舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。




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舞踏の精髄

文:芦川羊子

 土方亡き後、舞踏界に友惠のような天才が顕われるとは誰も想像しなかった。
友惠は舞踏が時代の一現象として終わるのか、舞踏の技術と世界観によって、普遍的な身体表現を確立できるのか、孤独な真剣勝負に挑んだ。
 友惠は舞踏の創成期を築いた土方の技術と精神性を引き継ぎ、さらに土方を越えることによって到達する、舞踏芸術の新たな領域に挑戦し続けている。友惠の率いる「友惠しづねと白桃房」は、唯一土方舞踏を継承する舞踏カンパニーとして多彩な活動を続け、今日まで土方舞踏は絶えることなく、存続している。

 友惠は土方が死去した翌年の1987年に、私を含む土方最後の弟子を結集して「友惠しづねと白桃房」を主宰した。
 土方が逝去して時を経ず、私が友惠に急接近したことを、当時の舞踏界では、取りざたすることもあったが、土方と二十年間活動を共にしてきた私は、土方の創作を理解できるのは、友惠以外にいないと強く直感した。ところが友惠は、私の想像を絶する、とんでもない怪物だった。私が創作現場で起きる数々の奇跡を突きつけられて、友惠が土方を幾重にも上回る怪物だと悟るのは、もっと後のことになる。
 友惠は舞踏と音楽のライブ公演やメンバーの主演公演を経て、翌1988年の利賀国際演劇フェスティバルで「糸宇夢(しうむ)」を上演する。友惠が自ら土方の振付作品を踊り、土方舞踏の「舞い」の技術を会得した上で、構想から振付、音楽、美術、照明の全てを手がけた。この実績だけでも、友惠が尋常でない速度で生きていることがわかる。
 友惠は四六時中創作のことを考えていて、からだはいつもぼろぼろだ。創作中に何度も入退院を繰り返す。父親ほども歳の離れたアーティストからも「友惠は自分を追い込むのが上手い。いつも死ぬか生きるかの、ぎりぎりのところに追い込んで、創作をしている。友惠の内省力は経験で培われたものではない。生来の芸術家、それも飛びっきりの天才だ」と言わしめた。


■土方舞踏の集大成「糸宇夢」の奇跡

 友惠ほど才能があって、私欲を持たず、舞踏の創作のために純粋に生きてきた人間に、これまで私は会ったことがない。
 1984年に開催された土方の舞踏講習会に参加した友惠は、同じ創作者として土方に強い共感を抱いた。当時既にギタリストとして高い評価を得ていた友惠は、本来なら音楽の道に生きるのが道理だろう。
 しかし友惠は「友惠しづねと白桃房」を結成し、銀座セゾン劇場の土方巽追悼公演のプレ公演となったスタジオ200での公演のために、アメリカで行われるギタリストのコンテスト招聘もキャンセルして、友惠はカンパニーの舞踏公演に投じた。そして舞踏と音楽のコラボレーション公演や、メンバーの主演公演を経て、翌1988年の利賀国際演劇フェスティバルで「糸宇夢(しうむ)」を発表した。

 友惠は「糸宇夢」上演までの一年の間に、土方の全振付を私と共に踊りながら、実践的な検証をしていった。
 私と土方の間で行われた稽古は、資料集めや、振りを作るために多くの時間を要したが、振りが決まるときや、作品のための振付を行うときは、両者の感性と感受性によって作業が進むもので、即興性も加味した、速やかな速度が必要とされた。稽古に時間を要するのは、土方とふたりで作った振りや、作品のための振付を団員に振り写しを行い、習得させるためだった。
 土方と私の作業は、自身では踊らずに振付に専念する土方と、土方の発想をかたちにしていく私と、役割分担がはっきり決まっていた。しかし、この関係は、土方がいなければ踊り手として自立できないという限界にも直面する。振付再現の稽古中に、友惠から問われれば、私に創作の動機が無いことが露見した。
 だが二十代前半に音楽で独自の創作スタイルを確立していた友惠は、私と土方が分担していた作業を、はじめからひとりで行うことができた。

 友惠は日本文化の真髄である「抜け」の美学を、からだで具現化できる唯一の舞踏家である。表現者としての友惠は、からだのしなやかさはもとより、からだを空間環境内のひとつの要素として捉える視点の多さから、卓越した身体感覚を引き出した。
 友惠が踊る。友惠のからだから湧出したイメージのからだが、空間の広さ、奥行き、高さの全方位に自在に拡張していく。時に友惠のからだは粒子状になり、空間に反響した光や音の粒子と一体になる。友惠の見えるはずのない感覚器官が生き物として、多元的に変換し、自在にデフォルメしていく。
 1996年に開催された第五十回エディンバラ国際フェスティバルのレビューでは、「友惠しづねが流れるように舞台に登場する。指先から足全体にいたるすべての筋肉がコントロールされているように見え、目の瞬きさえも、驚くべき集中と強さを表現する。」と賞賛される。
 指を一本動かすだけで、舞踏の空間を変幻させてしまうことができる友惠の神業的な身体能力は、変化し続ける環境と順応し千変万化する。その速度と吸収力はまさに神がかり的で、個を超越した名人の域という他ない。私は友惠の身体能力のすさまじさに、稽古中に幾度となく鳥肌の立つような経験をした。
 また友惠の創作者としての才能が、土方の創作意図を的確に汲み取ることを可能にした。友惠自身が踊って土方の振付を検証する稽古は、一踊り手の私の能力をはるかに上回る、名人友惠の超絶した身体能力のなせる技によって、奇跡的な再現が行われたのである。

 友惠の「糸宇夢」は、土方にとっても活動の絶頂期である白桃房連続舞踏公演「ひとがた」「鯨線上の奥方」の演出方法を踏襲した作品である。
 シナリオのない舞踏作品は、作品の主題とイメージが入れ子構造になるシーン作りが特徴的である。友惠は幕開きからフィナーレまで、十三シーンから十六シーンで構成される土方作品を徹底的に分析、究明していった。
「糸宇夢」のクライマックスは「仏」と「子供」のモチーフで構成されている。同じモチーフは土方の「ひとがた」「鯨線上の奥方」でも用いられている。土方の作品では私のソロ以外の群舞のシーンでは出演者の技術的な精度が低く、シーンの構成に一貫性がなかったが、友惠はシーン毎の綿密な時間配分や、各シーンの精度を高めることで、主題とイメージの入れ子構造に一貫性を持たせ、感動的なクライマックスの演出に成功した。
 土方の演出方法を、友惠は舞踏の創作をはじめて、わずか一年で完璧なまでに継承した。それも机上の舞踏論ではない。舞台芸術として正面から取り組み、舞踏作品として成功させたのである。

「糸宇夢」を演出している友惠は、土方が友惠に姿を変えているのではないかと思わせることがたびたびあった。しかし当の友惠は、土方と同じ演出法を用いていることに、全く気が付いていない。後になって「そういえば、土方もこんな演出していたよな」とつぶやくのだった。
 友惠は「糸宇夢」の舞台美術に、土方が1973年の西武劇場や、「白桃房連続舞踏公演」でも用いた板戸を使っている。美術としてのディテールに関して、土方は集めた板戸をそのまま使用したが、友惠は木目の質感を重視して、全ての板戸をバーナーで焼いた後に、一枚一枚を丹念に水洗いした。
 洗った後もさらに木目の艶が出るまで磨き込まれた板戸は、舞台照明の創る空間にみごとに調和して、舞踏空間に必要な闇と光の演出に真価を発揮した。友惠の創る舞台美術は、素材の特質を最大限に生かし、素材に対する友惠の愛情と親密さが、日本文化の真髄である「抜け」の空間を作りだす。

 友惠が舞踏に関わってわずか一年で「糸宇夢」を成功させた最大の要因は、土方にはなかった、友惠が作曲した音楽による。「糸宇夢」は友惠の自作曲による音の構成で、作品に友惠の世界観が明確に投影された。
 世界で活躍する舞踊団の多くは専属の音楽家と活動を伴にする等、音へのこだわりに対しては厳密である。作品の一貫性と完成度を高めるために、オリジナルの音楽は舞台芸術の必要不可欠な要素になっている。

 専属の音楽家がいなかった土方舞踏の場合、音楽は市販されているレコードやCDが使用され、舞踏の振付のために作曲された音楽がなかった。これは作品の完成度において、歴然とした違いとなって現れる。
 1978年舞踏が初めて海外で上演された、磯崎新監修のパリ「間」展会場の公演でも、作品の音楽がオリジナルで無いことが問われた。また土方にとって二回目の海外公演となる、1983年のヨーロッパツアー「日本の乳房」が成功しなかった原因は、演出の土方が同行しなかったこともあるが、根本には作品に一貫性をもたらすオリジナルの音楽がなかったことも大きい。初演の日本公演では、アメリカのポップスを使用しているシーンを、地鳴りの効果音に変えるなどの強引な手法は、シーンの意味合いを全く変えてしまい、作品のメッセージ性を喪失させてしまう致命傷となった。

 友惠の作品は全シーンに、友惠が作曲した音楽を使用することで、舞踏作品としてのオリジナリティが勝り、舞踏芸術の次元を高めた。
 また友惠の指導によって実力を養った踊り手について「新劇」の舞台評は、「土方時代と比べて団員達が驚くべき変貌を遂げている」と述べている。
 二十代にして既に作曲家であり、天才ギタリストとして注目されていた友惠は、音楽雑誌に「ギターによって何が可能か?を果敢に試みている。ギターという楽器としての限界性と、音の領域を拡大しようとする衝動が破綻を臭わせつつ拮抗して、静謐なカオスを生み出している。」「演奏家として以上に、音楽全般に優れた才能を発揮する人だと感じた。」と高く評価されていた。

 作曲家でありギター奏者の友惠はまた、並外れたパフォーマーとしての能力がそなわっていた。
 友惠は作品を作りながら、より根源的な音を求めて、ナタやノコギリを使った「ギター壊し」のパフォーマンスを行った。このパフォーマンスは「ギターの常識を突き放し、自らの思想でギターを切り刻んでいるのだ。」と、観るものに鮮烈な印象をもたらした。
 溢れ出る友惠の才能は、ひとつの形式に収まり切れない創作のレンジの広さを表している。
 友惠はまた「ギターを弾かずに、演奏できる方法はないか」という切実な思いから、床にギターのかたちをテープで描いて、そこに数十匹のヒヨコを放した。ピヨピヨと鳴きながら、床に描いたギターの上に拡がっていくヒヨコ。ヒヨコの鳴き声がギターの音を象徴していた。
 ヒヨコに声をかけながら踊る友惠の姿は、ギターという楽器の限界から解き放たれ、ギターを演奏するという行為の拡張を、自らの身体でみごとに展開して見せた。とかく観念を優先させるパフォーマーと違って、友惠のパフォーマンスは舞踏家としての潜在能力を如実に発揮している。

 友惠はそれまで一度も経験したことのないフリーミュージックのジャンルにもすぐに入っていけた。
 友惠は「フリーミュージックというジャンルがあるなんて知らなかった。だけど、フリーの演奏は初めからできた。もっとも、いつでも追い込まれていたけれど」と、即興演奏について語る。
 日本のフリーミュージックのパイオニア小杉武久や高木元輝、吉沢元治の名前すら知らず、音を聞いたこともなかった友惠は、彼らとのはじめての共演で、その実力を認められた。
 フリーミュージシャンとしてデビューした友惠は、父親ほどに年齢の離れた吉沢元治から、天才として惜しまれ自殺したサックス奏者「阿部薫以来の天才」と激賞されて即興デュオ・グループを組んだ。
 吉沢元治との熾烈なライブ、友惠は「やるか、やられるか、どちらかしかないよ。この即興演奏は一音聞いただけで、相手に全てが分かられちゃうから」。
  吉沢元治は「友惠は天才だ。何であんな演奏ができちゃうの。そして何であんなに老成しているの。それに友惠は追い込み方がうまい、だから、あんな演奏ができる」と、感心していた。また吉沢は「友惠は皮膚を剥いで、神経をあらわにした状態で生きている。そんな生き方していると、ギターは弾けても、箸も持てなくなるよ」と、よく忠告していた。
 それでも良いと友惠は想っていた。からだも精神状態もぎりぎりまで追い込んで、はじめて見えるものがある。生死がかかっていない創作はあり得ないという友惠の信念。生死観から創作の一回性、舞台の一回性を問う命題が浮き彫りになる。友惠にとって創作は常に死と均衡を保つ生のふるまいであり、創作は生きることの証しなのだ。

(「からだ表現と即興」より、文:友惠しづね)
「即興音楽というのは、参加者がリズムもキーも演奏時間も何も打ち合わせずに始められる演奏スタイルです。演奏家の出身ジャンルはジャズ、ロック、現代音楽、邦楽、クラシックと様々。未知の相手との出逢いより未知の自分と出逢い続けるという欲望を導く演奏スタイルは、スリリングですがリスクを持ちます。互いの演奏が互いの契機になり合いますので、リーダーはいません。
 例えば、初対面の2人の演奏家がステージに立ちます。極端な話、相手の音を一音聴き合っただけで、お互いの全てが分かり、分かられてしまいます。
 相手が、どれ程の実力を持っているのか。どんな人間性なのか。どう展開しようとしているのか。相手の気分や演奏意図も分かります。
 自分の他に共演する演奏家が4人いる場合は、彼達を同時に一瞬で見抜きます。勿論、自分も全員から見抜かれています。演奏は皆それぞれ自分の奏でる音も他人の音と並列に捉えることで成立しますので、ステージには5人のコンダクターがいることになります。
 自分の奏でる音に捕われていると相手の音を聴き逃しますので、謙虚さが必要になります。これは遠慮とは違います。アンサンブルの必然から出すべき音は出さなければなりませんが、意識的な行為は敬遠されます。自分が出すべき音はアンサンブルの必然から引き出されることを望みます。」

 ギター以外に雅楽楽器である竜笛や三味線も演奏する多才な友惠だが、電子機器である発信機や音源となるオブジェも創作し、ライブで効果的に使用された。これら位相の異なる音楽も友惠はすべて、今を生き切る現代アートとして創作していた。

 ここに挙げた記事は全て友惠が「友惠しづねと白桃房」を結成する以前に書かれたものである。

『スイングジャーナル』 小川隆夫
「アルバム『孤山』を聴いて彼が演奏家として以上に、音楽全般に対する構成力に優れた才能を発揮する人だと感じた。メンバーからもわかるように、ここでの演奏はフリー・フォームで展開されていくが、こうしたアプローチにおける構成力の巧みさは、より強いアピール度を持って聴き手に訴えかけてくる。ここではアコースティック・ギターを演奏していることもあり、クラシック・ギター的アルペジオや、邦楽にも通じる音階が多用され、彼を独自のギタリストとして位置付けている。それにしてもスピード感溢れる彼のギターは鮮烈だ。」

『ラティーナ』
「その演奏には音楽に対する切実で根源的な問いかけが内包されている。具体的には音楽によって何が可能か?を果敢に試みている。ギターという楽器としての限界性と、音の領域を拡大しようとする衝動が破綻を臭わせつつ拮抗して、静謐なカオスを生み出している。テクニックには目を見張るものがあり、邦楽の宮城道雄に捧げた曲、異端的ブルース・フィーリングを漂わせた曲など、聴きどころは多いが、とりわけボトルネック奏法を駆使したラストのスロー・ナンバーが印象に残る。」

『ジャズ批評』
「極めて独自の音楽観を持ち、それを実践し続ける友惠のギターは制度化されたスタイルを超え変化し続けるという稀に見る行為者であると言える。友惠はあらゆるジャンルを通過して今日に至り、またこれから先も変わり続けてゆくミュージシャンである。メロディアスなものの追求から一転して破壊に至るまでの全方位的なレンジの広がりを有し、自己の一部だけを切り売りするという事から脱却し、感情、そして生活、さらには思想的背景までを音楽の中に盛り込もうとするその姿勢は、まさしく一人一派たらんとする見事な態度といえる。」

『日刊カンコー新聞』
「曲の合間の踊りには神がかり的なふん囲気さえも漂わせ、特にダンスの部分はニジンスキーを思わせる演出である。」

『ギター・ミュージック』
「終始楽器は饒舌の限りを尽くし咆哮を繰り返す。ギターの常識をつき放し、自らの思想でギターを切り刻んでいるのだ。だが、それは付け焼き刃の竹光とは違う。並みのギタリスト以上のギター・テクニックをつきつけられてドキッとするのである」

『ジャズ批評』
「嬉しいノン・ジャンルのギタリストの演奏を聴く機会があった。彼はギターを破壊するために弾くという、これまで出現したギタリストとはギターという楽器の意味合いを根底から揺るがしている存在であった」

「アルバム『孤山』 ライナーノーツより」 今井正弘
「長年、尊敬の眼差しを向けて来たという、宮城道雄へのオマージュ『水の変態』は前述したように見事な構成と演奏により、友惠と宮城道雄との関係が浮き彫りにされ、また何よりも驚いたのは『世紀末』での演奏だった。この曲が一番多くのテイクを重ねたのだが、それはそのはずで、ワンテイク増す毎に見違えるように変化していったのだ。けだるく、無力感に満ちたこの無垢な世界こそは友惠の持つ音楽美なのだ。この曲を聴くと安易な聴きごこちだけ良い環境音楽がいかに見せかけだけのものかが良く分かる。一切の余裕を取り去ったところで、こうした『世紀末』のような優しくエロティックな演奏が出来るという証明でもあろう。

私はこの名付けようのないギタリストである友惠の音楽を考える時、従来の言葉の中で言い表す術を知らない。たった一人の世界を築いてゆこうとする男の音楽を例えば『孤山』という名で呼んでみたい気がした。」


 友惠の創作にジャンルの垣根はない。舞踏作品も、音楽の作曲も、友惠の創作姿勢は変わらない。一年に四千時間のギター練習を自らに課した、友惠にとって創作とは命を搾り出して行うことなのだ。
 友惠は二十代の半ば、作曲のために一年に四千時間のギターの練習を課して、ひとりアパートにこもった。ギターを弾いた傍から音が消えてしまうのが怖くなって、押入れのなかで練習をしたこともあった。
 友惠の使用するギターは、ナイロン弦を使用するクラシックギターと違い、もともとは肉体労働者が使用していたフォークギターのスティール製の弦。「軽い弦だと弾いた気がしない」と言う友惠は、その中でも一番太いものを張っている。
 毎日一瞬一瞬が拷問だった。一日十四時間、時計の秒針を睨みつけて、涙を流しながら練習した。指と爪の間に何本もの針を刺された痛みが続き、弦を抑える指の爪は半分の長さになった。指先はまるで芽キャベツの断面のようになり、指にできた水膨れの下にまた水膨れができた。夜は背中の痛みで眠れず、仮眠から目覚めると関節炎で両手が開かない。
 ギターの練習は指に針を刺されるような、激痛の持続は、まさに地獄の稽古。友惠が耐えなければならないのは、一秒の拷問を十四時間、続けること。そこから逃げ出さないことだった。そのうち持病の喘息の発作止めの薬も効かなくなった。
 恐らく、弦楽器を弾く人間で、世界で一番練習をした。少なくとも苦しみだけは誰にも負けていない。メトロノームのゼンマイがバカになった。たったひとりで、誰がこんな苦しみに耐えられるだろう。何事も極めないではすまない友惠だからできた。
 ギターにさわると指が勝手に動く。しかしギターを置いた途端、音を出すのが怖くて、再びギターに触れなくなる。無作為に出ている外から聞こえる音が圧倒的で、自分の出す音が恣意的に思え、音を出すことが恐怖になった。自分の音楽の存在意義に悩んだ友惠は、からだも精神状態もぎりぎりまで追い込んだ。そこではじめて見えるものがある。創作とは不可分な関係にあるこの状態になるために、友惠は「私は不器用だから、自分を追い込んだ方が簡単だ」と言う。
 こうした生き方がまさに暗黒、友惠は暗黒をも自在に操作できるようになった。友惠の暗黒の鏡に映せばその人間が贋物か、贋物でないかが一目瞭然となる。その友惠が土方舞踏のスコアを解釈したのである。

「糸宇夢」の最後の場面では踊り手が仏になる。土方の舞踏稽古では、写真集の仏像の形の模写に終始していた。土方も私も模写による形状以上のものを求めなかったが、友惠は舞踏で「仏」を踊ることは、人の命に本来そなわっている「仏」を引き出すのだと言っている。友惠しづねを得ることによってはじめて舞踏に命が吹き込まれた。
 友惠の求める舞踏のかたちは、人それぞれの個性や生命状態から出てくる形状のことを言う。そのために稽古を重ねる。

(「糸宇夢」より、文:友惠しづね)

「土方舞踏の「仏」の踊りだが、私が「糸宇夢」でこの踊りに取り組むに際し二つの問題が生じた。 一つは「仏」という宗教上の超越存在を舞台で人間が踊ることが、果たして可能なのか、どうか?
 振付家の土方は仏像の写真集からその形を模写して踊り手に「形」を写す。 しかし、「形」はそれを成立させる踊り手の精神構造、精神状態と密接な関係があると、私は捉えている。
「色心不二」とは「体と心は二つにして二つにあらず」、仏教の根本思想である。「仏」という完全な形には完全な精神が必要ということになる。ところが幸か不幸か、不完全な精神性を常とする浮き世の人間である一踊り手に、それを求める術はない。
 二つ目の問題は、土方の弟子であり土方舞台に実際に立つ踊り手が、いかほど日本文化の精神史に馴染む「仏」とやらに傾倒しているか?と、までは云わないにしても、興味を持っているのか? 残念ながら、芦川を筆頭に、彼ら土方舞踏の踊り手で修学旅行の京都・奈良の寺巡り以上に「仏」に興味を示す人間は誰もいなかった。

 1987年、私が当舞踏カンパニーに参加することを決めた時にメンバーに与えた課題の一つは、「妙好人伝(みょうこうにんでん)」を読んでもらうことだった。
「妙好人」とは江戸時代、浄土を願って真宗(親鸞浄土教)を信じ尽くした文盲の庶民。彼らは、最も健気に日本人の信仰の純粋さを表象していると云われた。
「完全他力」を標榜した大仏教徒「親鸞」の弟子として、難解な仏教理論は分かる筈もないからこそ、「信じる」という純朴な力により「悟り」に到達した庶民。(どうも、ここら辺に、舞台で「仏」を踊るためのヒントがある…)と、私には想えた。
 幼子が母に見せる笑顔と幾年月を生き抜いた「爺っちゃん、婆っちゃん」が垣間見せる諦観にも似た笑顔には、共通項があるような気がする。
 イデオロギーや国家の理念、難解な哲学ゲームや社会的ヒエラルキーなど意にもかいさないしたたかな笑顔。もしかしたら、それが「仏」の笑顔(半顔微笑) に通じるものなのかもしれない?そして、それは生き物の「本性」に怒濤の信頼を寄せることで始まっているように想えた。
 私は、「仏」の踊りのモデリングとして、自力本願を旨とする理知的な禅仏教の対極に位置する「妙好人」=「爺っちゃん、婆っちゃん」の「信じる力」を選んだ。
 どうせ難解な仏教理論など、踊り手に教えることは出来ない。ましてや、主宰者の私自身が分かっていない。だけど、「信じるだけ」なら、御大層な修行などしなくても、誰でも出来る。
 これが舞踏作品「糸宇夢」の、私の無知から始まる着想だった。」


 天才友惠の思想と生き方が投影された「糸宇夢」の「仏」や「子供」は、友惠の透徹した世界観によって、作品のメッセージ性をより鮮明なものにして、観客の共感を得た。
 友惠は利賀国際演劇フェスティバルで「糸宇夢」の初演を行ったその年に、東京八王子の老人福祉施設に訪問して同公演を行っている。「友惠しづねと白桃房」を結成した友惠は、メンバーに「妙好人伝」を読ませ、市井の庶民、文盲の仏教徒達の悟りの姿から、舞踏の精神性を学ばせたのである。老人福祉施設を訪れた友惠は、老人達の姿を通して「肩肘張らない生活者が描くからだの景色は美しい」と感嘆する。これが友惠の創作の原点なのである。
「糸宇夢」は初演の利賀フェスティバル以降、キリンプラザ大阪、東京、九州、東北など多数会場で上演。1989年、オランダ公演を行う。

 わずか一年で土方の演出方法を体得した友惠の「糸宇夢」は、土方舞踏の集大成という以上に、作品を貫く世界観の精度と緻密さ、踊り手の実力において、土方作品を上回り、舞踏芸術に大いなる展開をもたらした。
「糸宇夢」上演の1988年は舞踏芸術の元年であり、「糸宇夢」は舞踏芸術の礎となる作品である。


■友惠ワールドを構築した「皮膚宇宙のマグダラ‐一本の木の物語」の奇跡

「糸宇夢」を上演した翌年の1989年、友惠は二年連続出演による利賀国際演劇フェスティバルで「皮膚宇宙のマグダラ‐一本の木の物語」を上演する。
 公演の準備と同時に、東京池袋のスタジオ200では、即興音楽とのコラボレーションシリーズ「風に寄りそう女」の定期公演も行い、このシリーズが第一回池袋演劇祭の大賞を受賞した。
 また舞踏作品の創作と上演に加えて、音楽と舞踏のライブ活動も週に二回ほどのペースで行われ、友惠とメンバー共々、創作と稽古と実演に明け暮れる日々が続いた。
 メンバーは創作のために二十四時間体制の稽古も行った。友惠が創作にかけた命のエネルギーが、それを可能にさせたのである。かつて一年で四千時間のギター練習をした友惠の、創作に妥協を許さない信念が、メンバーに意欲を抱かせる。メンバーは一喜一憂しながら、踊り手に手本を見せ振付けする友惠の生き方とシンクロしていく。舞台創作のためのパラメーターの数は土方時代とは数段に違う。舞踏は永遠の渦中である。舞踏のメソッドは人が生きている限り、進化し続ける。

 友惠のチャレンジ精神は、舞踏芸術として、また現代アートとして、常に難度の高い方法に挑戦している。
 利賀フェスティバルで上演した友惠の「皮膚宇宙のマグダラ‐一本の木の物語」は、地面に着地した一粒の種が環境に育まれ、一本の樹木になるまでを描いた舞踏作品である。一本の樹木とそれを取り巻く自然や生き物との葛藤と調和を舞踏として体現させることで、死と再生のリアリズムを具現化した作品である。
「皮膚宇宙のマグダラ‐一本の木の物語」のタイトルの意味するものは、踊り手のからだと世界との接点は皮膚。その皮膚の絶妙な様子は、個々の生命の複雑性を如実に表象する。皮膚の表情、景色は、人の心を正直に映し出してしまう。マグダラは聖書に登場する聖女マグダラのマリア。現代を生きる私達が受け入れながら再創造していかなくてはいけないものは、汚染され続ける環境であったり、虐げられた人々を産み出す社会というシステムであるのかもしれない。「皮膚宇宙のマグダラ‐一本の木の物語」は、人類への願いを込めた作品タイトルであった。

 主演の宇受美(うずみ)は幕開きからフィナーレまでの一時間四十分を、一箇所に立ち尽くしたままで踊る。友惠の作曲作品に合わせて創られた振付けは、完成後、曲は外され自然音(幾種類もの風、雨、動物の鳴き声)等の効果音に入れ替えられ、一時間以上効果音だけで構成された作品になった。この効果音が踊り手への振付けの転換、切っ掛け出しの合図にもなる。本番中、音響室は舞台上の踊りを見ながら舞踏スコアを読み続けるメンバーと音楽、音響のテープ、ミキサーのフェーダー操作をするスタッフの怒号が飛び交う。
 踊り手には振付けの難易度もさることながら、からだの状態の管理に、友惠から熾烈な要請が出される。真正面から人間と自然の命をテーマに取り組んだこの作品は、舞台上の一箇所に立ち続ける樹の一生という、大見得を切った、あまりにも明瞭な筋書きのために、途中一瞬でも踊り手がテンションを落とせば、観客には筋書きを追うだけの白けたものになる。まさに舞踏という踊りの醍醐味を掛けた作品だった。
 観客に作品の叙情性を堪能してもらうために、主役や他のメンバーも最大限の心を持って臨んだ。制作された美術パネルは五十数枚、舞台上だけでなく、客席全てを取り囲み、劇場通路にまで及んだ。この美術は友惠がメンバーの入澤サタ緋呼の能力を最大限まで引き出し制作させた。
 これ程の労力を掛け、絶賛された「皮膚宇宙のマグダラ」は、キリンプラザ大阪と利賀フェスティバル合わせて四日間しか上演されていない。

 友惠は「友惠しづねと白桃房」結成から、わずか二年で舞踏作品「糸宇夢」と「皮膚宇宙のマグダラ‐一本の木の物語」の上演を成功させ、この二年間で、友惠は高速で脱皮しながら、怪物になっていった。まさに土方は友惠を生むために、舞踏を興し、今も死んだ土方は友惠の中だけに生きている。
 友惠は土方より深い暗黒をもっていて、それを創作で昇華することができる。昇華のレベルは高く、高みまで昇華することで、友惠の精神構造は清廉で突き抜けるような明るさを保持している。作品は叙情的で、暗黒を感じさせない。

「息づく生命 いとしさじわり」朝日新聞
 利賀フェスティバルの会場の一つ、太い梁(はり)と柱が黒光りする利賀山房は、合掌造りの民家を移築、改造した劇場。窓から漏れる、舞台の照明も、人家の灯のように、懐かしさを、かきたてる。
 友惠しづねと白桃房の舞踏『皮膚宇宙のマグダラ』は、温かな感触の、美しい舞台だった。
  時の流れの中に立つ、老いた木と、若い木の、誕生、成長、死、再生が、表現される。背景の壁は樹皮を思わせる微妙な色合い。破れた布を重ね合わせた衣装も、森の中から選び出したようなやさしい色で、しなやかに演者を包んでいる。
 柔らかな日差しの中で伸びやかに育つ若木。容赦なく襲うあらしに倒れる老木。自然の中に息づく生命のいとしさが、胸にじわりと広がる。演じられる場と、舞とがぴたりと合い、劇場は不思議な小宇宙になった。舞台を作りだす空気を呼吸するうちに、見る者の心も異空間を漂っていた。

 友惠しづねの作品はどれも味わいの妙に尽きる。避けがたい死の原風景が生の輝きを際立たせ、透徹した友惠舞踏の世界観を作り上げている。表現手段として舞踏を名乗っている他の舞踏家達と、全く別次元で創作をしている。だから、友惠の舞踏では観客に涙を流す人がいる。


■第五十回エディンバラ国際フェスティバル招聘作品「蓮遥」の奇跡

 続く1990年の松本演劇フェスティバルで「蓮遥」を上演する。
「蓮遥」は1994年ニューヨークのジョイス・シアター、オーストラリアのアデレード・フェスティバル、1996年第五十回エディンバラ国際フェスティバル招聘公演等、世界各国で上演された。
 世界の演劇フェスティバルのなかでもエディンバラ国際フェスティバルは、1947年に第二次世界大戦後の都市復興と市民の心を和ませる目的で始まった、カンヌ映画祭に匹敵する、もっとも歴史のある大規模な芸術祭として知られている。
 夏のバカンス時期に三週間にわたって催されるエディンバラ国際フェスティバルは公式フェスティバルと並行して、フリー参加の大道芸やパフォーマンスのフリンジが同時に開催され、寝袋を担いだバックパッカーや観光客が世界中からやってくる。
 公式フェスティバルは、フェスティバルのディレクターが世界中から優秀な舞台アートを探し、オーディションで選考した演劇、オペラ、クラシック音楽やバレエなどの作品が上演される。第五十回フェスティバルに、友惠しづねと白桃房は招聘された。

 第五十回エディンバラ国際フェスティバルのレビューから、その一部を紹介する。

ドン・モリス、スコッツマン
「第五十回フェスティバルは間違いなくフェスティバル・ディレクターであるマクマスター氏の保有する驚くほど素晴らしい日本の友惠しづねの舞踏が初参加したことで記憶されるであろうし、またその価値がある。」

ジョン・パーシヴァル、インデペンデント
「新しい方法のルールをやっと覚えたかと思うと、ほかの人がやって来てルールを変えてしまう。1960年代に考案したダンス演劇の一形態である舞踏の演芸家たちは、セミヌードで、肌や顔を真っ白に塗るのが通例であった。そんな状態を一気に吹き飛ばしたのが舞踏団友惠しづねと白桃房の創始者である友惠しづねである。
 キングス・シアターでは"Renyo - Far From The Lotus"の九名のパフォーマーが演じていたが、多分間違いなく、私が今まで見た日本の演劇集団の中では最高のパフォーマーたちである。そこには十分に計算された効果、快活さ、そしてゆっくりした動きがもたらす魅力が満ちている。」

 蓮遥(れんよう)」という作品は、空から落ちて来た鬼の子供とそれを見守る地蔵の関わりと、その距離がテーマになっている。鬼の子も地蔵もどちらも友惠自身なのだ。それは人間の宿命からの救済と、滅びるからだとの抜き差しならないポエジーを表現している。
  友惠の創作の根幹には舞踏哲学の「自他不二」の思想がある。「『自他不二』とは『ふたりにしてふたりにあらず』。その在り方は、世界(人、動物、植物、環境との関係)の中で育まれる。個性は出すものではなく、湧き出るもの。勿論、個性の種類は人類の人数分ある。

 自他不二の思想は作品「蓮遥」で、ますます深められていく。この作品の稽古は前作以上に入念に行われた。友惠は踊り手から、隠れていた個性を引き出す。釣り出すといった方がいいかもしれない。友惠の放つ釣り針に踊り手の隠れていた個性がかかったら、後は力勝負だ。・・・波間から巨大魚が跳ね飛ぶ。
 友惠の稽古でひとりの踊り手が一流の舞踏家として孵化していく姿を、目の当たりにして私は慄然とする。その律動はメンバー全員に伝わり、舞踏の醍醐味を、あらためて新鮮に感じる。
 「蓮遥」のモチーフは地蔵である。耐久性があるブロンズで作られた仏像と違って、路傍の石の地蔵は、雨風にさらされ、時を経て朽ちていく。その身を取り巻く環境と邂逅し続けながら、それを野方図に受け入れる。かたちが朽ちていく地蔵の姿は、環境と自他不二の関係にある。
 権威、権力に称揚された厳かさを備える寺院の仏像より、自然に、さりげなく、そして人間の生活に密着している地蔵。一生活者と同じ社会、自然環境のなかで拝む人間と、拝まれる地蔵が自他不二の関係になっている。
「友惠しづねと白桃房」を結成したときに、メンバーに「妙好人伝」を読ませた友惠。「妙好人」は地蔵に似ている。「蓮遥」は自他不二の思想から生まれるべくして生まれた。

「第四回松本現代演劇フェスティバル・パンフレット」より
「友惠しずねと白桃房の舞台から立ち登った、あの懐かしい感じは一体なんだろう。わたしたちは、こきざみに震える奇妙な仕種に撹乱され、中空を見すえる不気味な半眼に吸い寄せられ、かげろうのように揺れ動くおどり手たちの移動に引きずられ、次の瞬間すべてを静止させる硬直した死体に縛り付けられる。
 つまり、決して穏やかな舞台を見ていたわけではない。なのに、観終わった後、痺れるような感覚の奥に、ふっと湧き上がる柔らかなものを実感した。それは厳しさと優しさに包まれ、冷たさと温かさに支えられている古い記憶にまつわる情感だ。懐かしさのようなもの、アイデンティティーの零点といってもいいのだが、友惠しずねと白桃房の舞踏のオリジナリティはこの地点から出発しているように思われる。
  そういう意味では、これまでの現代演劇フェスティバルで上演された三十六作品のなかで最も強烈にオリジナリティを発揮した舞台であった。現代表現の特徴はオリジナリティの喪失である、というレベルを遥かに超えて、それは独創性と正当性を主張していたと思う。あの懐かしさはそのような確信を伴って今も生きている」。


1994年ジョイス・シアター公演(ニューヨーク)

ジャック・アンダーソン、ニューヨーク・タイムズ
「ビヨンド・ブトー、舞踏を超えて」
「動きは言葉より多くを語る。友惠しづねと白桃房のジョイス・シアターでの『蓮遥』について説明するには多くの言葉を要する。そしてこのイベントを歴史的、審美的なコンテキストに位置づけするにも、多くの言葉が必要である。が、幸い、ステージで起きたことの衝撃は一、二文に要約できる。
『蓮遥』では簡素なローブを着た八人のダンサーが探求の旅に駆り立てられていた。彼らの精神的な献身と情動的な強烈さには注意を引きつけられ目が離せなかった。
この舞踏団の歴史的なバックグラウンドについて、少しばかり語る必要がある。白桃房は現代日本の新表現主義舞踊様式(舞踏と云われている)の創始者土方巽が、1974年に東京で結成した舞踏団である。土方が1986年に死去した後、彼の弟子たちはそのグループを継続することに決めた。1987年に友惠しづね氏が監督になってから、友惠しづねと白桃房と改名した。これは長い名称であるが、カンパニーの過去を敬意をもって受け入れながらも、彼の指導のもとにカンパニーが新たな創造の道を歩むことを示唆している。
アメリカ人のダンスファンのなかには、舞踏というと、顔を果てしなくゆがめ、念入りにポーズをとる、マスクのような白いメイキャップをしたダンサーたちの、堂々とはしているが憂鬱なスペクタクルであるとみなす人たちがいるだろう。友惠しづねと白桃房のメンバーにも、時に決然たるものものしさや、そして実際に奇怪な振る舞いはあった。しかし、彼らの踊りは多様であり、仮面のような白塗りもない。舞踏が何であるか、あるいは何でないかといった狭い概念で論じるのでなく日本の現代の舞踊の実例として見られるべきものである。」

デボラ・ジュイット、ヴィレッジ・ヴォイス
「舞踏は十九世紀の芸術家たちを魅了した、異国趣味の倒錯した危険なビジョンの再定義として、戦後荒廃した日本のアートシーンから生まれたイコンなのであろうか?舞踏家たちは、現代アメリカのダンスからは失われ、秘かに切望されているあるものに触れている。スーザン・ソンタグは、舞踏の鮮烈さは、『否認』する性質にあるとした。私はそれを『別のところ』のものであり、『普遍的』であるという事実からきている、と理解するようになった。
我々は舞踏を理解しているのか、あるいはそれをただ理解していると自分に納得させているのか分からなくなるときがある。舞踏について書かれた著作物は私にとって意味あるものであるが、『蓮遥は、・・・皮膚宇宙の可能性を実体化している』というような語句は、私を予期しない経験の切羽に突き出す。
友惠しづねの最新のより洗練された『蓮遥』は私を釘づけにし、魅惑した。普遍性を訴えるため、白塗りは廃された。明乃の魅力的な踊りがその作品の中核になっていることに異議はない。二人の男性は背景で時々具象化し、寺院の門を守っている彫像のように彼女を後援する。友惠しづねは、白い衣装を纏い、無表情に時折通り過ぎる歩哨である。他の女性たちは夢中歩行の合奏をしているように、また地面に呑み込まれ穏やかに吐き出されるように滑らかに沈んだり浮かび上がったりする。
その前で明乃は変容し続ける。彼女は美しく、ぞくっとさせ、ものすごい。彼女の舞踏はひたむきのようであっても、極度に複雑であり名状しがたい。細かな砂粒が神経から流れ落ちるかのように、皮膚内で不安げである。明乃の踊りには秘境的なドラマがあり、作品は夢のような輝きを持っていた。」

ジャニス・バーマン、ニューヨーク・ニュースデイ
「友惠しづねと白桃房は、これまで我々がアメリカで見慣れてきた舞踏として知られる日本の舞踊のカンパニーに比べると地味な作品を上演している。逆さにぶら下がったり、赤いリボンを吐き出したり、身体を真っ白に塗ったりしない。しかし、『静』と『動』が等しくダイナミックであるこの作品の内なる魂の旅は、ここアメリカにおいても雄弁な表現力を発揮した。
作品の主役は、オレンジ色の着物を着た明乃。彼女は明らかに舞踏の魂であり、不老で、際限なくしなやかであり作品の核心にある普遍性を具現化している。 舞台の縄のような自然主義的な背景幕は、『人間』と『石』という作品のテーマによく合っている。ここでいう『石』とは八人の踊り手たちであり、地蔵である。友惠しづねは言う。『地蔵の皮膚をめくると、溶岩が流れ出す』
踊り手たちの身体は流れと変化を示唆し、同時に長旅の末に彼らの身体に住処を見つけ本来の姿を現した『精霊の存在』も感じとることができる。他の舞踏グループと比べて落ちついた舞踏の一面を見せてくれた。
動きの様式は友惠しづね自身の長きにわたる喘息との戦いに由来する。踊り手の身体は震えているのだが、忍耐の鎧で隠している。たぶん我々自身がそうするように。
踊り手たちの表情はしかめ面から微笑みへと見る見るうちに変容する。この微笑みは、他の舞踏グループに比べて、より近づきやすく、歓待の込められたもののように見える。感動的にして魅惑的な舞踏である。」


1994年アデレード・フェスティバル(オーストラリア)

アニタ・ドナルドソン、アドバタイザー
「舞踏は日本の伝統的な踊りと現代西洋ダンス様式両方に対抗して第二次大戦後に日本で生まれた。この芸術はそのような抗議を具体化している一方、また日本の本質的な美をその簡潔さと精神性で保持している。友惠しづねと白桃房の友惠しづねの作品は、そのような美を典型的に表している。
この作品は、最初の真っ暗闇のシーンから観客を、穏やかにしかし極めて説得的に現実の場所と時間を越えて暗影の世界に引き込んでいく。幽霊像はある意味で肉体により内面の精神を表現しているように思われる。『蓮遥』は我ら皆が何らかの方法で持っている未知なるものへの旅のひそかな誘いである。」

アラン・ブリッセンデン、オーストラリアン
「マーク・モリスの早い部族的なビートと、友惠しづねの思慮深く練り上げられたゆっくりしたテンポとは、まったく世界がかけ隔たっている。両作品を続けて観ると、その間の対照により、きわめてはっきりと豊かな価値を見いだせる。これはフェスティバルの大きな利点の一つである。
『蓮遥』は子供たちの守護神である地蔵の皮膚下をまさぐるもので、生から死までの体験が、しばしば降る雨やちょろちょろ流れる小川の音を伴う1ダースほどのシーンで次第に明らかにされていく。ここに一つながりの節を置きたくなるのだが、構成は決して直線状にはなっていない。闇から現れるエピソードは我々をある瀬戸際まで連れていき、再び退かせ、元気づけたり困惑させ、より静かに我らの内面が変貌させられたかの状態に残していく。踊り手たちのゆっくりした統御された動きは、彼らの旅に参加できる余裕をもたせてくれる。
フェスティバル恒例の生徒のためのマチネ公演において、一時間半の間彼らを静かに魅了し続けたことに、踊り手たちの劇的表現力が見てとれる。我々を興奮させ、不安にさせ、そしてより静かに自分に向かいあわせる。」

ジリー・サイクス、シドニー・モーニング・ヘラルド
「友惠しづねの率いるグループの公演の踊り手たちは、地蔵が自然から感知するものを『人間を超越した存在』を表現している。そして、踊り手たちは確かに、心と魂、もちろん肉体も含め、驚くべき変容を表出する。
いくつかの来豪している舞踏団は舞台効果がスペクタクルであったのに対し、友惠しづねと白桃房は簡潔な舞台装置と洗練された照明により、踊り手自身を媒体として彼らの芸術の本質を見せた。これは私がオーストラリアで観た最も思考を刺激し、没頭させられる公演であった。」

ジェイムス・ムリガン、サンデイ・メイル
「ゆったりした動き、耳を傾けさせる音楽、素晴らしい照明、髪が逆立つようなクライマックスにより『蓮遥』はその豊かな象徴性や力強いイメージをもって滲みだしてくるようである。」


1996年 第五十回エディンバラ国際フェスティバル招聘公演(スコットランド・エディンバラ)

ドン・モリス、スコッツマン
「第五十回フェスティバルは間違いなくフェスティバル・ディレクターであるマクマスター氏の保有する驚くほど素晴らしい日本の友惠しづねの舞踏が初参加したことで記憶されるであろうし、またその価値がある。
髪をばらばらにした予言者風の友惠しづねが流れるように舞台に登場する。指先から足全体にいたるすべての筋肉がコントロールされているように見え、目の瞬きさえも、驚くべき集中と強さを表現する。舞台後方には二人のダンサーが歩哨のように立ち、残り四人のダンサーは最高の尊厳をそなえ、夢幻の光の中で静謐の女神のように立ち、正にこの作品のこの世のものとも思えぬ平和と美を表現する。」

マーク・フィシャー、ヘラルド
「このパフォーマンスは簡単ではあるが、粛々として実行された。心の不安を表現し、まっすぐに伸びた腕は見る人の慰めを求めているようだ。情感は、ほとばしる水や激しく叩くドラムのサウンドトラックで否応なしに高められる。かと思うと、次の瞬間には、静謐な禅の世界を思わすシーンがあり、すべてが平穏で静かで、大きく開いた腕はなごやかな動きとなり、人を受け入れる仕草に変わる。
主役ダンサーの明乃は、オレンジ色の着物をまとい、見る人を魅了するパフォーマーである。筋肉の一本一本までに彼女の意志が伝わっている。蓮の位置でそんきょの姿勢をとったとき、彼女が望むなら、そのまま一陣の微風とともにふわりと浮いて、空の彼方に消えてしまいそうな風情であった。」



「皮膚宇宙のマグダラ‐一本の木の物語」に続く「蓮遥」で友惠は、自らの生死観を貫いて、思想的にも舞踏の世界観においても、土方の創作を凌ぐ次元にまで到達した。土方が契機を作った舞踏を、友惠は人間存在の普遍性にまで高めた。まさに怪物の偉業である。
 これら友惠の創作がもたらした奇跡によって、土方が成しえなかった舞踏メソッドの確立を、友惠がその真髄を継承し、汎用性のある身体表現として確立することに成功した。
 今日友惠しづねの舞踏メソッドは、舞踏のジャンルを超えて、日本発唯一の現代舞台アートの総合的なメソッドとして成立している。


― 続く ―

 

2017/10/12 UPDATE 読みもの・映像・音声
一本の木の物語 執筆:天乃宇受美
友惠舞踏メソッドによる 「ポスト・フリー・コラボ」 執筆:友惠しづね
舞踏の表現構造 執筆:友惠しづね
歩行テキスト批評 執筆:友惠しづね
舞踏、その体と心 友惠舞踏メソッド 執筆:友惠しづね
ブルース・ハープ 執筆:加賀谷さなえ
大船渡市・陸前高田市 災害支援ボランティア (入澤サタ緋呼)
団鬼六永眠 (加賀谷早苗)
舞踏の精髄 執筆:芦川羊子
からだ表現と即興 執筆:友惠しづね
詩の朗読と舞踏のコラボ 執筆:友惠しづね
「友惠舞踏メソッド」、その演出法 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド3 執筆:友惠しづね
みんなで楽しめるコラボ・システム 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 2 執筆:友惠しづね
風のまなざし 詩:友惠しづね
大野一雄氏100歳をお祝いして 大野慶人氏インタビュー
 
聞き手:土方巽舞踏鑑 代表 カガヤサナエ
「南管オペラ」のアーティスト達 文:友惠しづね
台湾での舞踏講習会 -「江之翠劇場」の皆さんと- 文:友惠しづね
南管オペラ 文:友惠しづね

X JAPAN hide(2005年9月25日hide MUSEUM閉館に寄せて)  文:友惠しづね

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