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出会い
1
「どうして舞踏がおもしろかったの」と聞かれて、「浄化されるから」と答えていた。
フラストレーションを解消したいための浄化なら、舞踏でなくてもよかったかというと、そうではない。一九六五年、武蔵野美術短大の学生だった私の家は、新宿二丁目と通り一本を隔てた隣町にあった。
一九五七年に売春防止法が施行される以前の二丁目、通称赤線地帯を親子四人で歩いたことがある。なにもそこを通らなければ家に帰れないわけではない。
「とても、ひとりでは怖くて歩けない」と、洩らしていた父が皆を誘ったのだろう。子連れで歩いていても「そこの、お父さん。遊んでいかない」と、からかわれていた。私達は家族という連帯意識の呪縛にかかって、欲望に彩られた原色の街を、からだを硬くして歩いた。
赤線廃止後の二丁目の荒廃はかなりひどいものだった。男と女の因縁に染まった街は、もぬけの殻になった建物とともに、その肢体を白日の下に晒し、深い眠りに落ちた。
放って置かれた街に、一軒、また一軒と息を吹き返すように、灯が燈りはじめたのが、写真スタジオという新種の風俗。〔写真スタジオ〕と看板を掛けた狭い入口から、真っ赤なゼラに染まった明かりが、暗い路地のところどころにこぼれ、ネグリジェなどの衣装をまとったモデル役の女性に、カメラを持参した男性客がおずおずとシャッターを押す姿が外からでも目に入った。
当時は空前の写真ブーム。写真雑誌にアマチュアカメラマンが作品を投稿し、写真学校が若者の人気を集めていた。写真スタジオはそんな社会現象から生まれた。性風俗の嫌疑をのがれるため、表向きはあくまでもアート行為なのである。そんな写真スタジオも、いつの間にか飽きられて姿を消した。
また、私の家の近くには、三島由紀夫はじめ当時のジャズミュージシャンや、文化人が多く出入りしたジャズの店もあったと聞くが、私が美大の帰りに新宿の街をうろつくころには跡形もなかった。代わって独立プロの大島渚、ピンク映画の若松孝二など映画関係者や雑誌編集者が利用するバーが点在して、人が集まるようになった。
少しずつ息を吹きかえした二丁目だが、依然として開発事業とは無縁だった。そのうち、ストリップの新宿モダンアート劇場も二丁目入口にオープン。後に私もアスベスト館から派遣されて、この新宿モダンアートに出演するとは、夢にも思わなかった。モダンアートという名前から、オーナーのコンセプトをうかがえるが、中身はどこにでもあるストリップ劇場。それでも、アートにこだわる気風が六十年代の新宿の街にはあった。
私が美大に通うまでのあいだ、二丁目は繁華街からけっして遠くない私の家までの道程に谷間のように横たわり、風紀上の強力なバリアになっていたのである。
現在の新宿二丁目は同性愛者のメッカとなって久しい。世界中のツアーガイドが紹介している性の解放地にバーやカフェが立ち並び、今日の性差を越えた文化の原動力ともなった。
一九八七年友惠しづねが舞踏カンパニー〔友惠しづねと白桃房〕を主宰してまもなく、私はゲイクラブとしては老舗の〔白い部屋〕へ、何度か連れて行かれたことがある。断っておくが友惠はこの二丁目の性風俗に関わりなく、ゲイ達のひたむきな生き方を愛し、また彼らのショーも演出家の目で吸収していた。ゲイ達も友惠の飾らない性分を好んで、舞踏公演にも足を運んだ。
友惠が出演したライブハウスのピットイン。友惠の作品を上演したタイニイアリスも現在この二丁目に移転。土方が舞踏公演を行った新宿アート・シアターや歌舞伎町のアート・ビレッジと、新宿は何かと舞踏と所縁のある街なのである。
*
六十年代、若者たちの解放区として湧いた新宿。新宿文化の発信源といわれた中央通りの風月堂には、画家や演劇人やダンサーや、またその予備軍や外国人ツーリストがたむろし、当時のヒッピー文化を象徴する時代特有の雰囲気があった。臆病な私も学校帰りには立ち寄り、そこに集まる人々を眺めていた。
状況劇場の役者から、チケットと交換に横尾忠則のポスターを手に入れたのも、この風月堂である。公演当日、野外劇場の最前列にはシンパが陣取り、役者の見得が大いに受けていた。そのなかに土方巽や澁澤龍彦等がいただろうとは、その時はもちろん知る由もない。ポスターをもらった見返りに不正入場者の見張り役を頼まれた私は、月が見下ろす野外劇場の最後列から遠く離れて、照明に照らし出される役者と、興に乗る観客達を眺めていた。
芝居を観て、観客を前にして立つことはおもしろそうだと思った。それでも演劇に惹かれることはなかった。なによりもことばを発することが怖いのだ。喋ると内なる意識が四散して、醜いエゴイズムが露呈する。そんな強迫観念を持っていた。
街の書店では本のタイトルに惹かれて思想書を手にする。本を開くと文字が蟲のように湧いて出て、皮膚にびっしりとこびりつく。しかし皮膚を通して精神に届くことがないと頑なになっていた。そして本を閉じて、背文字を睨みつける。
精神の浄化をことばに求めることができないことの苛立ち。
しかし、新宿のフォークゲリラや学園紛争には参加しなかった。ヒッピーや睡眠薬にも近づかなかった。当時流行ったフリーセックスを主義に掲げたこともない、またその信奉者でもないが、舞踏と正面から取り組むまでのあいだ、性は自我を開放するひとつの手だてだと考えていた。
後日、土方巽のはじめての弟子だということで、美術雑誌のインタビューが土方と親しかった詩人の飯島耕一のインタビューで行なわれた。
舞踏にかかわる動機を聞かれて、唐突に「セックスです」と、答えて飯島耕一に苦笑いさせたのを覚えている。
ダンスなら無口で通せるからいいと思っていた。それでもバレーやモダンダンスを習いに行く気はなかった。ワン、ツー、スリーとカウントされるのが苦手、運動神経が鈍いのだ。
それで、アルコールを出す店の隅で勝手に踊っていた。酔って騒ぐわけでもないから、店側も制止せず好きなように踊らせていた。学校帰りに、これらの店に出入りするのが日課になり、そのうちに、美大に行っても、教室を出て、踊りだす始末だった。
*
金粉ショーの仕事をやってみないかと、誘われたのもこの時期である。
「ヒジカタさんのところの人」
と、紹介された初対面の男の口から、キャバレー、金粉ショー、男女のアダージョと、私が請け負うべき仕事の内容を説明された。しかし男が何を言っているのか、見当もつかなかった。質問さえ口をついて出ない。
第一説明している、
(この男は一体何ものなのか…)
ところが、
「明日の午後四時に上野発の列車に乗りますから」
というくだりになって、
(これは、ただ事ではないな…)
ことが急に現実味を帯びた。同時に、
(うーんこれは、客から金を取って踊るんだから、これまでとは勝手が違うぞ)
と思うと、好奇心が沸いた。
結果的には、話しの全貌が掴めないがために、断る理由も見つからず、引き受けたようなもの。
ショーは三曲の構成になっている。一曲目は、男のソロ。私はステージ奥でインドのシバ神のようなポーズをとっていればよかった。ポーズをとる私の手には、ろうそくの煤で黒くなったブランデーグラスが握られている。グラスのなかでは、ろうそくの炎がゆれている。
五百羅漢のように立ち並んだ後ろのバンドが、それぞれの楽器から景気のいい音を発している。ステージのフットライトの先には、闇のなかの集団の幾十の眼が、それが人の眼とは識別しにくい威圧感を放っている。深い闇のなか、ミラーボールが奈落を見渡して笑うがごとく、ゆったりと回る。
(ああ、あれがミラーボールだ…)
と、見とれているうちに二曲目になった。
二曲目は、私のソロになる。私にはダンスの素養がない(実は子供の頃のバレーブームに一年ほどバレーを習ったことはあるのだが…)。三十分ほどの振付など、ぶっ飛んだ。闇の中の観客の存在も瞬時にかききえて、放れ馬のよう踊った。
曲は三曲目に入った。突然ここがキャバレーであることを思い出し、慌ててデュオの体裁を取り戻す。エンディングは、ハワイアンのショーなどでよく見かける、ファイヤー・ショー。棒の両端に巻きつけた布にベンジンをたっぷり滲みこませ、火をつけた棒を男が振り回す。観客の拍手がショーを締めくくる。
金粉ショーは、二日間のスケジュール。翌日、昼の空き時間に出かけた川原で、男が何度も語る「ヒジカタさん」という名前を聞いた。
*
玄関に一歩踏み込んだ途端、暗い館内の冷気が肌を突いた。薄墨色の空間が、まるで生き物のように、訪ねる者を凝視する。そして、稽古場の壁に掛けられた帽子の木型が、脳の模型のようで、からだにまつわる錬金術めいた館内の雰囲気を象徴していた。
通された小部屋の机の上には小ぶりな障子が立てかけられていて、障子の桟には、公演の打ち合わせのために描かれた画家たちのスケッチが何枚もピンで止められていた。そのなかに、当時は珍しかったインド土産の片方だけのイヤリングが、人のからだを恋しがって、なまめいていた。
暗がりから届く土方の慧眼は、訪ねた私の深層を覗きこみ、土方に見詰められると、もやもやした自我など吹き飛んだ。それは痛快だった。
それから二十年、私は土方と舞踏の活動をともにするのだ。
2
舞踏とは身体空間に於ける叙情なる生死の蜜月。愛惜と吐息の内に高速の輪廻を旅している。
友惠しづね「風のまなざし」抜粋
友惠しづねは土方巽の訃報を知り、風と舞った。景色は息を潜めその舞いを見守る。死者をいとおしむ思いがからだの隅々に満ちて、時もゆるやかに流れた。土方の姿を脳裏に映し出すだけで、友惠のからだが風と交わり、肢体の微かなうごきに、空気も波動する。
友惠の生家は目黒の準工業地帯で鋳物工場を経営していた。家の前を流れる目黒川は、長年に及んで日本の汚い河ワーストワンに挙がった。ヘドロで川底の上がった目黒川は増水でよく氾濫した。
友惠の夢の中に、氾濫した目黒川の黒い水のなかを渡ってくる、着流し姿の土方巽が出てきた。
泥水に浸かった橋から橋を土方巽の幻を追って応酬し合う、友惠の土方追悼文を読んで、この破天荒さはきっと天使の翼を隠している人の仕業かもしれないと驚いた。同じ目黒にある稽古場で二十年の歳月を過ごした私も、この川の橋を土方とよく歩いた。
ある日、友惠しづねは私の顔を覗き込んで、
「今、死ねば、あなたは土方の作った人形として永遠に残れるよ」と、囁く。
死んだ土方が仕掛けたのかもしれない…。私は抵抗しがたい速度で友惠しづねに近づいた。
友惠のアルバム「弧山」をテープにとって、来る日も、来る日も聞き続けた。一音、一音に戦慄を覚えて、とても素手では触れない。炎のような躍動感が伝わった。私は案内も請わずに、友惠の創作世界の扉を開けてしまっていた。
友惠しづねと出会って、私の日常は歓喜と畏怖が交互に切迫してくる時間軸に変わった。生の至福に喜び、舞い上がるかとおもえば、漆黒の闇から放たれる、死の閃光に身をこわばらせた。
そこに神の手を感じた。神は完全な人間を創り上げて、最後に深い傷を負わせる。手負いの烙印は天才という宿命。他の人間とけっして同化しないためにつけられた。
土方の提唱した舞踏。そして友惠が継承した舞踏。それは友惠しづねが使命として授かった人類へのメッセージなのである。それが私の感受できる唯一の真実だった。
*
風と会話できる人は不仕合せにならなくてすむ。吐く息、吸う息、分子の輪廻
友惠しづね「かたちについて」抜粋
友惠しづねの言葉には日常の吐息のなかにも生死を見つめることが運命づけられた、創作以外に生きる糧を見失った天才の息吹が漲っている。その息遣いには幼児特有の無邪気さを失わないまま、人間界に修羅と刻印されて追われた天才の香気を漂わせていた。創作の現場では瞬時に極楽と地獄を跨いでみせて同伴者を戦慄させる。
虚弱で華奢な友惠しづねの容姿からは想像しがたい。友惠が芸術に向き合う姿は、まさに求道者の風貌を思わせるものがある。
「尊敬するミュージシャンは、セロ引きのゴーシュ」と、友惠が語る一方で、
「私が、酒を飲まなければ、宮沢賢治になれたかもしれない・・・」と、土方が冗談めかして語る。
六十年代に暗黒舞踊という前衛をアピールして観客をつかんだ土方は、芸術界の時流にあわせることのできた天才である。幾世代をも呑みこんで流れる大河、その河のなかに出現した天才。
その一方で時勢の河に合流しない孤高の天才がいる。
しかし時勢に拘束されることがないから、自由闊達に独自の世界に没頭できる。作品はわかりやすく、万人に受け入れられ、永く愛される。
友惠しづねの「蓮遙」は、一九九〇年初演の松本現代演劇フェスティバル上演以後、国内はもとよりエジンバラ国際演劇フェスティバルの招聘公演他、各国の演劇フェスティバルで上演。劇場公演以外にも、小学校の課外授業やろう学校の訪問公演、養老院へ訪問公演と、幅広い観客に受け入れられ愛されている。
舞踏のムーブメントを興し、種を蒔いた土方巽。二十年後にその種を育て、枝葉を茂らせ、見事な舞踏の樹を現出させたのが友惠しづねである。まさに神業、友惠しづねの奇跡の存在があってはじめて、土方舞踏は遺ることができた。
友惠しづねの作品はどれも味わいの妙に尽きる。舞踏に託す友惠の想いは、誰か、自分の代わりに生きてほしいという願い。避けがたい死の原風景が、透徹した友惠舞踏の世界観を作り上げている。
*
音楽、舞踏そのどちらにも、友惠の創作に一貫した叙情性は、その透徹した創作精神にきざしている。創作のためには、生きるか死ぬかの極限まで突き詰めなければ納得しない。友惠が芸術のために、犠牲にした対価は大きい。音楽に行き詰まって、十代から二十代に二回、自殺未遂の苦杯を舐めたことがある。
二十代の半ば、作曲のために一年に四千時間のギターの練習を課して、ひとり、アパートにこもった。閉め切った部屋の蒲団を敷き詰めた押入れのなかで練習をした。
友惠の使用するギターは、現在ではナイロン弦を使用するクラシック・ギターと違い、もともとは肉体労働者が使用していたフォークギターのスティール製の弦。「軽い弦だと弾いた気がしない」と言う友惠は、その中でも一番太いものを張っている。
毎日一瞬一瞬が拷問だった。一日十四時間、時計の秒針を睨みつけて、涙を流しながら練習する。指と爪の間に何本もの針を刺している痛みが続き、弦を抑える指の爪は半分の長さになり、指先はまるで芽キャベツの断面のよう。弦を弾く指先はみみずばれの下にまたみみずばれ。絆創膏を張ると弦や指盤がべとつく。セロテープで傷口を固定すると、汗と血ですぐ取れる。
銭湯に入ると傷ついた指先は湯気にあたっても痛んだ。両手にビニール袋をかぶせ、手を上げたまま湯船に入る。髪の毛は治りかけた一本の指で洗う。
夜は痛みで眠れない。朝起きると関節炎で両手が開かない。元々弱い体力は更に落ちて、喘息の発作止めの薬も効かなくなってくる。メトロノームのゼンマイはバカになる。
恐らく、弦楽器を弾く人間で、世界で一番練習をした。少なくとも苦しみだけは、誰にも負けていない。ひとりで、誰もこんな苦しみには耐えられないだろう。友惠だからできた。
「仲間がいたら、もっと楽に苦しめた」と、友惠は述懐する。
指に針を刺されるような、激痛の持続は、まさに地獄の稽古。友惠が耐えなければならないのは、一秒の拷問を十四時間、続けること。そこから逃げ出さないこと。ギターを弾くための、指とからだは勝手に鍛えられた。地獄の一秒は、また命の証しでもあった。一秒に命の歓喜がほとばしった。凝縮した歓喜が、超高速の友惠の生命力を持続した。
友惠のからだにはこのときの地獄の一秒が擦りこまれている。創作をするとき、友惠の時計は地獄の秒針に変るのである。
「一生を七回やり直しても、私のところまで来れない」
精神的にも、身体的にもぼろぼろになるまで叩きのめさなければ動き出さない友惠しづねの習性。この習性はオートマティックといってもよいほど、友惠のからだに深く刻み込まれた。
友惠のこの壮絶な練習は約一年続いて、自殺未遂という結果を招く。
*
「こんな生活を一年続けたら、突然ギターが弾けなくなった。それどころか、怖くてギターに触ることも出来なくなった。人が何かの意志を持って出す音は全て恣意的なんだ。完全な音など存在するはずがない。廊下を歩く人の足音も、外の雨音も、勝手に聞こえてくる音の絶対性には対応する術もない。存在に対して人は皆、無抵抗で裸のまま震える他になす術がないことを恐れる。だからといって、俺は人生を諦めきれなかった。それで、自殺しようとしたのさ。失敗したけどね。あの時の外れた死と、これから誰もが当たる死は、同じなのかもしれないし、絶対に違うのかもしれない。あるいは少しだけ違うのかもしれない。生来、私には生きることの楽しさより、苦しさの方が勝ってリアリティーがある。生きる苦しさにリアリティーを持たせるには想像力が必要だ。だから創作をする。逆に生きる楽しさにリアリティーをもてる人がいても、俺は別に羨ましいとは思わない」
強度な強迫観念が、二回目の自殺を誘引した。深夜、多摩川の河原に行って睡眠薬を飲んだ。激しい嘔吐で目覚めたとき空は明るくなっていた。
「あれ、死んでない」
出勤する人々の流れと逆行してアパートの部屋にたどり着くと、それから三日三晩黒い胃液を吐きつづけた。そのとき飲んだ薬の後遺症が今でも難聴になって残っている。薬物によって聴覚が異常に研ぎ澄まされた三日三晩、黒い胃液を吐きながら異常な聴覚が続いた。足が動いてシーツに触れた音が、七色の虹の粒子になって螺旋を描く幻想を伴いながら鳴り響いた。
友惠の創作行為は、死への挑戦だった。自殺未遂にまで追い込まれた後、作曲作品「弁証法的リンゴ」「タイタン」「水の変態」などが創られる。
友惠しづねを「日本で一、二を争う」と賞賛して、アルバム「弧山」をプロデュースした音楽評論家は、友惠の音楽とその人間を、
「メロディアスなものの追求から一転して破壊に至るまでの全方位的なレンジの広がりを有し、自己の一部分だけを切り売りするという事から脱却し、感情、そして生活、さらには思想的背景までを音楽のなかに盛り込もうとする一人一派たらんとする見事な態度」(ジャズ批評)と、激賞する。
アルバム「弧山」の共演者は、フリー・ミュージック界の先駆者、吉沢元治と高木元輝。ふたりとは親子ほどにも歳の離れた友惠は、初対面の即興演奏も、死に挑む友惠の覚醒した距離感をもって行なわれた。
友惠しづねのファーストアルバム「弧山」を多くの音楽雑誌が絶賛する。
「おおらかなカタルシスから狂暴な姿までを晒け出した『弧山』」(ジャズ批評)
「音楽全般に対する構成力に優れた才能を発揮する人だと感じた。・・・クラシック・ギター的アルペジオや、邦楽にも通じる音階が多用され、彼を独特のギタリストとして位置付けている。それにしてもスピード感溢れる彼のギターは鮮烈だ」(スイング・ジャーナル)
「その演奏には音楽に対する切実で根源的な問いかけが内包されている。ギターという楽器としての限界性と、音の領域を拡大しようとする衝動が破綻を臭わせつつ拮抗して、静溢なカオスを生み出してる。ギター・テクニックには目を見張るものがある」(ラ・ティーナ)
この評の音楽を踊りに言い換えるとすれば、舞踏批評における最高の賛辞となる。
*
友惠しづねはファーストアルバム「弧山」を制作した1984年に、土方巽の舞踏ワークショップを受け、ギターの演奏ライブと並行して、ミュージシャンや舞踏家と自ら身体表現を実践してきた。
〔友惠しづねと白桃房〕の踊り手とコラボレーションを行なった武道家が、友惠しづねの舞踏を「名人」と賞賛する、その身体感覚は私が土方と培ってきたものとは、全く次元が違っていた。空間にからだを拡張するための技術はだれにも真似できないほど精度が高い。友恵しづねが踊ると、空間がからだそのものになって息づくのである。
友惠しづねは等身大のからだとは別に、イメージしたもうひとつのからだをいとも簡単に現出させてみせる。等身大のからだから湧出したイメージのからだが、空間の広さ、奥行き、高さの全方位に自在に拡張していく。イメージのからだを粒子にすることも可能な、友惠しづねの身体能力は、まさに神業としか言いようがない。
友惠しづねの奇跡の存在が、土方舞踏の真髄を継承したことによって、この文章のタイトルを「舞踏の精髄 友惠しづねと土方巽」とした。舞踏の根源の精神性と、それに伴う技術面もおいおい明らかにしていきたい。
舞踏の精髄 友惠しづねと土方巽
草月ホールへ
1
一九六六年、土方と出会った私は学校にも新宿の街にも連帯意識を強めるものがなかったので、土方の行くところはどこにでもついて歩くようになった。
ある日、ショーの出演料だからといって渡されたお金を「いらないです」と断り、受け取らなかった。これまで一度も出会ったことのない人間として、土方に強く惹きつけられていた私は、使う目的のない金を持っていても、意味がないと思ったからである。
私の印象をどう捉えたのか、土方は人に「父親に犯されて、うちに来た」と、私を紹介していた。もちろん、慌てて打ち消していたが、そのうち勝手な空想を楽しんでいる土方が面白かったので、放っておいた。
虫歯で前歯が数本欠けていたり無かったりしたせいで、人は蛇のようだと私の風貌を気味悪がり、私も人前ではあまり笑わなかった。土方が新宿ゴールデン街のバーに私を連れて行くと、ママのひとりは「とてつもなく暗い娘だね」と、いって笑ったものだ。
大橋巨泉や藤本義一が司会の深夜番組イレブンPMで「未来の美女」という企画があった。容姿は二の次、時代を反映した職業として、マスコミの関心を集めたスタイリストやイラストレイター、アングラ女優の卵を集めた美人コンテスト。土方の交友関係から、私もスタジオに引っ張り出されていた。
番組レギュラーと一問一答があり、審査の結果、私が「未来の美女」に決まった。審査委員長の総評は「何を考えているのか、わけが分からないから」と、いう理由だと告げた。
*
土方のところで行われていた大野一雄の稽古に出る。参加者は土方の公演に出演していたメンバーの他に、演劇人、パントマイマー、学生など。
技術的な決め事はない。各人各様、からだを動かしていく。大野一雄がうごきのイメージを喚起させるために、持参した本を読む。そのことばに誘導された参加者のうごきが、稽古を先導する場合もある。稽古をつける側も、受ける側も手探り状態で行われたのである。
稽古後の合評は、酒を飲みながら明け方まで続き、稽古中に読まれた美術雑誌などの資料も回覧する。うごきを視覚とことばからイメージするためにも美術書は重宝だった。後に土方と私の稽古でよく行われた、絵からうごきを抽出する方法は、この大野一雄の影響もある。
手探りで進めている稽古なので、会話はどうしても抽象的になる。土方とふたりになると、理解できないことは何でも訊いてみた。土方も確かな理論を根拠に話しているわけではないから、返ってくる答えをすべて、飲み込めたわけではない。逆にますます謎が深まるばかりだ。土方が返答に困って、苦笑することもあった。
*
土方と私は食料はじめ日常の買い物に、稽古場から近い目黒の油面商店街を利用していた。商店街のなかほどには、地蔵堂もあった。週刊誌全盛の時代である。週刊誌舞踏と称した土方はカメラマンを同行して、地蔵の前や商店街の古道具屋で撮影を行うこともよくあり、土方は変わった踊りの先生ということで通っている。
夏のある日盛り、右肩上がりの猫背に、ランニングシャツ一枚と短パンというスタイルの土方と、商店街にある氷屋に立ち寄る。飲み屋と兼業の氷屋へは、稽古の後の飲み会が長引き、深夜に酒が切れると買いに行っていたので私達も顔なじみだ。濡れたコンクリートのたたきの上に椅子とテーブルを並べた、にわか作りのかき氷屋。よしずにさえぎられて、アスファルトの道に反射する日差しは、店の中までは届かない。
土方は真夏の日差しのなかを行き来する人びとを目で追いながら、
「彼らはみな死というかたちを運んで歩いているんだよ」
と話しはじめる。客のいない氷屋で、土方はそれから一時間以上も話し続けた。
この光景は後の「東北歌舞伎‐四季のための二十七晩」のポスターにもなった演目「すさめ玉」の主要なモチーフになっている。舞台下手に組んだ台を寝間に見立てた舞台美術、暗い室内の寝床から目を細めて格子戸越に明るい外の光を見つめる、髷姿の芸者およねになって再現される。
油面の氷屋で、土方はイメージをたぐりよせながら、からだについて思考している。多弁になるほど、話しは抽象性をおび、難解になった。このときも、土方と同じ光景を見ながら、土方が手探りで求めている世界を想像してみるのだか、ことばだけがめぐり歩いて、なかなか実感がわかない。
*
ところが、人を煙に巻く土方独特のことばが聞き手の謎を一層深めて、舞踏を解った気にさせる。謎は深いほど神秘めく。もともと、からだほど定義づけがむずかしいものはない。
土方の意想外なことばの飛躍と連結。そのマジックにかかって、舞踏やからだのことを解った気になる人も多いのである。
[舞踏とは命がけで突っ立っている死体]
舞踏を語るとき、必ず引用される土方のことばである。
では、このことばを映像に置き換えるとどうなるのか。確かに、この土方のことばからは、棍棒のように硬直したからだと、周囲の緊張した空間が伝わってくる。
〔命〕という生と、〔死体〕という死を、〔突っ立つ〕という動詞が繋いでいる。〔立つ〕でも〔立って〕でもない。〔突っ立つ〕という強調が〔舞踏〕というからだを、息もできないほどに直立させている。
しかしここに示されたからだの状態が、ことばでトリミングされた一枚の写真のようだと、気がつく人は少ない。
からだはコンセプトのための素材として扱われ、フレーズはとても映像的だ。静止画像のなかに閉じ込められたからだも、また静止していて、次の展開が望めない。これは、ひとつのからだの状態と、一情景以外に何も語っていないことを包み隠す、巧妙なトリックなのである。
ことばは読み手のイマジネーションを拡げる。しかし、からだを語ることばが、逆にからだを遠ざけてしまうこともある。そのために、からだの実態に踏み込めない。
土方が活動初期に提起したこのフレーズも、その後の稽古や舞台で模索と試行を重ねるうちに、コンセプトと実践内容が一致しなくなる。そうした理由で、土方本人はこのコピーを、舞踏の定義とはしていない。
創作現場にいた土方は、舞踏の定義には慎重だった。
しかし、舞踏の現場に足を入れたことのない周囲の人間は、現場性つまり、からだと人間の問題を明らかにしようとする技術の裏づけを度外視して、土方の語句なら、なんでも舞踏の定義として位置付けたがる。
舞踏の目的は、からだの無限大の可能性に向き合うことであって、舞踏概念の定義づけが問題なのではない。人間にとって最も身近で、だからこそ疎遠な関係にもなるからだのことなのである。
*
この当時、土方の公演に参加していたメンバーや、大野一雄の稽古に出ている人のソロ公演が半年に一回ほどのペースで行われていた。大野一雄の稽古に出ていた私も出演して、稽古から本番までを経験する。私がショーダンスで体験したように、土方は促成で素人をステージに上げてしまう。これは、当時の土方の舞台でもよく行われた。ダンスの素養がある無しに関わらず、土方の創意で、画家でも老婆でも、体育大の学生でも舞台に上げた。
土方は既存のダンス概念に対抗するために、モダンダンス出身の出演者と相対的に素人を多用したのかもしれない。
活動当初は「暗黒舞踊」といっていた名称も「暗黒舞踏」と改められたが、舞踏というジャンルを確立すべきメソッドや振付のシステムは、まだ何もない。出演者もモダンダンサーやパントマイム出身者によって構成された、プロデュース公演である。
主演ダンサーが会場を押さえ、土方巽、大野一雄をはじめ土方の舞台に出ていたメンバーも出演する。他に土方と親交のあった美術家も加わり、上演内容が検討される。公演のための稽古がはじまると、土方が構成を決め演出を行うのが常だった。
土方の演出した公演を、紀伊国屋ホールに観に行った。開演前のロビーは招待者で賑わい、観劇より土方巽支持者の豪華な顔ぶれに会うのが楽しみで出かけてくる人が多いのではないかと、見間違うほどである。開演中も招待客とダンサーの連係プレーが会場全体の雰囲気を支配していた。今日のように、インターネットも情報誌もない。オピニオンリーダーが主導権を発揮していた時代だった。
作品は十分から二十分のシーンが組み立てられているオムニバス形式。各シーン各パートを受け持つダンサーのうごきは、綿密な振付が行われているのでもなく、かといって全くの即興でもない。共演者同士の事前の申し合わせによって、舞台は展開する。
舞踏が何を求めているのか、舞台からどんな指針を得られるか、身じろぎせずに見つめた。シーン毎に制作過程が目に浮かぶ。稽古でやり取りされた会話が想い出される。劇場という日常と異なる空間のなかでも、普段の人間性がそのまま舞台に反映していることがおもしろいと思った。
しかし、このときは土方の演出する稽古の過程に魅力があるということ以外に答は見つからず、作品に感動はなかった。
舞台そのものがコラージュとも、アサンブラージュともいえる手法で仕上がっている。シーンとシーンは一見何の脈絡もなく、観客に解読作業を求めるアバンギャルドな演出がなされている。衣装や小道具や美術と同様に、ダンサーもオブジェとしての要素が多く求められ、舞台上の美術展という印象が強い。それが通常のモダンダンスの公演と一線を画し、画廊でも野外でもなく劇場が選ばれたことで、当時のハプニングやパフォーマンスといった身体表現とも色分けされたように思う。
*
また、公演より宴会の方がずっと盛り上がった。多数の招待者がそれぞれに友人を引き連れて宴会に参加する。その人数は百人を切ったことがない。劇場から駆けつけた出演者も、化粧を落とし給仕役にまわる。
宴会は舞踏を広めるための格好の場になり、土方はその社交性を遺憾なく発揮して、彼らを客人として優遇した。あくの強い秋田県人の人懐っこさを演技できる土方のもてなし術は、年長者にも可愛がられる愛嬌があった。
打ち上げに参加したのは文学者、画家、ジャーナリスト。彼ら招待客のなかでも有名、知名度によってヒエラルキーがあった。舞踊関係者では歌舞伎評論家の郡司正勝、能と邦楽評論の長尾一雄。「ニジンスキーの日記」翻訳を出版した市川雅などが列席していた。それぞれのジャンルで舞踊批評の実績を積んできた人たちである。
この三人も、すでに鬼籍の人となったが、〔友惠しづねと白桃房〕とは講演の依頼や、舞踏姉妹グループ結成などの相談役として深い親交があった。
友惠しづねが舞踏団を結成して二年目、舞踏ではじめての全曲自作の作曲音楽が使われた「糸宇夢」以来、「皮膚宇宙のマグダラ‐一本の樹の物語」「蓮遙」と舞踏作品を連作。長尾一雄が舞踊批評家協会賞の舞踏功労賞と作曲賞を推薦していた。
癌で胃の三分の二を摘出した市川雅と、胃潰瘍で入退院を繰り返す友惠しづねは、新宿の飲み屋街でよく飲んだ。土方が死んで勢力分布に紛糾する舞踏界を尻目に、土方への敬意を創作で示す姿勢を貫く友惠しづね。生前の土方舞踏に関わりのない人間が、土方巽の名前を冠した追悼公演に躍起になるなか、活動の宣伝に一度も土方の名前を利用したことのない友惠しづねが、唯一市川雅のダンディズムを敬して、追悼公演を行っている。
*
土方はこの宴会に参加した三島由紀夫や澁澤龍彦といった著名人との交友関係から、創作のヒントを貪欲に吸収していった。
また、後に舞踏評論家と呼ばれる人間も末座に連なっており、土方は舞踏の宣伝活動として、暗黒舞踏のコンセプトに賛同する人間を、好んでもてなした。
それまで芸術として評価される機会の少なかった舞踊が、土方の興したムーブメントによって、文化批評として取り上げられるようになる。技芸の確立している他の舞踊と違って、技術の裏づけが必要とされていない舞踏が、にわか批評行為の格好の対象になったのである。
土方は宴会の席で、日本人なら誰もが連想しやすい郷里の秋田と、その幼児体験を彷彿とさせる逸話を舞踏のコンセプトとして語る。聞き手は土方の見た昭和初期の「東北」から、「貧困」「悲惨」「死」などのイメージを喚起する。
しかし、土方の語る「東北」「お百姓」「がに股」といった舞踏のコンセプトも、からだを通して舞台及び空間に現出させることは、また別の問題である。観念の東北をいくら追随しても、かたちを模写するだけの演技になってしまうことは避けられない。
例えば、後の「東北歌舞伎」で、雪景色をスライド機で舞台に投影。風の効果音に民謡の江刺追分を使用するシーンから、雪景色の映像や民謡を取り除いたら、素のからだ、つまり等身大のからだしか残らない踊り手が多いのだ。つまり「東北」や「がに股」のコンセプトでは、舞踏を踊るからだはつくれないのである。
舞踏を踊るからだは、踊り手の等身大のからだから、イメージのもうひとつのからだを空間に湧出させることが大事だ。等身大のからだからイメージのからだを空間ににじませ拡張して、同じ空間を共有する観客と、互いに融合しあう。科白をコミュニケーションの手段としない舞踏にとって、これはとても重要なことだ。
このからだの状態を友惠しづねは「舞踏体」と命名している。ここでいう「舞踏体」は、土方が絵や写真から振付のために、弟子にフォルムを模写させた段階のものとは異なる。
土方の元門下生が所有する、ベーコンやベルメールの画集からフォルムを模写した舞踏稽古のごく初歩的なものが、土方巽の舞踏譜として露出している。しかし、所詮土方舞踏に精髄していない一貫性のないものであって、表層を垣間見るだけの不毛な代物に過ぎないのである。この技術上の問題はこれから、おいおい明らかにしていくつもりだ。
*
土方主催の宴会で客人として扱われた人間が後に舞踏評論家を名乗り、舞踏の技術が実証できない段階で、土方のことばや公演パンフレットに寄稿した三島由紀夫や澁澤龍彦たちのことばを引用して、強引に舞踏論を展開する。
しかし彼らが舞踏の創作現場に脚を運び、理論の裏づけとなる現場を熟視するということはないので、からだを介して舞踏を観る眼が養われない。
舞踏の黎明期だからこそ、現場に身をおいて、舞踏批評を樹立する絶好のチャンスを彼らは逸したのである。観念による表層的な舞踏の解釈が、からだを置き去りにして、舞踏の醍醐味を喪失させる。からだと人間の関係を平坦で陳腐なものにしてしまった。
その舞踏評論家のひとりに合田成男がいる。土方巽が方便で使った狭義な舞踏コンセプトの受売りと「踊り手の筋肉がぴくっと動いた」といったたぐいの、舞踏の本質から逸脱した恣意的で瑣末な批評で、舞踏の優劣を論じる合田成男にとって、舞踏は自身の人生を享楽するための代理行為にすぎない。
生前の土方を悲観させたことがある。公演打ち上げの夜も明けた朝方、ひとり残った合田成男に、めずらしく酒気の引いた真顔の土方が、合田成男の享楽的な生き方が舞踏批評の力を欠き、創作の対局にいると、合田成男を厳しく非難するものだった。合田成男を帰した後「彼は何がおもしろくて舞踏に近づいて来るのだろう」と落胆する土方の姿が思い出される。
また、宴会の功罪のひとつに、酒席で舞踏評論家は実践者である舞踏家より上座にいるという、おかしな慣習ができ上がり、のちのち舞踏家と評論家の上下関係までにも影響する、舞踏界特有の悪癖を生んだ。
六十年代当時から土方を求心力にした暗黒舞踏派恒例の宴会に誘われて、なかには舞踏をサロン芸術だと批判する人もいた。
からだの実態や舞踏の実際と遊離した舞踏批評が後々、舞踏全般を疲弊させる元凶となるとは、当の土方も考え及ばなかっただろう。
*
私には宴会の後で土方が語る、人間のはなしの方が、リアリティーがあって面白かった。
土方は本番を直前にしたあるリハーサルのエピソードを、よく話して聞かせた。この日、土方の演出と出演者の歯車がうまく噛み合わない。業を煮やした土方が全員を奮い立たせるつもりで、
「中止、中止、止めた!」
と叫ぶと、舞台から出演者が消えて、誰も戻ってこなかった。堪りかねた土方が楽屋に入ると、全員が帰り支度をはじめている。これには土方も血相を変えたという。
演出は土方の責任とはいえ、本番を目前に帰り支度をする出演者達を見渡して愕然とした土方の表情が目に浮かぶようだ。ふたたび楽屋で説得。公演中止は免れたが、土方はよほどこのことが堪えたとみえて度々話して聞かせた。
土方が活動の最初期に暗黒舞踊と銘打った旗揚げ公演も、出演者全員の足並みがそろっていたわけではない。会場で取材中のジャーナリストに、
「私は暗黒舞踊ではありません」
と、答える出演者に、肝を冷やしたともぼやいた。
こうした土方が私に包み隠さず話す内容に、私もいざと言う時には踏ん張らなければいけないのだと身を引き締めるのだった。
土方との舞踏稽古はこのようにしてはじまっていた。
2
土方の寝起きする稽古場に住み、月の半分以上は地方のキャバレーを回る一年が過ぎた。ショーダンスを続けてきたのも、土方と舞踏に惹かれたからである。しかし、先の見えない旅回りの日々に不安を覚え、軌道修正をしなければいけないと焦りはじめていた頃だった。
四方を田んぼに囲まれたキャバレーに出演していた。
楽屋の窓からは街路灯に照らし出された田んぼが、その先に拡がる闇に吸い込まれていくのが見えるばかり。
先の見えない不安と焦燥がつのり、ある決意に取り付かれた私は、東京に戻ると、その足で草月ホールに行き、手金を打って会場を予約した。
舞台に立つことで、偏狭な自我から開放されて、もう一度生まれ変わりたいと願った。また、土方の周りで行われる公演を見て、専門的な技術を習得しなくても舞踏公演ができると思ったことも、正直な要因である。
土方に草月ホールを借りてきたと報告した後も、ショーの仕事を続けていた。
事件は関東周辺の小さな街のキャバレーに金粉ショーで出演したときに起きた。
ショーが終わり、金粉を落としに銭湯に行った帰り道。車に乗った二人の男に声をかけられ、連れ回されたことがあった。暗い夜道の不安もあった「送ろうか」と声をかけてきた男たちを、出演したキャバレーの従業員だと思い込み、車に乗った。
それが間違いだったと、気がついたときには、もう車は走り出していた。
走行を続けているうちに、車が警察の前を通る。私は内側からドアを開け、走る車から転がり出て、そのまま警察に飛び込んだ。
車中に車のナンバーと所有者を示したものがあったので、記憶しておいた。
警察に事件の真相を訴えたが、警官たちは半信半疑の対応だった。警官に車のナンバーと所有者を示し、東京の土方に電話を入れた。土方は私の兄だということで、警察と対応。私は警官に連れられて、医師の診断を受け、事件を届け出た。
風呂に出かけたままの私が、明け方になって戻ってきたのを見て、キャバレーの支配人は、疑わしげな顔をする。私は何も語らず荷物をまとめて駅に向かった。もともと夜汽車で帰る予定になっていたのである。
事件を届けた警察から、車のナンバーと所有者の名前が一致し、加害者から示談の請願が出ているとの連絡が東京に入った。
私はその示談金を受け取った。
事件を振り返ってみて思うことは、この事件で受けた被害よりも、私が舞踏に求めたものが勝っていたのだろう。後遺症は残さなかった。六万円の示談金は、草月ホールの会場費として納められた。
*
私のはじめての舞踏公演は、赤坂の草月ホールで行われた。
疎開先の千葉の漁村が出生地。眼下に見下ろす太平洋にちなんだ洋子という名前を、犠牲の象徴でもある羊の羊子に変えた。踊り手は巫女に通じるものがあり、巫女の霊力は、その犠牲性によって得られると、考えたからである。
一九六八年七月、「土方巽と日本人」上演の二ヶ月前だった。
〔D53264機にのる友達ビオレット・ノジェイルの方へ「常に遠のいてゆく風景」PACIFIC231機にのる舞踏嬢羊子〕という長いタイトルは、土方がつけた。女学生と機関車をモチーフに描く画家の中村宏に、舞台美術とポスター等の印刷物を依頼。タイトルの〔D53264機〕は、中村宏の描く機関車種番号。「常に遠のいてゆく風景」は、澁澤龍彦の作品に由来する。土方巽の澁澤龍彦へのオマージュが込められている。オネゲル作曲のシンフォニー〔PACIFIC231機〕は、公演のクライマックスで使用する。実に盛沢山な内容なのである。
土方の肝いりで印刷物の発注はすんだが、さて、何をしていいのかわからない。なす術を知らない私を見かねて、土方が稽古場の玄関の引き戸を一枚はずして床に敷き、その上に全裸の私を四つん這いにさせた。私の処女公演は、そのまま、草月ホールに運ばれたにもひとしい。公演のフィナーレで再びその板戸の上で、四つん這いになるまでの間が、まるで白昼夢のようだった。
その間、初期暗黒舞踏派の公演で土方の着用した白いドレスに、黒いブーツを履き、オネゲルの曲で稽古場の床を円周に何度も回った。
土方の指示で、アルバイトの学生が借り出され、私が開幕のシーンで背中につける二枚羽を、竹ひごと和紙で作りはじめていた。
当日、楽屋に控える母親が私のからだの毛をかみそりで剃り、全身を白おしろいで化粧する。学生の作った二枚羽を背中に背負い、ヤゴからトンボになった私は学生の肩車で客席から入場。舞台に降りたトンボは、スライドプロジェクターで映し出される中村宏の赤い機関車の猛威におののきながら、飛び回る。
白昼夢から覚めたのは、オネゲルの曲で舞台を回っていたときである。突然、恐怖心に襲われた。動きを忘れ、無我夢中で土方の名を叫んだ…。いや、叫んだのかどうかも、はっきりしない…。
土方が大野一雄を促して客席から舞台の私に絡んだ。錯乱状態の私をふたりが取り押さえるという段取りである。
そういえば、リハーサルで土方巽が「ここで先生、絡んでください」と、大野一雄に打ち合わせしていたから、打合せ通りに進んだに違いない。
処女公演のために土方と過ごした二ヶ月の白昼夢が、この瞬間に覚めたのか。舞台の混乱が招いた憑依がこの瞬間に解けたのか、はっきりとしないが、これも土方の演出だったことには違いない。
稽古場の玄関から外した板戸の上で、ふたたび四つんばいになり、私の処女公演はフィナーレを迎えた。
土方にはダンスの素養がない私がどこまでできるのか、試してみたい魂胆があったのかもしれない。私も草月ホールで確かに生まれ変わったような気分を味わった。しかし、この体験はたった一度きりのもので、この次はないのだとわかっていた。また、この体験は創作とは無縁のものだと痛感していた。
処女リサイタルを終えたある日、土方がこの先もリサイタルを続ける気はあるのかと聞いた。私にその意志がないことを伝えると、土方は妙に納得した顔でうなずいた。
多くを語る必要はなかった。この短い受け答えで、土方と私の二十年間の師弟契約が取り交わされたことになったのである。
舞踏の精髄 友惠しづねと土方巽
ピットインライブ
友惠がカンパニーを主宰した翌年の1988年、まだ伊勢丹の向かいに店を構えていた新宿ピットインに友惠が出演した。ウッドベースの吉沢元治、ドラムのジョー・水城、サックスの井上敬三と坂田明、フォークギターの友惠しづねによる、五人のセッション。
控え室はシートに出演者が座ると膝と膝がくっ付きそうになる狭さだ。
演奏してきたミュージッシャンの会話は抜身の刀を振り回す真剣勝負。本番中に下手な演奏でもしようものなら、ステージの上だけでなく、控え室に戻ってバッサリ切られる。ごまかしのきかない実力世界。ライブは切った張ったの戦場にも似て、人間の本性が顕わになるので怖い。会話のテンポと乗りはステージの速度と一緒、きついジョークもポンポン飛び出して、笑っていいのか、いけないのか緊張感はステージ以上。ジャズ界の偉人、奇人伝説に度肝を抜かれる。凄味のある演奏で怪物と言われているミュージッシャンが、薬のせいでステージに上がっても音を出さなくなった。そんな逸話に交じって、今の演奏がどうだったかという話しになる。
ピットインに多く出演している歴戦練磨のミュージッシャンも、馴れ合いでは演奏できない。若手も実力があれば古参と互角に渡り合う。だからと言って、恐ろしいのがプロの世界、
「あんた何者なの。お手並み拝見。俺達についてこれるの」と、プレッシャーをかけてくる。一度は通過しなければいけないプロの洗礼。数年前にピットインデビューした友恵も経験する。後にデュオのグループを組んだ吉沢元治でさえ最初は嫌がらせたっぷりに、
「何でお前みたいな訳分からない奴がここにいるんだ。フォークギターだって?フォークソングでも唄うのかよ。俺は誇り高きジャズマンだ」と、先輩風を吹かせ、他の共演者を巻き込み友惠を仲間外れにする。
「所謂、プロの洗礼だ。ステージの内外でお見舞いされる」
それから数年後、
「うちのメンバーのひとりが、新宿二丁目に移転したピットインに舞踏で出演した。ピアノの佐藤允彦はじめ、一流のプレイヤーが揃っていたね。
初めは音楽だけで後から踊りが加わるという打ち合わせらしい。僕は客席から観てたんだけど、彼女控え室の前で、顔面蒼白の態で立ってる。普段は快活な子なんだけどね。『こりゃー、やられたな』と、思わず苦笑したよ。
後で聞いてみると、女性パーカッショナーが席を立つ間際に、彼女に一言『前座勤めてきまーす』だって。見事なプレッシャー攻撃だよね。それで動じるようなら、そこまでってことでしょ。別に無理に共演しましょうなんて、誰も思ってないんだから。
また、吉沢が嬉しそうに喋るんだ。『竹刀を振り回す奴とは演りたかない。そんな奴が沢山いるよ。そいつらには真剣でバッサリお見舞いさ。でも、一番駄目な奴は、切られたことにも気がつかない奴な』
いやはや何とも即興の世界は恐ろしい。刃傷沙汰だね。チャーリー・パーカー、ジミー・ヘンドリクス。日本では安部薫にXジャパンのhide、みんな訳のわからない理由で死んでいる。
僕が日頃から弟子に言う、即興の三箇条はこうだ。
〔かっこつけない〕〔取り繕わない〕〔一緒に生きている人を無条件で愛す〕
彼女はこの心得を守り、見事その場を凌いだ。
それは僕の〔かっこつけたい〕〔言い訳したい〕〔回りの人から無条件で愛されたい〕という、先の信条の逆をいく生き方への、深い内省のおかげだね」
*
はなしを‘88年のピットインにもどそう。坂田明、井上敬三、ジョー・水城、吉沢元治、友惠しづねの一回目のセッションが終わって、友惠と初顔合わせの坂田明は、メンバーの顔を見渡して「間引きしていこうぜ」と挑発。デュオ、トリオとメンバー構成を決めて二回目のセッションがはじまった。
友惠のギターに、命が通った。これまで誰も想像したことのない音が、友惠のギターから咆哮した。ギターの常識を打ち砕き、音の領域を拡げようとする衝撃が鮮烈だった。
二回目のセッションを終え、楽屋に戻った坂田明は友惠を「彼はすごいよ」と連発、興奮を隠さず真顔で何度も頷いていた。演奏直後のプレイヤーが、感動をことばにすることなど、めずらしいことだ。友惠とのはじめてのセッションで強烈な印象が残った。坂田明は後に友惠しづねの演出する大阪キリンプラザ舞踏公演にゲスト出演している。
友惠しづねが半眼で演奏している姿は、検校のようだ。いつの間にか、客席に背中を向けて演奏していることもある。見た目の華奢な様子に似合わない、友惠の凄味のある演奏は誰の目にも鮮烈だった。見せる演奏は意味がない。全力を出すか、出さないかのどちらか。共演者とはやるか、やられるかの一騎打ちの覚悟で演奏に臨む。
その後、ふたりでデュオを組むようになった吉沢が、友惠を六十年代に夭逝(自殺)した伝説のサックス奏者、阿部薫以来の人間だと絶賛する。
また、友惠の演奏にも舞踏作品にも共通する、綿密な構成力と究極まで突き詰めた表現から生み出される静謐なカオス。その老成された世界観に感服した吉沢が、
「そんな遣り方しているとギターは弾けても箸も持てなくなるよ」と、親身に忠告していた。
*
作曲作品を中心に演奏活動をしていた友恵しづねがフリーミュージックのジャンルに進出した経由を語る。
「僕のギターはカントリー、ブルース、フォークのどのジャンルにも入らないみたいだ。クラシック、ロック、ジャズ、民族音楽などの雑誌で紹介されたけど。何処にいっても一匹狼って感じで扱われてたね。
ある日、スイングジャーナルやジャズ批評とか、ジャズ系の雑誌に記事を書いている批評家がライブを聞きに来た。そいつが僕の演奏を『日本で一二を争う』とか言って、紹介されたのが即興音楽の世界。
僕は作曲の人間なのね。それまでそんなジャンルがあるなんて全然知らなかった。そこで『何演ればいいの?』って聞いたら『音楽演ってくれればいい』って。僕としては、どんな演奏か、全くイメージ湧かないわけよ。でも、愉快な言葉だと思わない?『音楽家はジャンルなんか関係なく、音楽演ればいい』って。今では『人間にジャンルはない』と当たり前に思っているし、『生き物にジャンルはない』ことを、血肉から想えるように願っている。」
父親ほどにも年の離れたベーシストの吉沢元治は友惠しづねとインプロビゼーションのデュオを組む。グループ名は〔エンプティー・ハット〕、からっぽの帽子。エンプティーと呼ぶのは照れがあったから〔エンプティー・ハット〕。都内や近郊のライブハウスに週一以上のペースで出演していた。
インプロビゼーションは絵画でいえば抽象画。奏者はジャズ、ロック、クラシック、邦楽出身と多彩。既存のコードに組み込まれない、音が音として自立する世界を求めているインプロビゼーションは聞き手が受動的な立場に置かれるわけではない。聞き手も社会的なコードを脱ぎ捨て、その場に参加する。場に積極的に参加してこそ醍醐味を満喫できるインプロビゼーション。一音からイメージを喚起させる。
*
「音はねぇ、聞くもんじゃなくて、空間内にいるんだよ。何か、抽象形の有機体みたいに。時には風景だったり、蟲だったりすることもある。自分と相手の音が絡み合う。単なるイメージっていう以上に、色彩やテキスチャー、重さといった確かな実在感を持っている。例えば、あるサックス奏者の演奏フレーズは内部から光る、芯はあるけど柔らかくボヨンとして、溶解した金属のように舞台に浮いている。ところが、別のサックス奏者は同じようなフレーズなのに、ペロンとした紙みたいな音に見える。ピッチにはあまり影響しないみたい。それより、その人間の精神構造や感情、思想を表象しているっていうことになるのかな。
また、音には共演者同士の共通言語というものはない。言葉よりはるかに伝達機能は高いのだけど、だからといって、言葉みたいに体系化できる代物ではない。恐らく、社会という枠組みより人類とか、生き物とかいうもっと広い領域が入り込んでいるのかも知れない。
これは、音楽に限らない。舞踏でも同じ。どちらも根源的なところで、同じからだと環境に同居している。だからこそ常に積極的でダイナミックな関わり合いが求められる。それゆえに関わる人間の個性が大事になる。どちらも生きることの切実な問いかけからはじまることにかわりはない。」
*
〔エンプティー・ハット〕の合宿を、カンパニーが一時借りていた山梨の農家で行った。一歩外にでれば南アルプスの甲斐駒、八ヶ岳、富士山と三方を名山に囲まれ、家の裏から沢に続く小道が続いていた。夜になれば満天に星が輝いた。吉沢元治は野外のセッションをやりたがっていたが、ひとたび演奏がはじまれば、田園を行き交う風も、草や木もふたりの演奏に共振していた。
演奏中のプレイヤーの心理とはどんなものなのか。
演奏中の一音一音から互いの実力と人間性が伝わってくる即興演奏。相手を気づかうことでは恋愛と似ている。相手のにおいや感覚まで鋭敏に捉えることができた。互いに通じる情は、観客がいなくても成立した。受けを狙った見せ場をつくる必要もない。ここに観客が参加したら絶妙な三角関係が成り立つだろう。スタンドプレーは暗黙の了解で禁じていた。相手の一挙手一投足が手にとるように分かるだけに「その手には乗らないよ」と、相手の意表をつくことが楽しかった。その感覚は野生に近い。その分、また警戒心も強くなる。
演奏の後は極度の疲労が襲ってきた。合宿の一日三回のセッションが済むとふたりは、はなしもしなかった。
舞踏と音楽のインプロビゼーションを弟子に指導する友惠しづねは、
「音楽でも舞踏でも、相手には一流を選ばなきゃいけない。共演者が一流なら、こちらも高いレベルを要求される。並々ならぬ相手の実力に、嬉々とするときもあれば、その逆もある。相手と共振できなければ、見捨てられる。それが即興のセオリーだ。」と、語る。
*
当時、国立に住んでいた私達と吉沢元治の住まいが近かったことから、彼とはよく行き来をした。ライブの後、舞踏と音楽のインプロビゼーションの稽古のために、明け方まで演奏することも度々あった。肝臓の持病でいつも黒い顔をしていた吉沢元治は、三十歳も年の離れた女の子をマネージャーにつけて、パパと呼ばせてマネジメントをやらせていた。職につき、会社に籍おきながら好きな音楽をやるわけではない。わがまま放題、好き勝手に生きてきたから貧乏はつきものだ。立川のけやき台団地の近くに庭付きの古い家を借りて、マネージャーの女の子と暮らしていた。ウッドベースを積むと身動きの取れなくなる小型の軽自動車にマネージャーを乗せてライブ会場に出かける。六十に手のとどく吉沢元治にとって、友惠とデュオを組んでいたこの時期は恵まれていた。友惠とのデュオ以外にも行うライブの出演料で、どうにかやっていけた。それでもライブ出演で生計を立てるのは至難の業だ。深夜、ライブが終って帰路につく途中、弁当を買ってきたマネージャーに「弁当買うな、カロリーメイトにしろ」と吉沢元治が叱っていた。
ある日曜日、パーティーをやるからと誘われたので友惠はじめ何人かで出かけた。「今日は、あいつも来るよ」と言って、吉沢元治が音楽評論家の名前をあげた。年令やキャリアに関係なく、雑誌にコーナーを持っている音楽評論家とは仲良くしておきたいのが本音だ。吉沢元治がこんな話しをした。
三十才で死んだ、音楽評論家の間章は、阿部薫、近藤敏則、高木元輝、吉沢元治、土取といった即興演奏のミュージッシャンをプロデュース、彼らのレコードを製作して、日本にインプロビゼーションを根付かせた。海外からミルフォード・グレーブス、デレク・ベリーを自費で呼び、インプロビゼーションの企画をプロデュース。フリーミュージックのセンセーションを巻き起した。抱えた膨大な借金とプレッシャーでくすりやさんと呼ばれた間章は、借金地獄のなか、薬物中毒で若くして死んだ。阿部薫や高木元輝等とフリーミュージックの絶頂期を過ごした吉沢元治は、自分の実力でやってきたと思ったら、実は自力以上に死んだ間章に回されていたことに気付いた。まわりを見渡したら、いまだに回されていることにも気付かず、自力で回っているつもりの人間が多いか分かった。吉沢元治は力は弱くてもいいから、自分で回ろうと思った。さらに吉沢元治は死んだ土方巽と舞踏界の連中の関係も同じではないかと指摘する。確かに舞踏界には、いまだに土方に回されていた事にも気付かず、自分で回っているつもりになっている人間がいっぱいいる。
*
〔友惠しづねと白桃房〕に一頃出入りを許していた山村という男もそのひとりだ。友惠の「人は長い目で見てやらないと」という善意から、美術スタッフという名目で名を連ねさせていたが、実際のところ美術家とは名ばかりで、舞台美術の提案はすべて友恵しづねが行い、制作はメンバーの入沢サタ緋呼が行ってきた。彼がなぜこのような屈辱的な対応に甘んじていたかといえば、土方舞踏の真髄を全うする友惠しづねの活動キャリアの恩恵にあやかりたかったのだろう。
ところが、友惠しづねがあこがれの土方巽をはるかにしのぐ天才だと、身をもって知ると、抱いていた屈服感は遺恨にかわる。
身近で見ていた吉沢が、
「ああいうのを破戒僧て言ってね。彼みたいなのは、たちが悪いよ」と、忠告していた。
その間も〔友惠しづねと白桃房〕とアスベスト館を天秤にかけ双方に出入りし、その内アスベスト館を引き合いに出して、仕事に見合わない金銭を催促してくるようになったので、私が見かねて「土方なら、決して、入れない」と、友恵を説得して出入りを断った。
その後も〔友惠しづねと白桃房〕の舞台美術の肩書きを列挙している、実状を知る私には、友惠しづねと白桃房のキャリアが大半以上を占める経歴を目にして、その男の卑屈さを思わずにはいられない。
彼等舞踏ごろは土方舞踏の実践はおろか、創作で自立できない寄生虫だから事態は深刻だ。土方巽を知らない年代の舞踏志願者に、害悪としか思えない都合のよい夢想と、愚にもつかない理屈をぶちあげて、毒気に当て続けているのは、許されない行為だと痛感している。
*
その日曜日、吉沢元治とマネージャーの開いたパーティーに、音楽評論家はとうとう来なかった。マネージャーの作った料理を食べながら、音楽談義も終わった頃、吉沢元治は愛用のベースを抱えてシャンソンの“暗い日曜日”を弾きはじめた。
その後、友惠が胃潰瘍でたびたび入院したり、カンパニーの海外公演が続いたりしたせいで、エンプティー・ハットもいつのまにか解散。吉沢元治もけやき台の家を引き払い、肝臓で再入院したというはなしも伝わってきていた。
そんなある日、香典前借のライブコンサートを開くから、香典代にチケットを買ってくれという案内状が送られてきた。お金に窮して、香典前借のコンサートを企画したのだ。さらに驚いたことに、その案内状が送られて一ヶ月もしないうちに、吉沢元治が亡くなったという知らせが入った。追って新宿ピットインで吉沢元治の追悼コンサートが行われるという案内も届いた。ピットインで行われた追悼コンサートには吉沢元治と馴染みの深かったミュージッシャン達が訪れ、そこに居合わせたミュージシャンとセッションを行い、吉沢元治に最後の別れを告げた。香典代替わりのチケットは本当の香典になってしまったのだ。
友惠もピットインに出向いたが、ギターは弾かず、メンバーが舞踏を舞った。その夜、友惠はゲイのショークラブ白い部屋からゲイバーをはしご、朋友吉沢元治の告別式を行なった。
*
〔エンプティー・ハット〕とも多くのセッションを行ったミュージッシャンに、ドラマーのジョー水城がいる。友恵しづねがメンバーの美斗を主演にした「病める秘蝶」の振付、作曲、音楽、美術、照明のすべてを演出した折に、公演の一部にドラムのジョー水城、ウッドベースの吉沢元治、ギターの友惠しづねによる音楽と舞踏のインプロビゼーションを構成、演出。三上寛が吉岡実の詩を唄った。
ジョー水城はジャズの全盛期にはビッグ・バンドのドラムを叩き、ロックの寺内武のバンドでも長くドラマーをやっていた。フリーミュージック隆盛期には、間章のプロデュースで吉沢元治等と共演したキャリアを持つ。フリーミュージックは、自作のパーカッションを演奏していた。とにかく器用な人で、打楽器づくりでも定評があり、注文楽器をよく作っていた。楽器を積むために自分で設計したワゴン車の内装も、実によく出来ていた。
演奏だけで食べていけなくなると、長距離トラックの運転を仕事にしていた。車の運転は抜群で、同乗者がいると、サービス精神の旺盛なジョーは、前など向いて運転していない。
山梨県身延山中のレストランでライブを行った帰路。昼食と一緒にアルコールもだいぶ飲んだジョーの運転に不安だったが、一滴も飲んでいない吉沢元治が「ジョーがそのくらい飲んだって大丈夫」と太鼓判を押す。本人も陽気に「運転してるうちに覚めるから」と、どこ吹く風。ともかくワゴン車に乗り込んだ。車内でも陽気にはしゃいで蛇行する身延の山道をまるで飛ぶように走行していく。同乗していて、彼が飲酒運転だということはもう考えないことにした。
音楽仲間に語り継がれているジョー水城の逸話がある。若い頃、クスリにらりってドラムを叩き、電車に乗って家に帰った。下車駅のプラットホームに立ち、電車の切符を落としたと思って拾ったら、また落ちた。拾ったら、また落とした。おかしいなと思いながら、落とした切符を拾い、また拾い、歩いていったらとうとうホームの端まで来て転落してしまった。駅員に引っ張り上げられて、奥さんが呼ばれた。プラットホームの白い破線が切符に見えたと説明すると、ジョーは奥さんに殴られ「眼覚ませ」と、どやされた。
破天荒で、底抜けに明るいジョー水城は女性にもてたと思うが、晩年はひとり暮らしだった。共演の機会が減ってしばらく合わなかったジョー水城が1997年の銀座ソミドの舞踏公演に来てくれた。小柄なジョーは、少し老けたように見えたが、手には愛用のライター、シルバーのジッポが握られ、Gジャンにジーンズの姿も変らなかった。
この年に阪神大震災があった。震災当日、会社に出勤したジョーは、救援物資輸送の運転手を募っているのを聞いて、すぐにトラックに飛び乗った。震災現場に近づくと、見慣れた都市の姿が消え、遠くから砂煙だけが見えた。砂煙のなかに突入すると、強い風に巻き込まれ、指定された目標など皆目検討がつかない、さすがに恐怖に襲われたと話すジョー水城は、トリオで打楽器を演奏しているとき同様、私達を感動させた。阪神にはボランティアで二度物資の輸送をしたと言っていた。そのジョー・水城も腰痛で仕事もたまにしかできないという噂を聞くようになった。
そして悲しい知らせが届いた。ジョー水城が死後アパートで三週間経って発見されたというニュースだった。
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友惠しづねはファーストアルバム「弧山」を制作した1984年に、土方巽の舞踏ワークショップを受け、ギターの演奏ライブと並行して、ミュージシャンや舞踏家と自ら身体表現を実践してきた。
1987年に〔友惠しづねと白桃房〕を結成してからは、舞踏の作曲音楽を創る一方で、フリーミュージックのジャンルに舞踏を導入。舞踏と音楽のコラボレーションを精力的に企画、実践をしてきた。また、音楽以外にも舞踏と異種ジャンルのコラボレーションを行い、友惠しづね流ポストフリーのスタイルを確立した。
日本のアーチストでは義太夫の竹本朝重、文楽の吉田玉松、フリーミュージックの吉沢元治、高木元輝、梅津和時、唄の三上寛、巻上公一、ロックのhide(X Japan)。ニューヨークの小杉武久、ジョン・ゾーン、エリオット・シャープ、ネッド・ローゼンバーク、フランスのARFI。韓国の姜泰煥、金大煥、モンゴルはホーミーのサインホ・ナムチュラク。〔友惠しづねと白桃房〕のメンバーが共演したミュージシャンは実に百名を越え、三百回に及ぶライブ回数を記録している。
小杉武久、梅津和時、義太夫の竹本朝重等をゲストに迎えた、スタジオ200のシリーズ「風に寄りそう女」では演劇賞を受賞している。
友惠しづねが行う舞踏と他ジャンルのコラボレーションは、友恵の想像を越えた緻密なシミュレーションによって展開する。ライブを終えた共演者から感動のことばは聞いても、不平のことばをを聞いたことがない。その友惠しづねの精緻を極めた構成と演出の魅力もこれから明かしていきたい。
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