舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。




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舞踏、その体と心
友惠舞踏メソッド
文:友惠しづね
はじめに

 舞踏カンパニー「友惠しづねと白桃房」は、舞踏の創始者土方巽(1986年没、享年57歳)が鬼籍に入られた翌1987年に結成された、彼の舞踏メソッドを唯一継承するグループです。現在メンバーは東京の中央線駅・西荻窪の借家を稽古場兼住まいとしています。
 今年で丸30年経ちました。
 前衛と云われる作品からアカデミックな公演など多彩な活動を通して日々、研鑽、修練しその精髄を極める舞踏カンパニーとしての視座から、日本発の現代舞台アート舞踏の魅力とその可能性を探っていきたいと思います。

 1960年代、前衛舞踊、暗黒舞踊といわれる実験的な身体パフォーマンスが日本の戦後のサブカルチャー運動のなかで生まれました。表現上の特徴としては直裁的なインパクトを求める故に、裸体や坊主頭、白塗りメイクなど殊更異様な意匠を凝らしますが、出演者には修練を必要とするような特別な身体技術を持つ者はなく、作品は即興的に作られていました。特に女性の裸を前面に押し出したプレゼンテーションは、芸術という知的フィルターでフレーミングされることで、戦前には完全禁忌とされ抑圧されていた男性の尋常なる欲望を、プライドを損ねることなく満たそうとする市場に受け入れられました。

 踊り手が異様なポーズをとった写真は異界の物語を示唆する言葉と共に美術誌、文芸誌に取り上げられます。そしてテレビが普及し切っていない時代ですので、全国にネットワークを持つ週刊誌(世情一般の事件、事故、ゴシップネタを扱う)のグラビア・ページ(下部は勿論、胸の突起も黒塗りやぼかしで隠された裸の女性の被写体がトピック)で東京発の先端アートとして耳目を惹くようになります。その活動のブレイン、ファン層は身体表現、即興ライブには無縁でありながら東京に活動拠点を持つ知的エリート、文科系の人間が多いことが特徴とされます。
 1960年の大学進学率は15%に満たないのに対し中学卒の就職者は60%を超え集団就職列車が第一次産業から商工業職を求め都会へと向かっていた時代です。都会と地方の文化的格差が顕著化した時代でもありました。
 全国に情報ネットワークを普及させようとするこの時代、白黒テレビの普及率は1960年で約50%でしたが、高度経済成長政策の目覚ましい成功により’70年代に入るとカラーテレビを含めると100%以上となります。
 終戦以来、国家により推進されてきた欧米文化(正座、胡座、布団を象徴する畳からダイニング、リビング、ベッドという生活様式)も浸透してきます。アメリカから輸入されたテレビ番組は毎日何本も放映され、映画のスクリーンは目にも豊かな70ミリ総天然色に変わります。そこに映し出される幻惑的な世界は理想的な男女像(目鼻立ちが際立ち、足が長い)とその関係(自由恋愛、婚前交渉)を一変させます。それに伴い日本文化の性に対する規範のあり方も変わります。
 もはや戦後は終わったかのように急変する時代に、週刊誌上を賑わせた16ミリ白黒映像に括られるような舞踏のエロスと前衛はアナクロにも見えインパクトは軽減してきます。また、奇抜と捉えられた即興による思い付き的な表現もマンネリ化してくれば飽きられます。

 ’70年代に入ると、舞踏には確かなる技術を伴ったジャンルとしての形が要求されます。
 その試みに初めて取り組んだのが私達の師である土方巽でした。土方が舞踊ジャンルとしての形を志向する直接の契機となったのが、’73年に渋谷の公園通り、渋谷PARCO内に造られた商業劇場「西武劇場」の?落し公演で行われた土方主演による作品上演での大きな失敗が一因として挙げられるでしょう。
 土方の名前をサブカルチャーの旗手として一般にまで広めたのは’72年に新宿3丁目(現在は同性愛者の集う店で賑わう)のサブカルチャー志向の映画館「アートシアター新宿文化」での1ヶ月公演でした。
 その日の映画の最終上演が終わったスクリーン前の仮設舞台に、その都度短時間で簡易な美術をセッティングし、即興的に作られた大まかな作品構成による土方を主演としたパフォーマンスは、’69年の新宿西口広場のフォーク・ゲリラ(学生、市民による反戦集会では機動隊が突入、逮捕者が出る)、学生運動による熱狂が終焉しながらも喧噪の余韻が残る新宿(中には違法薬物で摘発されるようなロック喫茶やライブ・ハウス、風俗店が増える)に屯する行き場を失った若者達に受け入れられました。
 ファッションではアメリカのカウンター・カルチャー(ヒッピー文化。’70年に公開されたアメリカのフォーク、ロック音楽による映画『ウッドストック』の影響も)を取り入れたラッパ・ズボン(ジーンズの一形態)、前世代から女の様だと蔑まれる男性の長髪が流行ります。

 しかし、’72年、若者の間で反体制志向を持つプロテスト・ソング(’60年代のアメリカのフォーク歌手ボブ・ディランの影響が強い)として広まっていたフォーク・ソングの歌手である吉田拓郎の「結婚しようよ(僕の髪が肩まで伸びて、君と同じなったら、約束どおり街の教会で結婚しよう)」がメジャー・ヒットしたことは若者文化の大きな転換点を象徴します。当初、吉田の存在は商業主義に媚びる裏切り者として、彼のコンサートでは一部の観客から「帰れコール」が叫ばれもしましたが、ステージ上の「今日は帰りません」との彼の言葉に、音楽を生活の中で純粋に楽しもうとする多くの観客(ニュー・ファミリー)の拍手で一蹴されていきます。
 当時、技術基準の高いハードであるレコード・プレーヤーを作っていた電機メーカーのソニーが、プレスさえすれば儲け率の著しく高いソフトにも触手を伸ばそうとレコード会社を設立(’68年。当初は「サイモンとガーファンクル」などアメリカ音楽の販売を手掛けていた)します。そして、当時のメジャーの音楽業界(歌謡曲)の経営ノウハウを知らないこの新興レコード会社は、排斥されていたフォーク・シンガーを取り込みます。この身軽なアーティスト(シンガー・ソングライター。楽譜も読めないにも関わらず、自身で作詞、作曲し歌ってしまう)の作品が、その後の日本の音楽業界に新風を巻き起こすことになります(このソニーの事業運営は映像再生機器=ビデオプレイヤーを市販化した後、アメリカの映画会社のソフトを買収するというに企画に繋がります)。
 ’70年代半ばにはディスコ(今日のクラブ。’77年のアメリカ映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒットがピークになる)が新しい若者達の社交の場として乱立します。
 戦後の復興期は、年毎に新局面を提示しながら変遷していく様を「蛇腹の時代」という言葉で表徴されましたが、日本人が高度経済成長を享受し始める’60〜’70年代という時代は戦後生まれの若者(団塊の世代以降)の生活形態に如実に反映されました。

 ソニーと同じく戦後、スーパー・マーケットから台頭してきた新興流通グループの西武デパートは、情報の発信基地を標榜し若者をターゲットとしたイメージ戦略、具体的にはデパートの上層階での催事企画(それに選ばれたアーティストは客寄せパンダとなる。上野動物園に日中友好の象徴としてパンダが陳列されたのは’72年。連日大行列を呼ぶ)により、業界ではシャワー効果という顧客獲得の方法を用い、そのアイテムとして現代アート(’75年、池袋西武デパート最上階に西武美術館を開館)がセレクトされました。
 新宿、銀座は既に老舗デパートが威を張り入り込む余地がない。彼等の情宣用の企画展では富裕主婦層(有閑マダム)をターゲットにした日本のアカデミズム芸能(例えば、日本橋三越デパート内の三越劇場、日本画展)を扱うのに対峙するように、老舗がいない池袋、渋谷を本拠地と定めた西武は、欧米発の現代アートに目を付けました。その一つのアイテムとなったのが当時、ニューヨーク、パリでスポットが当たり始めた舞踏でした。
 渋谷PARCO内に造られた西武劇場は「情報の発信基地」を謳い若者をターゲットにする彼等の営業戦略を象徴するものでした(それに対抗するように同じく新興流通業者の東急デパートは’89年、渋谷の東急デパート内に商業劇場、美術館「東急文化村」をオープンさせる。それまでは売り場内の特設コーナーでフォーク・コンサート等を催していた)。

 さて、新宿の仮劇場と違いプロセニアム・アーチで舞台と客席が仕切られた渋谷西武劇場での土方のこけら落し公演は、それまでの即興に頼る大雑把な創作方法では、前売りチケットを購入(後に西武に買収されることになるカタログ情報誌『ぴあ』'72年に刊行)して指定席に鎮座する観客の要望にフィットするには無理を生じさせる興行形態でした。
 映画館「アートシアター新宿文化」公演では、劇場キャパシティーなど関係なく押し込められた観客(時には舞台上に座らされた)が生み出す現場の熱気が、イベントを盛り上げる大きな要素になっていました。
 しかし、同じ手法で創られた作品でも上演されるシチュエーションが変われば別物とも受け取られます。受付、エントランスに立つフォーマルな制服の案内嬢に促されるように入るお洒落な客席は、定刻通りの開演を知らせるブザーとともに静まりかえります。
 一方、出演者が控える舞台袖では、劇場側のスタッフによりインカム(劇場内の通信ツール)を通して現場が仕切られます。アバウトな段取りなど一切許さない。
 普段と勝手が違い過ぎる土方の西武劇場公演は、観客とのダイナミックな交感を得られぬまま、プロセニアム・アーチという額縁の中で紙芝居の絵を捲るようなシーンの羅列に終始しました。
 当時の状況を出演者であった芦川羊子(現「友恵しづねと白桃房」のメンバー)は「(主演である)土方は舞台の袖で凍っていた」と吐露します。
 この商業劇場での失敗の原因を舞踊批評家の市川雅氏は「(その公演が)よそよそしさを感じさせたのは、劇場がモダンであったからの様に思えてならない。・・・観客は坐り心地よい椅子に反応の端緒を失ったかのようであった」(`83年『舞踊のコスモロジー』)と述べられています。ライブ現場からの直接的なインスパイアーをも創作の原動力としようとしていた土方の創作手法はTPO(時代。地域、劇場。観客の嗜好)の違いにより意図も容易く破綻の憂き目に合います。

 それまでの彼の作品は、予め情宣(ポスター制作、雑誌へのプレゼンテーション)に必要になる作品タイトルだけは観客を煽るべく前もって入念に考えられましたが、実際に上演する作品は付けられたタイトルとは無関係に、殆どその場合わせ(2〜3日)で作られ、それで何とか凌いでいました。
 こんな逸話があります。舞踏という名称が後付けではあるが産声を挙げたとされる、その記念すべき第一作品『禁色』(’59年)は、三島由紀夫の同名の小説をモチーフに作られたとされています。舞台で実際に鶏を殺すというパフォーマンスにより当時のモダンダンス界の観客に顰蹙を買った20分程の小品。私達の講習会のレクチャーにお招きした劇作家、演出家、演劇評論家の堂本正樹氏は、後日土方に訊きました。「君、(小説を)読んでないだろ?」。土方はニヤッと笑って、「(本を)撫でれば分かる」と返したそうです。土方は他業種を巻き込んでの営業戦略から、有名文学者の作品タイトルだけを借用し自身の舞踊作品との関連性をアピールしました。堂本氏がこの事実を三島に伝えると彼は「一冊、売れるんだからいいじゃない」と切り返したそうです。三島の対応は粋を感じさせます。

 話を戻します。ところが、システム化した運営がなされる一般劇場での経験が少なく劇場図面も照明の回路図面も読めない土方は、公演企画から作品上演までの準備、劇場入りしてからの段取りに関しては無頓着でした。[※1]

※1:美術の設置。照明の仕込み、シューティング。音響調整。リハーサルなどの時間、人員の管理。これらの作業は通常、劇場側の担当者と図面を用いての事前の打ち合わせが必須となる。 
 例えば、アメリカの多くの劇場では劇場側のスタッフが加盟するユニオンの規制により、出演者側には設置されている機材は元より自身で持ち込んだ美術への接触も一切禁忌となります。またスタッフの休憩時間、時間外の延長料金などは細かく決められます。これはヨーヨッパの劇場でも同じです。勿論、公演に参加する、舞台アートを愛する全スタッフの成功を願う気持ちは何処の国でも同じですが。

 また、土方は劇場側と事前に行われるべき運営規約(前売りチケット=金券の販売法、時間厳守を事とする舞台仕込み、開演終演時間の管理など)との擦り合わせにも無節操に対応しました。
 土方はそれまでのアバウトな仮劇場での公演と同じように、金券として取り扱われる筈のチケットを招待券として無雑作に配ってしまうなど、公演終了後劇場とは金銭問題が尾を引きます。「暗黒舞踏」(実存の暗部)を殊更プレゼンテーションしようとした土方の作品は、終わってみれば「本当の暗黒を味わったのは、公演後土方の元へ幾度も通わされる羽目になる劇場側の経理職員」と、後に芦川は語ります。土方は彼等に真っ当な対応もできずにただ、あたふたするばかりでした。
 この公演の失敗が余程懲りたのでしょう、土方は二度と舞台に立つことはなくなります。それ以後、彼は振付けと演出に専念し舞踏の踊りとしてのジャンルを確立するために、その形化に専心することになります。
 ’74〜’76年、目黒の狭い自宅兼稽古場を仮劇場として発表した作品は、その後の舞踏の行く末を示唆するものとして評価されました。芦川を主役としたこの作品では踊り手には全編通して振付けを施しました。しかし舞台創作技術の内実はといえば未だ実験の域を出ることはなく、前時代の直裁的な意匠に頼るもので、(観客は入り口で靴を脱ぎ、渡されたビニール袋に入れ持ち込む。’90年代には消防法からこのような劇場運営は禁止されている)並んだ順番に詰め込まれた観客と出演者は空調も無い仮小屋の中、一緒に汗だくになることで一体感を生み出しました。[※2]

※ 2:このシリーズ公演は現代俳人の加藤郁乎氏により「白桃房」と命名され、現在の私達のカンパニー名として継承されます。’87年、私と芦川がご挨拶に窺った折、土方の盟兄、詩人の吉岡実さんから彼が選んで下さり鋏で切り抜いて下さった天使のロゴマークと伴に揮毫され贈られました。


 土方を主演とした作品では観客に対してアピール性の強いポーズ「立ち姿」は彼が独占し、脇役は座りの姿勢に徹させていました(何の身体技術も習得していない素人の動きは制限しないと、作品成立上大きなリスクを負うことになる)。この西洋舞踊には見られない脇役の姿勢から『がにまた』が日本のアニミズムを象徴する舞踏の特色としてプレゼンテーションされていきます。坐る姿勢の脇役達の中、磔刑のキリストを演じる土方の立ち姿を舞台縁で写そうとする写真家の切るシャッター音が終わるまで、彼は同じポーズをとり続けていました。この写真家達とスター然とした土方との関係も観客の熱狂を煽るためには効果的に働きました。
 自身が展開した実験的な身体パフォーマンスを舞踏と命名することで、舞踏界をリードし続ける土方の影響を受けて、他の舞踏家達もそれぞれの作品形態、技術を模索し出し、海外に市場を求める者も出てきます。
 逸早く海外での舞踊の公演事情を知った若手舞踏家のなかには、例えば、それまで多くの踊りのジャンルで夫唱婦随とされる音楽(西洋バレエなら古典となるクラシック音楽。日本舞踊なら端唄、長唄。フラメンコにはスパニッシュ・ギター。世界の民族舞踊、祭りの踊りでもそれぞれ独自の音楽を持ちます)を、自前の音楽に換えていこうとします。
 それまで日本で開かれた舞踏公演では何れもレコード店で販売されている既製品を使用するのが常でしたが、欧米での舞踊興行のノルマを知った舞踏家達からはオリジナルの音楽を準備しようとする気運が起こります。しかし、自身の作品に都合良く合わせてくれるような音楽家をフューチャーすることは至難でした。それ故に、観客の体に直接的に響く「地鳴り音」などの効果音を多用したり、殊更、日本らしさを演出するために演歌のヒット曲(森進一)を流したり、また当時ノイズ・ミュージックで使われていた発振器音を使用するなど対症療法的な方法で凌ごうと苦心惨憺しているのが実情でした。
 彼等の活動を尻目に土方はといえば、暗黒という彼の作品コンセプトを表徴させる「地鳴り音」を使いながらも、日本に大量に輸入されモードとなっていた欧米の音楽(彼の舞踏作品のテーマとなるシーンで使われていた曲は、アメリカのポップ・ジャズのトランペット奏者ハーブ・アルパートによる『ビヨンド』、これは日本の洋酒メーカーのテレビCMで使われていました。イージーリスニングとして有名なパーシー・フェイス・オーケストラの『サマー・ドリーム』、ドイツのシンセサイザー奏者のクラウス・シュルツの『タイム・ウィンド』と何れも日本でヒットしていた曲です)をメインに使用し続けました。
 当時の日本の舞踏の観客、批評家には土方舞踏の楽曲選択に違和感を覚える人はいませんでした。それどころか、このスタイル(モードである輸入文化を取り入れた)が世界標準として先端をいくものと錯覚する者も多かったようです。このことが、土方舞踏の後(’83年)のヨーロッパ公演で大きなネックとなります。何故、日本発の、それもアニミズムをプレゼンテーションする舞踏が「ウェスタン・ミュージックを使うのか?」と批判の対象になります。[※3]

※3:言葉(脚本)を作品の重要なエレメントとする演劇と違い、あくまで踊りの表現である舞踏では、音楽は作品構成を組み立てるための決め手になります。また、他の踊りのジャンルと同じように振付けに直接関わってくる最重要のエレメントとなります。しかし、振付け法を確立しようとする舞踏家(思い付きだけではどうにもならない程、大変な労力を要する)も少なく、また、市販の音楽に振り付けるのは まこと に詮無い行為です。土方にしても、振付けと音楽に密接なる関係を結ぶことは早期の段階で諦めていました。 振付けと音楽との夫唱婦随の関係を築き得ているのは舞踏では当時も今も私達だけだと自負しています。作品構成、振付けを担う舞踏家は自身で舞踏音楽を作曲することが理想ですが、それが出来ない場合でもあるレベル以上の音楽的素養を身に付けることが必要になります。でないと、外部の音楽家を採用するにしても創造的な関係を結ぶことは難しいでしょう。

 
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2017/7/17 UPDATE 読みもの・映像・音声
舞踏の表現構造 執筆:友惠しづね
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舞踏、その体と心 友惠舞踏メソッド 執筆:友惠しづね
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ブルース・ハープ 執筆:加賀谷さなえ
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大船渡市・陸前高田市 災害支援ボランティア (入澤サタ緋呼)
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