんだけど」と、専門用語で話す友惠しづねの、鋳物工場を経営する生家がこの地域にあるのも不思議な縁である。
 当時、アスベスト館に出入りしていた人間が、このサイズの真鍮板を今でも舞踏公演で使用しているようだが、出所はこのスペース・カプセルである。
 貞操帯は一九六八年、澁澤龍彦の責任編集で創刊した「血と薔薇」二号で、私がモデルになり着用したもの。製作は人形作家の土井典。以来、貞操帯は土方の演出するショーには欠かせないアイテムとなった。
 もうひとつのアイテム、ゴールドの巨大模造男根は、土方がやはり公演で使用したもの。
 この小道具の出処は、ハプニンググループ「ゼロ次元」が「儀式」と称する街頭パフォーマンスで着用していたものを、土方が依頼して製作してもらった。
 主宰の加藤好弘は電気の部品製造工場を経営。前衛集団「ゼロ次元」のメンバー全員が工員という、一般社会人で構成されていた。
 依頼を受けた加藤好弘は数日後「メンバーのなかで、一番立派なものに十センチ足した」と、持参した金色の巨大男根には、二十センチはあろうという、黒々としたかもじがついていた。
 勃起した男根を石膏で型取り、樹脂を流し込んで作る工程を、熱心に語る加藤好弘の姿に、静脈も鮮やかに浮かぶ模造男根を直視する恥ずかしさも、薄らいだ。
 こうして、加藤好弘が提供してくれた模造男根が「土方巽と日本人‐肉体の叛乱」で使用されるわけだが、どういうわけか、舞踏の実態なくして土方巽アーカイブと名乗る、企画編集者が刊行している土方巽の写真カタログには、製作者の名前が土井典になっている。いたしかたないとはいえ、事実はどんどん歪められていく。
 この男根のせいばかりでもないだろうが、土方の公演に誘った友人に連絡を取ると「今後、あなたとの、お付き合いを止めさせていただくわ」と、すげない返事が返ってきた。
 公演を終え、暇になった土方は、アスベスト館に出入りしている男達と、この石膏の形取りを真似して遊んでみたが、加藤好弘が提供してくれたものには、とうてい及ばなかった。
 模造男根の話しが長くなったが、「スペース・カプセル」で使用して、さらに複製を依頼、土方演出のクラブでの舞踏ショーになくてはならない小道具になった。
 また、別の曜日には、麻布の写真スタジオを借りて、舞踏ライブを行った。
 今日のように、六本木ヒルズで賑わう麻布界隈からは想像もできない、夜風と車のライトだけが行き通う、さみしい町並みだった。
 付き合いで見に来てくれた観客の足が遠のくと、人気のない通りに立って、呼び込みをする…。
 客が入らず、数ヶ月で中止した。

 アート・ビレッジの五時の公演が終わってキャバレーショーに駆けつけるときは、コマ劇場裏の銭湯で白塗りを落とす。
 脱衣室で服を脱いだとたん、いっせいに視線が集まる。
皮膚病で全身に白い軟膏を塗っていると、思うらしい。聞かれもしないのに「白粉なんですけど、石鹸ですぐ流せるんですよ」などと、お愛想をいって、下座のカランで小さくなって洗い流す。
 ショーの仕事は毎日あった。アスベスト館の入門者は皆、ショーダンスを経験する。ショーダンスの収入は活動以外に、家庭のある土方の生活の経済的基盤でもあった。
 キャバレーの旅回りは、三十日も六十日も続く長旅もあった。キャバレー回りと並行して、今はなくなった、浅草のストリップ劇場。浅草座や浅草フランス座にも出演した。長旅に出ないですむ浅草の劇場は、朝から夜まで一日四回の興行。
 浅草フランス座は、後の北野武こと、ビート・たけしがお笑い芸人の修行中だった。浅草フランス座の四回ステージの合間に、近くのキャバレーで二回のショーを踊ることもある。
 このスケジュールを組むのが土方夫人こと、元藤Y子の仕事で、現場に顔を出さないからこそ、踊り手を酷使するハードなスケジュールが組めた。

 舞踏の志望者が多くなると土方門下の研究生は、ショービジネスの世界で、異様さが目に付く特異な団体となった。
 劇場やキャバレーに入るときの服装が汚いなど、苦情のよく出る私たちを何かとかばってくれたのが、ビート・たけしの師匠にあたるフランス座の座長。この師匠は人情家で、舞踏の稽古が徹夜になり、思わず寝過ごして出番をとちる、業界の非常識も大目に見てくれた。
 師匠の包容力に、周囲から白い目で見られがちな私達は随分助けてもらった。
 キャバレーを回れば、日劇出身者のダンサーと同じステージに立つこともあり、浅草の楽屋ではレビュー時代最後の踊り子達に囲まれて、出番を待つ。
 土方門下のダンサーは、今日はじめてステージに立とうという、素人集団。
ダンスの経験の全くない入門者が、即席の稽古をつけられてステージに立つ。苦肉の策に、キャバレーでは金粉ショー。浅草では男女の絡みを演出したアダジオ・ショーで対処した。これらのアイデアは土方自身が、ショーダンスの経験から考えたのである。

 土方門下のダンサーは、金を持ってないことでも有名だった。その日一日の交通費を手にして、旅回りの長距離列車へ、劇場へ、アート・ビレッジからキャバレーの掛け持ちステージへと、アスベスト館から散ってゆく。
 都内組も掛け持ちのショーを終えて、目黒の稽古場に戻ると深夜になった。
稽古場に戻ってからはじめる深夜の稽古が、精神的な支えだった。従来のバレーやモダンダンスといった、婦女子のお稽古事とは大違いなのである。

 団員が稼ぐショーの収入はどこに消えるのか。土方が第一次暗黒舞踏派公演で残した借金や、家族の贅沢な生活費や子供の養育費、購入した不動産の返済のために消える。このことに理不尽を抱いた入門者は残らない。
稽古場での生活は、質素、清貧をモットーとしていたから、稽古場にたどり着いてからの食事は一汁一菜。おかゆだけということも多い。
 東北をテーマに舞踏を展開した土方のコンセプトに似せて、いたましさと貧困を地で行く共同体である。

 キャバレーが不振になると、ストリップ劇場に仕事先が移る。ストリップ劇場では、恒例の手入れも経験する。研究生の何人もが、警察の摘発を受けて、公然猥褻罪の前科がついた。そんな時、元藤はいつも、いなくなる。
 アスベスト館が活動している間は夢中でいたが、金と芸術を分離しながら、人間関係の均衡を保っていた土方に、金銭面では騙されていたのかもしれない。私もアスベスト館を出るときは、無一文で出ていった。

 六十年代の終わりに第二次暗黒舞踏派が結成されて以来、土方が創作を受け持ち、団員が芸術の無償性を担う一方で、夫人の元藤が土方の創作を媒介にした搾取を行った。
 アスベスト館の活動において、元藤の分担は団員からの搾取であって、活動のプロデュースを行っていたわけではない。それが元藤本人の心得違いで、土方舞踏のプロデュースを行ったという、事実と異なる誤解を周辺に与えている。
 実際、私が参加した全ての企画に、プロデューサーとして元藤Y子の名が記されたことは一度もない。土方は稽古の合間や、公演の合間に、私を相手に今後の活動について語り、現場の下見や、情報収集にもふたりでよく出かけた。
「元藤が踊らないのは、なぜなのか」土方に、聞いたことがある。
「それは、彼女の良心だろう」答えは土方自身の良心をさしている。
 土方の創作と、現実面のバランスは実に絶妙だった。団員には、犠牲と無償行為を徹し、元藤を決して現場に近づけなかった。
 私が土方に師事した二十年とそれ以前に及んで、元藤が一日たりとも舞踏の稽古に出てこなかった理由のひとつである。

 人をまどわすことは、土方の創作の動機でもあり、また魅力でもあり、活動の機動力にもなった。
 創作活動の裏で行われている、搾取について、土方自身が自らのトリックに同化するあまり、団員としても悪意は感じられなかった。
 舞踏に求めた犠牲と無償行為の実践を、土方は団員の共同生活に求めたが、搾取を裏づけにした土方の理想は、やはり強引なところがあった。土方の理想を受け入れ、創作の純粋培養を可能にしたのは大勢いた弟子のなかで、私ひとりだけだった。
 アート・ビレッジの共演者で三人娘と称されたメンバーの、小林嵯峨も一九七二年からスタートした「白桃房連続舞踏公演」の最初期に退団。後に仁村桃子も退団した。
 「白桃房連続舞踏公演」の最終公演「鯨線上の奥方」に出演していた二十人近い団員、準団員も、公演活動が停止すると、
「得をするのは、土方と芦川だけ」と、くもの子を散らすように辞めていった。
残った男弟子には「男は、俺一人でいいよ」と、独立させ、私ひとりが残った。
 これは、土方巽の創作と人間性の掛け値のない実像である。
 土方が生きているかぎり私と元藤の役割分担が守られ、土方の創作も成り立った。

 土方が死んで、私は土方の培養してきた舞踏芸術の未来を友惠しづねに託した。
 友惠しづねによって、土方舞踏の命脈が保たれたことは、奇跡的といっていい。
 友惠しづねに師事して以来、友惠が舞踏の創作を開始して二、三年で、土方舞踏の二十年の密度をしのぐ速度とパワーを目の当たりにした。
 友惠しづねの指導は緻密で、きびしい。妥協ということを知らない。
 そして、土方が舞踏に求めた精神性も、土方と連携してきた創作も、いかに中途半端かを思い知らされるのである。

 友惠しづねの舞踏

 友惠しづねの天才は掛け値なしである。友惠しづねが踊る。その身体感覚は、私が土方と培ってきたものとは次元が違っていた。技術の吸収の速さと応用力は魔法を見させられているようだ。同じ人間だとは思えない。

 「友惠しづねと白桃房」を結成した当初から、友惠しづねが指摘するように、土方舞踏の表現が踊り手のからだの後ろと横にはなく、前にしかない原因は何なのか。
 土方巽の振付は和洋を問わず多くは画家の描いた人物や、抽象空間を私に模写させるところからはじまった。
 長年、土方の振付で踊ってきた私は、土方の選んだ絵が下敷きになっていて、モデルになる絵がないと踊れない。
 自分みずからのイメージでは、からだを拡張(収縮)しているつもりでも、実際にはふすま大位の大きさに終始しているにすぎない。
 また土方舞踏には、イメージした網の目のディテールをからだのなかで作っていくなど、物質の素材感をからだで模写する技術がある。
これらの技術も私はからだのなか、しかも前面でしかできないことを、友惠しづねはからだのなかでも、からだから離れた空間でも、どちらでも自在にできた。
 友惠しづねの舞踏は等身大のからだとは別に、イメージしたもうひとつのからだを現出させることができる。等身大のからだから湧出したイメージのからだが、空間の広がり、奥行き、高さへと拡張していく。
 友惠しづねのイマジネーションとともに、もうひとつのイメージのからだが空間に拡張していく。
 からだの尺度でしか空間を捉えられない私には、友惠しづねのからだの技術は、まるで魔法としか思えない。


 友惠しづねのからだ

 友恵しづねはからだを消すことも、拡張(収縮)することも自在にできた。
 観客の視線(目)が場のすみずみまで行き届くような空間を創る。
 観客に踊り手を見込ませてしまったら、場の意味が失われる。
 友恵しづねの踊りは、からだを見込ませない。
 空間にからだを拡張するための技術はだれにも真似できないほど精度が高い。
 友恵しづねが踊ると、空間が息づく。空間がからだそのものになって息づく。
 等身大のからだという幻想を消すと、観客はオブジェとしてのからだではなく、空間を味わうしかなくなる。
 等身大のからだを消すと、観客とのコミュニケーションはイメージを通して行われる。
 踊り手のからだを通して、イメージを空間に拡張する。
 空間に広がったイメージが、からだの大きさになる。
 空間にイメージを開放させる。
 からだが空間大に拡張しているからできる。
 踊り手のからだから存在感が消えて、それでも深いコミュニケーションが成り立つような舞台。観客が踊る舞台が理想。
 空間には見えない何ものかがそこここに存在することを知っている。
 友惠しづねのからだは粒子化する。

 疾病

 病んだ子供のまま老成した人。
 幼児から衰弱したまま生かされた舞踏家。
 幼いときから疾病の苛酷な訓練を受けていて、誰よりもからだのことに精通しているからである。
 疾病ほど厳しいからだの教師はいない。
 持続的で逃れられない苦痛から、生死は常に隣接する。
 発作の苦痛が極限に達すると、苦しいという意識がぽつんとからだから外に出て楽になる。
 苦しさがからだから遊離して、奇妙な安らぎを覚える。
 奇妙な安楽のなかで、苦しんでいる自分や、空間の細かいところまでが見える。
 意識が苦痛を静観しているという多重構造は、苦しみを美として収斂するほか、生きる手立てがない。
 友恵しづねが土方の描いた舞踏家の特質を備えている由縁である。

友惠しづねの作品

 土方の作品がとくに晩年、かたちだけが優先してしまった。
 友恵しづねの舞踏は澄んでいる。
 友恵しづねの舞踏は味わいの妙に尽きる。
 踊り手の人間性もふくめて、個々の核(コア)になっているものを徹底的に引き出したところから作舞する。
 構成を決めて、切り絵のように踊り手をはめ込むのではない。
 友恵しづねの作品に涙を流す人がいる。
 友恵しづねの作品のみずみずしさ、舞台空間のみずみずしさ、からだのみずみずしさ、柔軟さ。

 友惠が私に踊りを指示する。これまで身につけた技術に固執していては、現場のノルマをこなせないことはわかる。それでも私は腹が立った。
 友惠が団員の前で手本をみせる。
「なんで、このくらいできないの」と、私を促す。
 注視する団員たちが私を軽蔑しているように思えて、私は友惠しづねを恨んだ。そして友惠しづねの神懸り的なからだの技術に嫉妬した。

 友惠しづねは土方舞踏の技術を吸収して「友惠しづねと白桃房」結成二年目には、振付、構成、演出、照明、美術、音楽は自作の作曲作品による「糸宇夢しゅうむ」を利賀フェスティバルで上演。
「初代が死ぬと、レベルが下がるものだが…」と、フェスティバルのディレクター鈴木忠志がいう。
「今までで一番、利賀の舞台を使い切った」と、評価が出る。
 場を共演者として使うことは、友惠しづねの得意とするところだ。

 幾つもの作品をはさんで、二年連続で出演した翌年の利賀フェスティバルでは、上演時間の一時間半をひとりの踊り手が、一粒の種から一本の木になって、舞台上の一箇所に立ち続けるという、舞台史上でも希有な舞踏作品を上演することになる。
 その木はもちろん言葉を発しない。からだの力だけで舞台を修めなくてはならない。
 友惠の演出は、これでもかというように、踊り手を追い込む。しかしその舞台は、友惠のからだそのものだった。終演後、主演の踊り手は、直ちに病院に運び込まれた。
「演じられる場と、舞とがぴたりと合い、劇場は不思議な小宇宙になった。舞台が作りだす空気を呼吸するうちに、見る者の心も異空間を漂っていた」(朝日新聞)評価は絶賛だった。
 土方も、理想にはしていたかもしれないが、技術上発想もできない作品だ。

 その間も多くの作品を作りながら、翌年にはその後アデレード・フェスティバル、エジンバラ・フェスティバルなどで絶賛される「蓮遙」を作る。
 いずれも、稽古は厳しい。初演の松本現代演劇フェスティバルのパンフレットには「過去四年間、これまでに上演された三六作品のなかで最も強烈にオリジナリティーを発揮した舞台であった」との、評を受ける。
 舞踏評論家の長尾一雄は友惠を「舞踏功労賞」「作品賞」に推薦したが、既にその頃の、亡き土方をとりまく、政治が横行する舞踏界には、真に舞踏を見る目を持つ人はいなかった。
 土方舞踏をしらない人間だけが、我が身の利権のために土方を神輿に乗せていた。

 人は、目の前に美味しい物があれば食べてしまう。目の前にお金が置いてあれば、自分のポケットに入れてしまう人間もいる。私は目の前の天才に嫉妬した。それでも公演の評価だけを横取りして、友惠しづねの才能を食べつづけた。
しかし、食べきれない。
 純粋な天才の恐ろしさ。まるで真綿でからだを締め付けられるように、私に迫る。
 あまりにも着実に「舞踏とは何か」を、問い続ける。
 稽古の最中に、友惠しづねがいう。
 「あれ、これ土方もやっているね。とっくに抜いていたと、思ったけど」と、本当に嬉しそうな顔をする。
 今を生きることでしか過去と邂逅できない。
 巡りあいは、いつも今の自分の生き方次第である。

 土方没後、舞踏界には政治が蔓延した。私と元藤との裁判を表徴とする確執が、その一端であったことも否めないが、人間という生き物のからだにこそ成就する舞踏の実像と額縁のなかの象徴との対比、という問題しか提示していないように思える。
 捉えきれないうごめきのなかに自分を賭けることをしない人たち。動かない額縁へなら身勝手な意匠も施せる。本人が生きていれば許すはずもない。
「土方には散々振り回されてきたから、新しいことはやって欲しくないんだよ」
 舞踊評論家の市川雅が、友惠と私に苦笑いしながら言ったことがある。ほとんどの土方ブレーンが去るなか、舞踏に対して責任を取ろうとする人、もしくは取り縋ろう、利用しようという人たちの大方の本音をおそらく代弁している。
 日本発の世界の舞踏Butohを括る日本人の批評家は未だいない。「誰にも括らせない」土方の沽券である、と同時に(お客さん)への配慮なのか。
「遠野物語的にしようかなー」そういう市川雅は、あくまで目の前の現実に対して謙虚であった。
「最期まで、ダンディズムを通した唯一の人だったね」と、友惠はいう。
 ところが、舞踏界にまつわる大方は違った。砂糖に群がる蟻。
 結果的に、友惠への嫉妬を持つ私が、土方の死体に群がる人々の好き勝手な跳梁を煽ることに加担していたのかもしれない。しかし、祭り上げられた額縁からは創造的な何ものをも産み出さないことを、誰でも知っていたはず。
 あまりにも、短期間に完成度の高い作品を創作した友惠しづねの神業は信じがたいものだった。
 土方巽が死んで間もないというのに、そうそうに土方巽を超える天才が出現したら、政治に固執する舞踏関係者の存在理由はひとたまりもない。

 芸術上の信念は絶対譲らない友惠しづねは、打算や駆け引きを一切受け付けない反面、創作以外のこととなると、人情で簡単に動いてしまうという性分である。創作中の鬼の形相から一変して、無防備な赤ん坊同然の無垢と素直さは、とても同じ人間とは思えない。
 しかし純粋な人こそ、本当に怖い人だということに気が付くのに、長い時間がかかりすぎた。真綿で首どころか、からだごと締めつけられるおもいを実感した時には、もう遅い。
 独りよがりの自負心など、何の役にも立たないどころか、はじめからやり直さなければ舞踏ができないことを、思い知らされた。

 ある武道家が「名人」と、賞賛した身体感覚をもっていながら、友惠しづねは自分が舞台で目立つ演出をするという発想がない。
「東北歌舞伎」で赤鼻のキリストを踊る土方は、弟子を床に這わせて、立ち姿の自分が絵になる演出を行うところだ。
 友惠しづねの舞踏には、主役もカリスマ性も必要ない。主役も作品のなかの役割なのだ。踊り手の癖を強引に個性として押し出すのではなく、作品性に主眼を措き、透徹した世界観を真髄としている。
 友惠しづねの舞踏からは、はったりや思わせぶりは跡形もなく消えた。白塗りも奇怪な顔かたちも影をひそめ、より人間的な味わいが浮き彫りにされた。
 昔の土方巽の踊りに痺れる観客もいるが、友惠しづねの作品には、多くの人が涙を流す。
 二、三十代の私に土方は老婆を踊らせる。ところがそれを老婆と気づく人はいない。友惠の作品を観た人は「亡くなったおばあちゃんのことを思い出した」と、感動を伝えにくる。

 創作には容赦のない友惠しづねだが、創作現場では自らの犠牲も辞さない。
 作品のため、共演者のため、弟子のために自分を犠牲にするのはいつものことだ。
 本番前のリハーサルでも、自分のことは後回し。友惠のギター演奏の入るライブのときなど、時間切れになると、自分の音響チェックもできずに、本番を迎える。
 自分のことは後回し。
 創作の修羅がそうさせる。
 友惠しづねには純真、無垢で無類の人の良さと、創作の鬼神が同居している、掛け値なしの天才か、それを超えた何かなのだ。

 
 吉沢元治

 あるジャズ評論家から「日本で一、二を争う」と評されていた友惠が当時、即興デュオ・グループを組んでいた父親ほどにも年の離れたベーシストの吉沢元治は、友惠しづねを夭逝(自殺)した伝説的なサックス奏者「阿部薫以来の人間だ」と、絶賛する。
 「彼、何であんなに老成しているの」と、当時私達が共同生活していた国立の住まいの近くに住んでいた彼が、私に再三聞いた。
 「友惠は追い込み方がうまい、だから、あんな演奏ができる」と、感嘆する吉沢だったが「そんな生き方していると、ギターは弾けても、箸ももてなくなるよ」と、警句を発していた。

 「一番(ギターの)稽古をしたのは、年間四千時間。喘息の苦しみを知っているからできたんだ」と、友惠はいう。
 「朝、手が開かなくてな」と、吉沢。
 「二十分ぐらい(稽古を)やると、戻りますね」という友惠のことばに吉沢が息を飲みながら、うなずく。


 舞踏とは

 「友惠しづねと白桃房」のメンバーの技量は、私が土方と連繋してきた内容をはるかに凌ぐ。
 主演を控えたひとりの踊り手にメンバー全員が交代で、一日二十時間稽古について半年を過ごしたこともある。「友惠しづねと白桃房」の定期公演を主催していた劇場支配人は、「体形が変わりましたね」と、目を見張ったほどだ。
 友惠しづねの稽古は土方巽とは、比べられないほど厳しい。
 ではなぜ土方のところとは違って、私達メンバーがやめないのか。それは、友惠が自分のことよりも団員のそれぞれの生き様を最優先に考えているからだ。
そして、あまりにもピュアーだ。
 そんな友惠だからメンバーが離れない。

 土方の振付は、絵画や写真集から舞踏の題材を選び、一方でイメージをことばで補い、私がうごきにした。土方が手本を見せるということは、一度もなかった。
 他の弟子には、私が振り写しを行った。
 ところが、友惠はメンバーの前で手本を踊ってみせる。
 手本を見せるどころか、踊り手の個性に合わせて、ひとり、ひとり個別に指導する。ときによっては同じように見えても全く違う振りを付ける場合もある。
土方舞踏は踊り手の人間性が剥奪されて、土方のあやつり人形になっていると批判もあった。
 友惠しづねと土方巽の振付の根本的な違いは、踊り手の人間性にどれだけ重きを置くかということに尽きる。本番で実力を出し切るには出演する踊り手や共演者の人間性をないがしろにできない。踊り手以外に、舞台を構成している音楽、美術、衣裳、音響、照明、これら総合的なことがらが噛み合って、舞台の空間が動く、空間が動いてはじめて観客に作品のメッセージが伝わる。
 友惠しづねの世界観が、土方舞踏にあらたな命を吹き込んだのである。

 土方の作品に仏像をモチーフにした振付が多い、日本人のからだの特性を追求する上で、自然の経緯ともいえる。土方は美術全集から、国宝に指定されている、完成された造形のブロンズ仏を模写させた。
 一方、特殊な家庭環境を背景にした友恵しづねの文化観は、観念的なものではない。作品「蓮遙」は庶民の生活に密着している、朽ち果てた地蔵を扱っている。
 大阪キリンプラザホールの連続公演、ホール主任が「蓮遙」を観て「自分の葬式に来て欲しい」と、しみじみ語った。
 友恵しづねの作品を鑑賞しながら、自分の生き方としぜんに同調する。友恵しづねの作品に共感するうちに、生死をまかせてしまう心情からでたことばである。

 舞踏のモチーフには死が色濃くある。私は死に関心が薄かった、死を語る土方は晩年まで自分が「死ぬとは思っていなかった」。
 友惠は私が知る人の中でも極端に病弱だ。物心ついたときから、ずっとそうだったという。
 喘息の発作のたびに「誰か殺してくれ」と、声にならない叫びを発していたという。
 自殺未遂を二回していた。
 二十年近く、土方と作業を共にしていた私は、踊り手として身に付いた習慣をなかなか払拭できず、踊りができない私に「今、死ぬと思えばいいじゃない。そしたら、できるから」と、平気で言う。

 銀座セゾン劇場で行われた土方巽追悼公演で、アスベスト館の演出を行った、演劇人芥某を「死んでないから駄目なのだ」と、言った土方の言葉が、ようやく分かってきた。
 …あまりにも遅すぎた。駆け引きなど、一切通用しない。舞踏には、自分というからだがあるのみだ。


 舞踏の創作現場に関わりのなかった元藤が、土方の死を境に
「芦川が踊るときは、私の許可がいる」と主張、さらに、
「土方巽の舞踏を凍結する」とは、舞踏の現場などを知る由もない元藤の発言。
 私が所有する振付資料の返還を求めて訴訟を起こすなど、土方が切り開いた舞踏の沃地を、夫人の権威と我執で踏み固めてしまった。
 私の去ったアスベスト館は、土方巽の写真パネルやフィルムといった、舞踏の実践にはまったく役に立たない代物と一緒に、土方巽を神輿に担ぎ、権威の象徴に祭り上げた。

 死者を権威の象徴として祭り上げたアスベスト館では、権威が利権を生み、利権欲しさに政治が生じる。土方舞踏に無縁だった人間が集まってくる。
 政治がはびこるところに、あさましい人間が出没する。舞踏界に「舞踏ごろ」と言われるごろつきが沸いて出る。
 アスベスト館が企画した、東北行脚「蟲開き」では、スタッフが温泉付きでなければ誰も参加しないと公言、人の懐を当てにした戯れ言が、本気でまかり通り、政治が動かす金の匂いを嗅ぎ付けて舞踏ごろが大勢集まった。
 あちらこちらの舞踏団に顔を出しては、情報をネタに主宰者に取り込むのが彼らの手口。
 「友惠しづねと白桃房」結成当時、創作以外の政治に疎い(関心のうすい)友惠が美術家だといって紹介された人間を、美術スタッフの養成員として受け入れた。しかし彼の発想は、舞台空間のなかで美術として成立するものかどうか危ぶまれるものだった。ディテールの粗雑さが踊り手を邪魔して、一シーンでも持続が不可能、公演の長時間など耐えるすべもなかった。
 友惠の「人は長い目で見てやらないと」という善意で、その後も美術スタッフとして在籍したが、実際のところ「友恵しずねと白桃房」の美術家とは名ばかり、舞台美術の提案はすべて友恵しづねが行い、制作はメンバーの入沢サタ緋呼が行ってきた。
 ある公演のリハーサルで、舞台の中心が狂っていると、友恵が注意して計らせたところ、数センチの狂いがあったが、「この位かまわないだろう」という、返事が返ってきた。友恵しづねは、創作に対してだらしない一切の態度を認めない。許すわけもなく、直させた。
 その間も彼はアスベスト館と「友恵しずねと白桃房」を行き来していたようである。その内、アスベスト館を引き合いに出して、仕事に見合わない金銭を催促してくるようになったので、私が見かねて「土方なら、決して、入れない」と、あくまでも善良な友恵を説得して出入りを断った。
 彼等舞踏ごろは土方舞踏の実践はおろか、創作で自立できない寄生虫だから事態は深刻だ。土方巽を知らない年代の舞踏志願者に、害悪としか思えない都合のよい夢想と、愚にもつかない理屈をぶちあげて、毒気に当てつづけている。亡き土方の膝元アスベスト館では、こうした、土方を名前だけの権威に祭り上げる人間に恰好の場所を提供することとなった。

 七十年代以降、土方が心血を注いで築き上げた舞踏の訓練。「友惠しづねと白桃房」を結集した友惠しづねは、自らが団員とともに、私の踊った土方舞踏の膨大な全スコアを検証して、いつでも再現、実証できる訓練を貫徹した。その土方の稽古も受けずに元藤自らが踊りだすに至って、アスベスト館における土方舞踏は地に堕ちた。
 さらに剣呑なのは「幻獣社」公演や、「白桃房連続舞踏公演」の期間中にも、団員が出演しているショークラブやストリップ劇場の集金をして回っていた一事務員が、元藤の補佐と中身のない土方巽アーカイブなるもので、土方舞踏史を大きく捻じ曲げて、舞踏芸術にとって危機的状況を深めている。
 それに加担した人間は誰なのか。
 土方舞踏及び舞踏芸術に多大な罪状を重ねた元藤の死去した今日、虎の威を借る某事務員には、知りもしない舞踏からはやく身を引くことが、舞踏にとって唯一の救いである。

 話しをアート・ビレッジ当時にもどそう、
「幻獣社」公演の白塗りの裸がセンセーショナルで、週刊誌の取材がよく来た。
「ショーの収入は、どうしているのか」と、聞かれて、
「稼いだ金は甕に入れて、稽古場の下に埋めてある」と、答えた。
答えている私の幻想が、土方と元藤で行われている搾取を正当化し、土方とともに切り開いている舞踏の沃地に、夢を駆り立てた。
 夢も金も稽古場の床に埋まっていると本当に思いたかった。また、思っていた。
 その見果てぬ夢は、今、友惠しづねによって継承されている。
 「友惠しづねと白桃房」のメンバーと、真に舞踏芸術の可能性を切り開いて行こうとする人々のなかに、舞踏の沃地は、すでに無限に広がっている。


 「静かな家」へ

 当時、蜷川幸雄、鈴木忠志など、アングラ演劇シーンのメッカとなっていた新宿アート・シアターでの公演の盛況ぶりを見て、翌年、渋谷にオープンした西武劇場から舞踏上演のはなしがあった。
 「東北歌舞伎‐四季のための二十七晩」の上演された新宿アート・シアターは、映画館である。夜の映画上映が終わった後、九時近くに開演する。喫茶店や飲み屋で時間を過ごした観客は、開場と同時に新宿の空気をはらんで入場してくる。新宿の活気と時代の風が、観客の期待感を大いに後押しした。一ヶ月に五作品を上演したこの公演に、何日も通ってくる観客も多かった。
 映画上演を終えてから行う公演は、黒の暗幕の前に丸太や農具を吊ったシンプルな舞台作りである。丸太の横にニンニクも吊られた。暗幕によく映えたが、何の意味があるのか、聞いてみたことはない。
 仕込みで最も効果があったのが、床の地がすりにたっぷりと含ませたうどん粉だろう。横長で奥行きのない映画館の舞台を、踊り手が足を踏み鳴らして横切ると、もうもうと砂煙ならぬ、うどん粉が舞い上がった。仕込み続けたうどん粉は日増しに舞い上り、最前列にはマスクをつける観客が増え、着ている服も粉を浴びて白くなるほどだった。映画館という劇場としては中途半端な作りが、かえって舞台と観客の風通しをよくして、踊り手と観客がより親密になれた。

 新宿の雑踏を味方にして成功した「東北歌舞伎‐四季のための二十七晩」も、西武劇場のヨーロッパのオペラハウスを模した劇場様式での上演には手を焼いた。プロセニアムアーチがしっかりしていて、舞台と客席との空気の往き来がむずかしい。デパートの階上にオープンした劇場に足を運んだアングラファンも、慣れない劇場の様子に戸惑った。
 作品は「東北歌舞伎‐四季のための二十七晩」の焼き直し。作品のストックもなかった。骨格がないまま、作品を舞台にかけたのは無謀という他ない。舞台の大きさにも不慣れな踊り手を引き連れて、土方も作品が掘り下げられない。美術に舞台全面を覆った板戸と劇場空間が不釣合い。
 「東北歌舞伎‐四季のための二十七晩」は日本のシュールレアリスト瀧口修造に捧げられた。シュールレアリスムの影響を受けた第一次暗黒舞踏派の活動と、土方の西洋概念への別離が瀧口修造へのオマージュとして捧げられた。西武劇場の「静かな家」は詩人の吉岡実の作品から作舞したものだが、作品は失敗。手厳しい批判がないのも、舞踏はまだ、土方の独壇場だったからである。「静かな家」の実作者、吉岡実も残念に思っただろう。

 舞台上手から中央まで移動する土方のソロシーン、その一シーンに四十分近くかけたことがある。終わってから「長過ぎるんじゃないですか」と土方にいった。めがねをはずして白塗り化粧をしている私が、化粧の上からめがねをかけて、袖から何回も舞台をのぞいてみても、土方の状態に大きな変化がなかったのをハラハラしながら見ていた。
 この状態は佳境に入ったのではない。昏迷…。
 かみ合わない即興ではよくおきる状態。
 (出口なし…)
 観客はあきらかに退屈なのである。
 他の団員には振り付けを課したが、土方自身の踊りは、即興によるところが大きかった。

 この手の劇場の経験がない弟子の、チケット販売のミスもまた、興行の失敗に輪をかけた。金券の取り扱いを分からずにばら撒いたものだから、チケットの採算が合わない。採算が合わなければ、着服したと疑われてもしかたがない。西武劇場の事務員が何度もアスベスト館に来て、チケット代を請求した。
 ショーではあからさまな搾取を行う元藤は逃げるし、土方は西武の事務員の前で頭を掻くばかり、弟子の私たちは事態の重要さにも気づかず、ただ傍観する。腹のなかでは「金とは無縁のところでアートをやっているんだから、劇場で穴埋めして済まないのか」と、思っていた。
 西武が企画した舞踏公演の失敗にとどまらず、興行の後始末にも汚点が残ってしまった。
 興行の後始末を命じられて、チケット代の回収に何度も通ってきた事務員がこの「静かな家」の舞踏公演で、もっとも窮地に追い込まれたことで唯一舞踏家だったかもしれない。

2008/1/1 UPDATE 読みもの
土方舞踏批評 1  執筆:友惠しづね New!
アコギ・ファン 文:友惠しづね
大野一雄氏100歳をお祝いして 大野慶人氏インタビュー
 
聞き手:土方巽舞踏鑑 代表 カガヤサナエ
「南管オペラ」のアーティスト達 文:友惠しづね
台湾での舞踏講習会 -「江之翠劇場」の皆さんと- 文:友惠しづね
糸宇夢(しうむ) 「宇宙の中のひとすじの夢」 文:友惠しづね
舞踏の精髄 文:芦川羊子
My Sweet Lord 文:友惠しづね
眠りへの風景(エイジアン・コラボレーション) 文:友惠しづね
蝶々夫人 文:友惠しづね
南管オペラ 文:友惠しづね

X JAPAN hide(2005年9月25日hide MUSEUM閉館に寄せて)  文:友惠しづね

ビヨンド・ブトー 文:友惠しづね
third eye  文:友惠しづね
振付について ミラーリング 文:友惠しづね
形について・PART2 ニャン子ちゃんへの質問状 生命(いのち)の舞台あるいは近似値的絶対 文:友惠しづね
新宿アートビレッジ 文:芦川羊子
小さな祈り 文:友惠しづね(2004/8/15)

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