舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。




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著作に登場する『友惠しづねの音楽と舞踏作品』の映像、近日期間限定で公開予定。公開日時の告知をお待ちください。2014年元旦

舞踏

第一章

文:芦川羊子
終わりなきメソッドのために

「'84年、初めて土方の講習会、行った時はビックリしたよ。モダンダンスやってる女性に連れていかれたんだけどね。土方の稽古場は私の自宅の近くだったし、まー、いいかって感じ。
その時の講習生は20人くらい。お決まりの坊主頭の奴なんかもいてね。
土方は濃紺の着物を着流して、髭なんか生やして、長髪の髪の毛を丸めて頭の上に載っけて。ちょっと猫背で上目使い。当時土方は55歳だったけど初老って感じに見えた。これがダンスの先生?戸惑うよね。稽古場は薄暗いし、ダンス教室に必須の鏡も張って無い。
白の七分袖の肌着に白いズロースみたいなの履いた芦川が『先生です』と紹介すると、ピョコンと頭下げるだけ。異様だよね。

さて、どんな稽古が始まるやと。
『ここに170p(土方の身長)の切られた材木があります。それが、移行します。歩くのでは移行します』。
この人は形の必然性を追求している人なんだと、直感的に分ったの。恣意性を免れない人間が絶対の形を追求するという無謀な野心を持った人。
この一瞬から、土方は私の先生になった。
タバコ吸いながら稽古するしね。プレッシャーが掛かっているんだろうね。しかし、教えてる時の彼は生き生きしていた。
私も十数年間、ずっと一人で音楽をやってきた人間で、寂しかったんだろうね。先生がいたら、どんなに楽だろうと想っていた。そこに土方がスッポリ嵌ったんだね。

後に自分が実際に舞踏の舞台を創りだしてから分ることなんだけど、土方の講習内容は舞踏という踊りのプレゼンテーションという意味もあったから、初心者や例えば雑誌の編集者、批評家というような見学だけで来ている人にも分り易い言葉を使うの。
そのために実際の人の体の機能とは齟齬をきたすことも出てくるし、言葉によって体を不自然に束縛してしまうこともある。
しかし、体の動きや形を導きだす方法が、独創的で凄く魅力的に感じられた。
踊りの振り付けもこれは随分と強引だと想うところもあったけど、その強引さの中にも開拓者特有の息吹を感じられもした。
昇華しきれないままで、泥臭いところは嫌いだったけどね。踊り手同士のアンサンブルがないのは致命的な欠点だとも。彼は人を使っても基本的にはソロ・タイプの人間なんだろうね。
しかし、形に収まるのではなく、自分から形を立ち上げようとする人の魅力は、常に終わりがない課題を人生から突き付けられるけど、彼はそれを楽しんでいるようだった。

当時の私の音楽のブレーンは『今、どういう活動するかで一生が決まるんだよ』と舞踏にのめり込む私を非難したけれど、私はというと何処吹く風。しかし、私の舞踏作品が私の音楽性や人生と同調するものであることを知ると、自然と理解し、協力してくれるようにもなった。金銭的にも援助してくれて」。

と、友惠は当時を回想する。


『ビヨンド・ブトー、舞踏を超えて』
"Beyond Butoh" by Jack Anderson, THE NEW YORK TIMES
   
  「動きは言葉より多くを語る。友惠しづねと白桃房のジョイス・シアターでの『蓮遥』について説明するには多くの言葉を要する。そしてこのイベントを歴史的、審美的なコンテキストに位置づけするにも、多くの言葉が必要である。が、幸い、ステージで起きたことの衝撃は一、二文に要約できる。

『蓮遥』では簡素なローブを着た八人のダンサーが探求の旅に駆り立てられていた。彼らの精神的な献身と情動的な強烈さには注意を引きつけられ目が離せなかった。

この舞踏団の歴史的なバックグラウンドについて、少しばかり語る必要がある。白桃房は現代日本の新表現主義舞踊様式(舞踏と云われている)の創始者土方巽が、1974年に東京で結成した舞踏団である。土方が1986年に死去した後、彼の弟子たちはそのグループを継続することに決めた。1987年に友惠しづね氏が監督になってから、友惠しづねと白桃房と改名した。これは長い名称であるが、カンパニーの過去を敬意をもって受け入れながらも、彼の指導のもとにカンパニーが新たな創造の道を歩むことを示唆している。

アメリカ人のダンスファンのなかには、舞踏というと、顔を果てしなくゆがめ、念入りにポーズをとる、マスクのような白いメイキャップをしたダンサーたちの、堂々とはしているが憂鬱なスペクタクルであるとみなす人たちがいるだろう。友惠しづねと白桃房のメンバーにも、時に決然たるものものしさや、そして実際に奇怪な振る舞いはあった。しかし、彼らの踊りは多様であり、仮面のような白塗りもない。舞踏が何であるか、あるいは何でないかといった狭い概念で論じるのでなく日本の現代の舞踊の実例として見られるべきものである。」
   

 

次元違いの稽古

友惠の稽古は土方時代とは次元違いに厳しいものです。しかし、次に何が起るのか何が見えてくるのか分らないというスリルに満ちたものです。
作品創作は一切の妥協を許しません。友惠が稽古場に足を踏み入れるだけで団員達の体には緊張感が走りまくりました。友惠の体はその場の状況をすかさず検知します。その時、創作は既に始まっています。予め構想を練ってきたこともあるのでしょうが、突然、突拍子も無いことを言い出すことも頻繁に起きます。
「初対面でも共演する音楽家はその体を一瞬見れば、実力のほど、人間性も見て取れるけど、踊り手の場合は音からもね。その人の足音聴けば、全部分る。今日は足音の稽古からします」と、いうように。私達は戸惑います。
しかし、友惠というのは、無邪気なくらい純粋な人ですから皆、信頼しきっていました。創作以外のところでは、(これほど人が良い人間がいるのか?)と想わせるくらい他人に対しては無防備な人です。そこが楽しい。
ところが創作では友惠は団員との駆け引きは一切拒否します。「駆け引き好きは目先の損得勘定に回されるだけ。余程実力があれば別だろうけど、速度が落ちるよ。要するに見切られちゃうの、本人は気付かないけど」。
友惠の創作は毛一筋ほどの妥協も許しません。

友惠がいなければ土方舞踏は未熟な振り付けメソッドを振りかざすだけの形骸化しただけのものになっていたでしょう。それどころか、舞踏の根幹は失われていました。
私なども、それまで一度も稽古現場に顔を出したことのない土方の奥さんである元藤から舞踏に関する発言権は一切奪われ、土方が亡くなった直後の元藤主催のイベントでは、土方の作品の中からの私のソロ・シーンの抜粋を、まるで標本箱に展示する針で固定された昆虫のように踊らされました。
そこには、私が20年に渡って土方と活動してきたアートのダイナミズムは全くありませんでした。(私は今まで何のために舞踏をやってきたのか)。
私は彼女のポジション確保のための「土方回顧展」企画に組み込まれるだけの客寄せパンダとして扱われていただけでした。
「元藤は土方のことなんて尊敬していないよ。彼女が心酔しているのは今では有害物質とされているアスベストで財を成した自分の父親」と、友惠は言い切ります。

'68年、それまで身体表現などしたことのない私が入団したての頃は、それこそ振り付けもなにも、何も無いところから始まりました。入団半年後に行われた私の初の主演公演は、ただ裸になって必死だったということだけで、舞台で何をしたのかなど何も覚えていません。
当時は女性が人前で裸を晒すのは、まだまだ抵抗のある時代でした。しかし、私は土方を信じるということだけで、何の衒いもありませんでした。それでも打ち上げの席が盛大だったことだけは記憶にあります。

友惠が主宰者になって初めのうち、私は友惠の創作の構造が分りませんでした。友惠は「音を見て」とか「美術のテクスチャーと体を同調させて」とか、私の感性とは明らかに違うコードを持っていました。
友惠は自ら手本を見せるんですが、まるで魔法を見ているように友惠の体は変幻します。しかし、私達にはできません。そこで、友惠は一人一人の能力と個性に合わせて指示を出していきます。
鳴っている音楽をおでこの1p角の皮膚と前に出している両手の平で共鳴させる
例えば、私には「鳴っている音楽をおでこの1p角の皮膚と前に出している両手の平で共鳴させて」と指示します。これならなんとかできていると実感はできました。
「後は照明と音響操作でこっちが何とかするから」と、調光室と客席と舞台を走り回りながら友惠は言います。
本番中も自分も出演するにも拘らず走り回っています。客席が三階席まである劇場では大変だったと。衣装の上にコートを羽織って、舞台から一回地下に降りて警備員が立っているだけの劇場エントランスを抜けてから腰をこごめながら客席へ行き、舞台と観客の様子を伺い(椅子に座る観客と目が合うとその観客はキョトンとして通路に踞る友惠と舞台を交互に見直します。友惠はヤアと手で合図し、その場を急いで立ち去ります。警備員に不審者として注意されたこともあります)、そして調光室でスタッフに指示を出し、舞台に舞い戻って自身の踊りで作品の流れを調整します。
友惠は創作現場では具体的なイメージが留めどなく体から溢れ出てきます。これは特異体質でしょう。「視覚情報と聴覚情報と体感情報が化学反応を起こす」と言います。公演開場直前まで、その場で湧くイメージから微妙な振り付け換えなど踊り手への指示を欠かしません。

 

友惠の振り付け 〜常に始まり続けるもの〜

'70年代に入り土方は自身が舞台に立つことなく演出に徹した頃から、徐々に舞踏の踊りとしての振り付けを模索していきました。踊りのフォルムと動きの面白さと同時にその必然性を追求していったのです。日本だけでなく西洋の古典絵画や写真集から、そこでモティーフになっている人物や動物の模写をしました。出典が古典作品ということで必然性を保証されたと考えていたのでした。
その中から選別した幾つものポーズをパーツとして取り出し、時系列で組み合わせて動きにしていくことが振り付けの一つの基本となりました。

友惠の振り付けは土方と違って単に形と動きに留まりません。振り付けは終点ではなく、そこから常に始まり続けるものということです。踊りに微妙なテクスチャー、広がり、深みを持たせるために、振り付けの上に更に振り付けを重ね、また更にというように。限りなく複雑になっていきます。
舞踏の舞台は演劇と違って作品構成の筋となる脚本がありません。演劇と比べると、観客とは論理性、知性に基づくものよりも知覚によるコミュニケーションの分量が多くなります。観客に発信する視覚、聴覚、体感という多様な知覚情報のコントラスト、バランスが少しでも狂うと、その作品は意味不明に陥るというリスクを常に抱えています。
公演直前まで指導を続ける友惠しづね
また、踊り手という生き物である人の体の状態は舞台環境の中で日々変わります。公演現場という環境も日々変ります。ですので、踊り手への振り付け替えは日常茶飯事のこととなります。それがライブである舞台の面白さでもある訳です。
ただ友惠の場合は、その都度振り付け替えの意味を一人一人の踊り手に説明します。人は駒ではないということがアートの一つの命題だと想います。

友惠の踊り手への微妙な振り付けが施されると、舞台空間が揺れるのが肌で感じられます。
しかし当初私は、日々変動する舞台の動きに戸惑いました。動物的な感性からなのでしょうか、例えば、野生の動物が目には見えない危険を察知した時のように、何故か私の体は底知れぬ焦りを感じます。私の知らないところで、舞台というある自然そのものとも想えるような生き物が胎動し始めます。
土方時代は主役である私の踊りの力で公演を主導してきたという自信の足場が、根底から覆されるような気もしました。
しかし、友惠の微細で時にはワイルドな指示に従うと全ての公演は予定調和のように成功するんですね。
舞台で踊り手の体が関知しなければならないパラメーターの量が土方時代より格段に多くなっていたということに、後になって気付いていきます。
公演では招聘されたフェスティバルの主催者から「普通、主宰者が亡くなると、レベルが下がるはずなんだけど、上がっている」と評価されましたし。「芦川さん、土方が亡くなってから、訳の分らない舞踏家が経営する農場に行っていたとか、悪口をいっぱい聞かされていたけど、土方時代より上になっているね」と、土方時代の同僚の言葉にも元気付けられました。
過去に拘り過ぎると、今、ここにある現実が見えなくなることもあります。
私は土方時代、何の技術的な背景も持っていなかったという引け目もあったからなのかもしれませんが、舞台の袖幕の裏(観客からは見えない)に500ワットの照明を一台置いて貰い、出演前に数分間、明かりを付けたその照明に見開いた自分の目を十数pの距離から覗き込んでいました。いわゆる「目を焼く」という、当時一部の舞台人が、観客と対する時の表情作りの方法だとも聞かされていました。しかしそれ以上にプロの舞台人としての気概を自覚する精神集中の方法だとも思っていました。土方からは何も言われたことはありません。
友惠が当カンパニーの主宰者になってからも初めの頃は、それが舞台に立つ人間の気骨なのかと、友惠は私の行為を見過ごしていましたが、ある時、「あなた、そんなことやっていると、あなたの目は大変なことになるよ」と、怒られました。確かに私は普段の生活では厚いレンズの眼鏡を掛けるようになっていました。それ以後、「目焼き」は一切禁止となります。
それどころか、友惠はある老人福祉施設でのボランティア公演では私に眼鏡を掛けたまま出演させました。それはお客さんも私達も伴に楽しい公演でした。
無理に作っただけの表現は、やはり、どこかで互いのコミュニケーションに無理がきます。私には舞踏のメソッドを再考する一つの手立てになりました。
友惠は「壷の中の物を握ったまま手を抜こうとすると、腕ごともげるよ」と私に言います。

 

土方舞踏 〜惨憺たる海外公演〜

土方舞踏は'70年代の小劇場運動のなかで注目されたことが切っ掛けとなり、商業劇場やヨーロッパ公演を行うことになるのですが、悉く失敗しています。
1978年にパリのルーブル装飾美術館で行われた建築家の磯崎新さん企画の「間」展で、日本の演劇人など多くのパフォーマンスが彼の創った現代的な能舞台で上演されました。私もその一人として踊りを披露しました。今までの公演からのソロのオムニバス版でした。土方舞踏では常に専門の舞台技術スタッフはいませんでしたので照明も素人が受け持ちました。今なら考えられないことです。
小さい会場で、日本の現代舞台アートの実情の紹介という形で、それぞれの出演者達も、パリと日本との距離感を探るという心持ちの人も多かったと思います。
皆、パリは初めてという人も多い訳で、それぞれサンプル版を披露するというシンプルな企画でしたが、私の踊りは受けは良かったと思いますし、私にとってはヨーロッパで初めて舞踏が紹介された記念すべき公演だと自負しています。
勿論、磯崎新さんの素晴らしいステージと舞台美術に負うところも大きかったと思います。
しかし、それで今後の舞踏の展望が見えた訳ではありませんでした。初めての舞踏公演ということで批評も緩かったと思います。

しかし、1983年の公演では状況は一変していました。私を主演としたヨーロッパ公演に同行した舞踊批評家の市川雅氏の報告から失敗を確信した土方は、帰って来た私を稽古場の二階の階段から突き落としました。
若手の舞踏団が海外で評価されたことも一つの契機になった仕事でしたし、本家である土方舞踏が乗り込んで行くのです。呼び手側も期待していましたでしょうし、土方は夢も膨らんでいたことでしょう。しかし、結果は惨憺たるものでした。時代や場が違うと受け入れられ方は、全く違ったものになります。
欧米のオペラ・ハウスでツアー公演をするなど成功した若手の舞踏家により、舞踏の一つの評価基準が既に出来上がっていたということも否めません。
それでも私も含め日本の舞踏界も土方の舞踏本家としてのカリスマ性を信じ切っていました。再び奇跡は起り、それに寄り添ってさえいれば当時の熱狂が味わえると。
'70年代半ば、小劇場での私の主役公演の成功から得た土方舞踏のオールマイティー観は、私に、それに浸り続けるのに充分な根拠を与えていました。
誰も、チヤホヤされれば、そう容易く浮いた気分からは抜けきれません。

それまでマイナー・アートであった舞踏は、海外で注目された舞踏団が大手企業のテレビ・コマーシャルにも起用されるなど’80年代日本の舞踏ブームとなっていました。しかしそのなかで「あの恐るべき消費的芸術である舞踏も、・・・、日本民族芸術のため、世界に害毒を流している。」(舞踊の芸)と武智歌舞伎の武智鉄二が指摘するように批判も起っていました。
押し出しだけ強く文化的、技術的足場も無いままに恣意的な発想による単なる受け狙いと捉える人も少なくありませんでした。しかし、ブームに乗り切れない人も多くいました。
メジャーとマイナー、当時の舞踏の文化的ポジションは二極化しているような状況でした。

 

グローバル指向を唯一持っていた市川雅氏

舞踏の文化的ポジションがメジャーとマイナーに分かれたこと、それ自体はけっして悪いことではないと思います。アートはそれぞれの生き方、思考、感性に直結した表現をモットーとします。しかし、これは人間のサガなのでしょう。ここに社会的、金銭的なそれぞれの欲も絡んできます。それにより、時には醜悪劇が演じられますが、それは私達が日々生きる中で起る自然なことで、私は必ずしも否定されることであるとは思いません。それがお互いのアートへの情熱をかき立てるならばです。しかし、現実は足の引っぱり合い、潰し合いになることもままあります。

舞踊批評家の市川雅氏は、日本の舞踏関係の批評家の中ではロシア・バレーのニジンスキーに関する著作を翻訳され、欧米の劇場を幅広く見聞するなど、舞踊に対して広い視座を持っていられた方です。
また、これは舞踊界だけではないでしょうが、接待されるのが当たり前という日本の批評界の中で、真摯に舞台アートに向き合っていました。例えば、「お中元、お歳暮」という日本特有の挨拶の仕来りは、迷惑だと嫌っていました。また、私達の地方(名古屋)での公演にも自腹で来て下さいました。蛇足ですが、私達の大阪公演に、ある新聞社から紹介された舞踊批評家を招いた時に、新幹線のグリーン席を要求されたことがあります。これが業界の常識なのかもしれませんが、劇場側のプロデューサーも了承しませんしお断りしました。
それを考えると市川氏は異例中の異例の方でした。自分の愛した舞踏を世界の中で、どうプレゼンテーションしていくかに心を砕かれていた方だと思います。
「市川さんは舞踏関係者の中で唯一、グローバル指向を持っていた人だね。フェアーだしダンディーだしね。尊敬できる人」と、友惠は言います。
市川氏は「大野さん(舞踏界の最長老)はもっと舞踏界全体のことを考えて欲しいよ。海外のオペラ・ハウスでの公演を50万円で受けて貰っちゃ、それが舞踏のギャラのリミッターになって、他の大人数の舞踏団はとても採算がとれない」。
大野一雄さんは、全く悪気がない、逆に良心的であることは分り過ぎるくらい分りますが、舞踏界のトップの方、また舞台美術、技術の専門スタッフを必要としない表現スタイル、システムならペイできるでしょう。
しかし、衣装、舞台美術、スタッフなど大掛かりになってくる舞踏団では、その経費は全て持ち込みとなってきます。ギャラでのペイなどあり得ない訳です。国、メセナの基金を利用できたとしても交通費、宿泊費のみ。制作費は出ません。
舞踏界では、そんな公演運営の基本が分っている人は市川氏しかいなかったのではないでしょうか。世界の舞台アート・シーンの中での舞踏界の行く末を本気で考えていたのは彼だけでした。
その市川氏でさえ、他の舞踏批評家の妬みを買うこともあり、「何か、言うと責められるんだよ」と、酒席で友惠と私に愚痴をこぼしていられました。
「あなたが一時期、寄宿していた農家の舞踏家のマネージャーも自分のことしか考えてないから」と、悲痛な面持ちで私達に語りました。
当時、舞踏界に世界の舞台アート市場と、その中での舞踏の価値を知った視座を持たれた方がもう少しいたら、公演運営、形態、ひいては今日の舞踏というアートの本質的価値そのものの在り方も変わったものとなっていたと思います。
市川雅氏は1997年に鬼籍の人となられました。
土方を含め、亡くなった著名人の名前を公演のプレゼンテーションに出すことで、見え透いた宣伝効果を狙う人は今も後を絶ちません。
私達が公演で追悼として名前を出させて貰ったのは、市川氏だけです。
「何故、皆、追悼として土方の名前を出すのに、あなた達出さないの?」と、市川氏は友惠と私にニヤッと笑いながら訊いてきたことがあります。
友惠もまたニヤッとして、何も答えませんでした。市川氏は茶碗に入った焼酎のお湯割りを嘗めます。私達の公演の打ち上げの席でした、私が子供の頃から住み、通っていた美術大学の友人から「あなたとのお付き合いは止めさせてもらいます」と言われながらも毎日公演をしていた新宿でしたね。

 

海外成功組と日本の村社会的舞踏界の狭間で

海外で舞踏が注目されたことにより'85年東京で開催された「舞踏フェスティバル」。このフェスティバルに土方舞踏は参加していません(弟子も集まっていませんでしたし、準備も間に合いませんでした)が、土方はヨーロッパ公演の失敗から日本での地盤固めに奔走しようとします。
西洋にへつらってまで成功したくないと闘志を燃やす海外進出に乗り遅れた舞踏家達や、日本発の舞台アートでありながら海外の文化批評シーンには場所が無い日本の舞踏批評家の中には、舞踏の提唱者・土方に寄りすがろうとする人も出てきます。
土方自身も舞踏本家としての沽券を守るために彼らを取り込もうとしますが、両者とも焦りと欲の狭間で右往左往していたと感じていました。

海外での成功組の中には、舞踏の在り方が大きく改変されようとしている状況を受け入れきれず、過去のコードにしがみつこうとする村社会的な日本の舞踏界と意識的に距離を持つ人も出てきます。
成功組を賞賛したある舞踏家が同僚達の前で彼らの公演パンフレットを破らされた、などという話も伝わってきます。当時、舞踏公演でパンフレットなど作る人はいませんでした。商業主義の象徴と捉えられていたのでしょう。
自身の活動を広く展開していこうという人と、己のアイデンティティーを確保するために創始者である土方に取りすがろうとする人との隔絶。このような状況は土方の死後、益々加速します。
かたやチケットも入手困難という西洋各国の国立オペラ・ハウスに出演。かたやコピーの宣伝ビラで観客動員数人という舞踏家も少なくなかった状況です。
公演に企業メセナ、各種の基金が付くかどうかも大きかったと思います。
現在の私達の団体も海外公演では、初めは基金など当てにできませんでした。団員達のアルバイト料と足りない分は私と友惠と数人の団員の家族からの数百万円の借金で賄いました。その活動の成果が以後の公演のオーディションになりました。

商業舞台が必ずしもアートではないとは言い切れないことは瞭然ですが、反目する人達が多かったことも事実です。
舞踏のシェアが海外に広がることで、それまで東京の一部の愛好家達による居心地の良いマイナー・アートであった舞踏の温床が壊れ出しているとは私も感じました。舞踏公演は出費が嵩むだけのものでしたが、誰も金儲けのことなど頭には無く、私なども清貧に安住することでアーティストとしての意識を高められていました。
ところが舞踏がポピュラー・アートになると状況は一変します。公演も大規模になれば経費も桁違いになりますし、野心的なマネージャーを付け、都心に事務所を構える人も出てきます。
こうした動きの中で、夢を見ながらも自身のポジショニングの確認に右往左往するブームに乗らない、乗り遅れた舞踏家とその取り巻き達は排他的、閉塞的になっていくように感じました。
土方亡き後、定期的に行われる土方の名前を冠した元藤とその事務員の企画には、自身のアイデンティティーの保持のためか企画リスクが少ないためか、彼らはこぞって参加していきます。
私達も同好の士から始めた団体ですので、マネージャーもいなければ金銭的余裕も全く無いところから始めていますが、安直に土方の名前を利用することは快しとはしませんでした。
多くの舞踏家が、自身の正当性とプロモートのために安易に「土方追悼」と銘打った公演を開く中、唯一土方舞踏を継ぐ私達は、一度も行ったことはありません。何故なら、私達は志半ばで逝った土方の舞踏の夢を実現する、未だ渦中にいるからです。
友惠は「彼らの体には品性がない」と、「生きようと思うから駄目なんだ。死が無い生き方は、しがないね。初めから皆連れ添っているのに」。

 
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2017/7/17 UPDATE 読みもの・映像・音声
舞踏の表現構造 執筆:友惠しづね
歩行テキスト批評 執筆:友惠しづね
舞踏、その体と心 友惠舞踏メソッド 執筆:友惠しづね
一本の木の物語 執筆:天乃宇受美
ブルース・ハープ 執筆:加賀谷さなえ
舞踏 執筆:芦川羊子
大船渡市・陸前高田市 災害支援ボランティア (入澤サタ緋呼)
団鬼六永眠 (加賀谷早苗)
舞踏の精髄 執筆:芦川羊子
からだ表現と即興 執筆:友惠しづね
詩の朗読と舞踏のコラボ 執筆:友惠しづね
「友惠舞踏メソッド」、その演出法 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド3 執筆:友惠しづね
みんなで楽しめるコラボ・システム 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 2 執筆:友惠しづね
風のまなざし 詩:友惠しづね
大野一雄氏100歳をお祝いして 大野慶人氏インタビュー
 
聞き手:土方巽舞踏鑑 代表 カガヤサナエ
「南管オペラ」のアーティスト達 文:友惠しづね
台湾での舞踏講習会 -「江之翠劇場」の皆さんと- 文:友惠しづね
南管オペラ 文:友惠しづね

X JAPAN hide(2005年9月25日hide MUSEUM閉館に寄せて)  文:友惠しづね

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