舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。

Serch
 


KOREAN→|profilelive

HOME
舞踏・BUTOH TOPICS
新着!ムービー・読み物メニュー
 (インタビュー、ライブ、稽古)
舞踏ワークショップ案内

舞踏の顔表現
友恵の舞踏演出スナップ
日韓コラボレーション
華道とコラボレーション
作品「蓮遥」 詩と写真

友恵しづねと白桃房
プロフィール
舞踏公演履歴
テレプレゼンス公演
共演アーティスト
ゲスト講師

お問い合わせ
リンク


 

舞踏の白塗りメイク

文:友惠しづね

    舞踏の白塗りメイク T
「ちょっとー、あんたたち。汚さないでよ。後始末が大変なんだから。」
 楽屋を覗いた掃除婦の方が、ぼやくように言う。
「はい、大丈夫ですから。きちっと、やってますから。」
 鼻の下を伸ばし顔の下半分だけが白かったり、唇をひん曲げ片首筋を突っ張るように白い刷毛をあてたり、片足を椅子に乗せたり、胸を肌けて白練り粉を塗る踊り手達が、それぞれ自分なりに畏まって、頭を下げる。
 掃除婦の方のしかめた顔が、容易に治まるはずのないのも無理はない。神聖な職場空間が化け物屋敷と化しているのだ。踊り手が手に持つ刷毛からはポタリポタリと白い雫が垂れている。

 白塗りメイクに使われる練白粉は、歌舞伎役者やパントマイマー、舞伎さんの使うものと同じだ。ただ舞踏の場合、メイクを施す範囲が他ジャンルよりも広くなる。顔はもとより、髪を剃っていれば頭、手から足の裏、時には胸からお尻まで全身に及んだりする。
 この水で溶かれ肌に塗られた練白粉は刷毛筋の斑(むら)が出るために上から乾いたスポンジで整える。しかし乾いてくると表面が粉化し、楽屋に練白粉の霧が舞う。
 さて、この練白粉、触れたものは何でも白く染めるという特質を持つ。もしガードをしなければ、楽屋を「真っ白」に染めるのに大した手間は要さない。
 楽屋の掃除をする方の身になれば迷惑この上ない。故に舞踏の人達は、彼女達からは嫌がられるのである。 
 そういう訳で私達は化粧前に楽屋をガードするために、予め用意した大量の新聞紙を床に敷き詰め、壁やメイク台、ドアノブ等を念入りに覆う。
「前に此処を借りた人(他の舞踏家達)が悪いのよ、だらしないことしてるから。私達まで悪者にされちゃう。」団員の一人がぼやく。

 私が初めて白塗りメイクをしたのは、土方巽(舞踏の創始者・ひじかたたつみ)の舞踏講習会であった。
 会も押し迫ったある日、「講習生(一人一人)に踊りを発表してもらう。」と、土方が言う。
 中には発表の場を持てることに喜々とする人もいたようだが、二十人程いた講習生の多くは、土方の言葉におののいた。

 当時、私は土方の稽古場から程近い(歩いて二十分程)、父の経営する鋳物工場を手伝っていた。夕方五時に仕事が終わり、自宅で軽い食事を摂ってから土方の稽古場に向かう。ウィークデイの六時から九時までの講習会は、私にとっては丁度良い時間帯であった。
 普段は仕事が終わると、五時間程ギターの練習をすることを日課にしていた。講習会の期間、ギターの練習は夜十時から十二時までに絞ることにした。体はきつかった。ギターの練習をしていると眠気が襲う。
「よく、やるよー。」友人は呆れる。
「土方舞踏の魅力ゆえ」などという御もっともな理由で、そうそう余裕の無い生活のパターンを変えられるものでもない。
 私の場合、私の住まいと土方の稽古場が同じ目黒であったという地理的な条件がマッチしていたことが大きい。いま一つは私が属していたフォーク・ギター業界が、私には退屈に感じられていたせいもあった。

 フォーク・ギターは元々、アメリカン・ニグロのブルースと、白人のカントリー・ミュージックにルーツを持つ。どちらも労働者のパーティーの余興音楽に端を発するために、羊の革の弦を用いるクラシック・ギターと違い丈夫なスティール製の弦を張っている。切れにくいスティール弦はその奏法にも影響を与えたのか、力強いビート感を伴い、聞く者の身体をダイレクトに共振させる。それは生活者の心身にカタルシスを促すものであった。そこにはアメリカン・ミュージックに根差すソウルの一端をみることが出来る。
 しかし、時代の変遷の中で商業主義化の波に飲み込まれた表現が、その純粋性を損なう事態を招くことは、何も音楽の世界だけではない。
 戦後、輸入文化としてアメリカン・ミュージックの洗礼を受けた日本のフォーク・ギター音楽においては、初めから商業主義に専横され自らが根差す文化的アイデンティティーを顧みようとする意識さえ芽生えにくい業界であった。そのために、安直なコピー文化に甘んじる姿勢が定着してゆくことになる。その反動なのか、ことさらに自国の文化を強調しようとするポップ・アーティストも出てくるが、私にはどちらも、形という観念に固執しているようにしか思えないものが多かった。自然=必然が感じられない。情報化を辿る社会の中でモードに煽られ、混成する文化にまみえた個における経験の醸造の度合いが希薄に成らざるをえなかった。これは何も日本だけに限られたことではない。本場アメリカも例外ではない。既に彼らの音楽はパターン化していた。
 そんな中、当時私が数少ない例外の一人と感じたミュージシャンに、タッピング・テクニックという奏法を編み出し、ウインダムヒル・レーベルから華々しくデビューしたアメリカのギタリスト、マイケル・ヘッジスがいた。マジックのように両手の指で弦を叩き弾(はじ)く彼の奏法は、単にその華麗さに価値がある訳ではない。その技術を産み出さざるおえない溢れる力とスタイルとの拮抗が初々しい魅力を放つことにこそ注目すべきだった。西洋風に言うならば「存在と力」、 東洋風なら「形と心」の闘争と言い換えることが出来る。
 晩年、東洋思想に傾倒していくことになる彼の存在が現在の日本のフォーク・ギター・ブームの一つの礎に成っていることは事実であるが、彼の技術を受け継ぐ後裔達が「形」以上の個性を発芽させられているか否かは、また別問題である。音楽に限らずどのジャンルでも容易に類推出来る事態である。
 私が、’97年にロサンゼルスのハイウェイで四十三歳の若さで事故死したマイケル・ヘッジスのギター奏法を、彼の曲のコピー譜と供に「現代ギター」という音楽雑誌上で解説したのは、’85年。それから二年程して、ある舞踏公演の終了後、私達メンバー、それに批評家の市川雅さん達と雑談していた大野一雄さんが小さい声で「これ、凄いよ。」と、手の中に捕まえたばかりの蛍の火を逃がさぬように、そっと観せたのが、なんと私が雑誌で紹介したマイケル・ヘッジスのCDであった。
 舞台では盟友になるはずの音に対して無造作な対応をする舞踏家の少なくない中、「求める人こそ巡り会う」ということかと、私は少しばかり驚きもしたし嬉しくもあった。

 形とは人間の定義である。ある彫刻家は針金のような人体を彫り、 別な絵描きは光の中で景色に解け合うような輪郭の人物を描く。思いつきの意匠も人生を潤わせることはある。ただ、その意味を問われた時、刹那さだけが残ることは少なくない。
 今にして思えば土方の作業には彼の物語=アート世界に整合性を与えるための強引さゆえの無理を感じさせるが、当時の私は、彼の形への飽くなき憧憬その力と、その二者の邂逅に呼応するかのように息づく希望と絶望が醸す諦念にも似た舞踏アートへの姿勢に共感するものを感じもした。
 だからといって、私は何も舞踏家に成るために土方の稽古に通ったのではなかった。それが、突然、汗と練白粉が染み込んだ(既に何人もの踊り手が着用して洗濯もしていない。洗濯すると色落ちしたり型崩れするとのこと。)素人仕立ての窮屈な衣装を着せられ、顔と手足に水で溶いた練白粉を冷たい刷毛で塗りたくられたわけである。正直、ゾッとした。(因みに今の私達は公演後には必ず洗濯し、色抜けした場合は染め直す。そのため衣装の痛みは激しい。修繕出来ないものは一から創り直す。当然費用もかさむ。)
「(講習生には)鏡を見せるな。」土方が、私達の肌にメイクを施す研究生に指図する。講習生が自己陶酔するのを避けるためだろう。
 私達講習生は、自分の姿を観ることは出来ない。ただ周りの仲間達のメイクの下の不安気な表情から自分の様を推測する他ない訳だ。練白粉が乾いてくると皮膚が突っ張ってきて、無理矢理不可解な仮面を被らされたような気分に成ってくる。居心地の良いはずはない。
 私は「何事も体を通してしか知り得ないことがある」と、参加した講習会ではあるが、何処かに観客という俯瞰出来るポジションをも確保していたのだろう。
 しかし、白塗りという非日常的なメイクをさせられることにより、戻れない世界に無理矢理足を突っ込まさせられたという畏れにも似た不安を感じさせた。一時期流行った言葉を当て嵌めるなら、メイクというイニシエーションにより洗脳された、とでもいうイメージだろうか。
 メイクは呪縛力を持つものだ。
 尤も、何ら民族文化的、宗教的背景を持たない舞踏の白塗りメイクは、種を明かせば他愛がないもの、ということは後になって分かることだが・・・ビジュアル系ロックのメイクと何ら変わるところはない。実は私達は「X JAPAN」というロック・グループのメンバーであるhideさんのステージ・ダンサーを’90年彼のソロ・デビュー時から亡くなるまで勤めていた。音楽表現を基盤に「人間存在」を真っ向から追求しようとする彼のビジュアル・ワークは、既に形式化した舞踏の白塗りメークより遥かに魅惑的であると感じさせた。いくら不良振ろうと性根が生真面目な人は、時にその過激な表現が切実な悲しさを堪えもする。真理とは切ないものなのかもしれない。因にこのhideさん、ステージ上での変幻する身体所作には隔絶するものがあり、私には彼が一流の舞踏家にも思えた。ギターを抱えた彼の身体という器の中を存在の密度が自由に移行しているのだ。私はとても人間技とは思えない瞬間を垣間みた。

    舞踏の白塗りメイク U
 歌舞伎や日本舞踊、また舞伎や花嫁、祭りの稚児の化粧等、白塗りメイクは日本文化を豊かに表現する手立てとなってきた。彼らのメイクがアイラインを引いたり唇に紅をさすのに対し、舞踏のメイクは睫毛や唇まで白く塗り潰し、時に死に顔を思わせる。
 踊り手達の顔は練白粉との明度差により白いはずの歯が殊更黄色く写り不潔感を漂わせる。楽屋内で踊り手達がゲタゲタ笑いあう顔は、無邪気な黒い瞳と剥き出しの黄色い歯、口腔内の赤色の造り出す形相はグロテスクというよりは滑稽に見える。
 笑うという行為は人を無防備にさせる。黒と黄と赤を際立たせる白塗りメイクは弛緩しきっただらしなさを醸し、子供の表情の無垢には及ばないが、悪いことの出来る人間などを連想させることはない。
 しかし、舞台上では挑発性をこととする前衛アートの舞踏にとって、このメイクは観客に威嚇効果を発するのに有用でもある。

 大野一雄さんの白塗りメイクは、舞台によっても異なるが、眉毛を書き、目元をアイラインで縁取り、アイシャドーを入れている。また、唇にはルージュもさす。舞踏本来のメイクというより、パントマイムのそれに近い。このメイクは舞踏のそれと比べ「顔の認知」において日常性を多分に有するがゆえに、観る者により安心感を与える。大野一雄さんの舞台の観客のシェアーの広さの一つの理由となっている。
そして、観客に安心感を与える彼のメイクは、彼の身体表現の内容と フィットすることにおいて、強い力を持つ。
 大野一雄さんの身体表現は遥かなる彼方を熱望しながらも、その足下は日常という強(したた)かな現実にどっぷりと根を生やすがゆえに、観客(生活者)の力強い共感を呼ぶ。彼のアートは実に骨太である。これは私の体を通して知ったことでもある。
 大野一雄さんの実子であり、彼の共演者である大野慶人さんのメイクは白塗りだけという舞踏本来のものである。同一舞台で異種メイクの踊り手が共存することは舞踏の舞台の場合稀であるが、そのことが彼らの舞台表現をより重層化し、未踏の表現領域を開拓するのに不可欠な要素となった。肉親ならではのアイデンティティーが有する親和性と、異種メイクを必然たらしめるそれぞれの踊りの特異性が醸すズレが他に類をみない絶妙な舞台アートを産み出してきた。

    土方舞踏の白塗り
 土方の白塗りメイクは、’68年8月草月ホール、芦川羊子のソロ公演より、ショー・ダンスでは’69年3月〜11月赤坂スペース・カプセル(黒川記章氏設計)において相前後するように始まる。(以下は、現在当団体の団員であり土方舞踏の中心的舞踏家であった芦川羊子の証言に基づく。)
 今日では(おかまクラブ等)で観光化した楽しいショー・クラブは、60年代後半はアート色を打ち出す店があった。一部の文化人、芸能人、企業の接待客等を集めたダンス・ショーは、女性の裸をモティーフにすることが必須であった。
 舞踏の寄せ集めの素人ダンサーを、ショー・ビジネスの世界で(それらしく)観せるためには意匠を凝らした演出が必要となる。その演出の一つに、狭い舞台にアート感のある絵画やポスターの映像を写すという方法が使われた。その時、白く塗り尽くされた裸体は格好のスクリーンとなる。裸体の価値は今日より遥かに相場の高い時代である。隠れ家的高級クラブでの観客のエリート意識をくすぐる(裸にアート)という演出。出演するダンサーの技量を問う客はいない。こうした演出法はパリのショー・クラブ「クレージーホース」等でも行われている。また六本木の白人女性ダンサーのショー・クラブでも’90年代までは行われていたが今は姿を消している。
 こうしたクラブへの出演は素人ダンサーにとっても、俄(にわか)アーティストとしての誇りを持たせた。
 当時全盛であったキャバレーやストリップ劇場の仕事では客層やシチュエーションの違いにより、同じ裸でも白塗りメイクは敬遠される。其処では華やかさや色気は求められるがアート色は要請されない。
 白塗りメイクは素人ダンサー達にアーティストたるべくアイテムという意識を持たせもした。ただ、’70年以降、白塗りメイクを許容するショー・クラブは姿を消す。折しも日本経済の高度成長期、シェアーが広がった俄エリート観客にとってはアート色の強いショーは押しつけにも感じられた。・・・クラブ・ショーの付帯要素は女性の裸だけで充分というところだろうか。今日のクラブ・ショーには大掛かりなスペクタクルやコミック的要素が要請されるが、それもまた時代性を感じさせることである。
 
 ’70、71年に歌舞伎町のキャパシティー50人程の映画館・新宿アート・ビレッジで行われた舞踏公演では、白塗りの全裸女性に鶏の嘴を模した唇に赤ドーラン。頬骨の上に青ドーランのメイクや、鼻の下と臍の両脇にダリのそれを模した髭を入れる等(何じゃ、これ)という意匠を施す。作品にシュールな文学性を付加するのに役立つメークだが、これも現場を成立させるための演出からの必然性を伴っていた。それは生活のための手段であり、今日のアートの発表会としての公演とはシステムも内容も種を異にしていた。
 舞踏団員達はキャバレー等での仕事で夜は開けられないために、昼間の2回公演(キャバレーが休みの日曜日は不特定に4回)、上演時間は間持たせの「馬のファック・シーン(今日ではインターネット等で安易に入手出来るセクシー映像も当時は大変厳しい規制があった。しかし、その規制はまさか動物までには及んでいなかった。)や土方の踊り(前衛アートに触れる機会が少ない人達には、さぞかし不可解なインパクトを与えたのだろう。)」の映像を加え1時間程度。実質の公演は40分程。ダンサーはオフ・ステージの開いた時間に路上での客の呼び込みに駆り出される。新宿歌舞伎町という土地柄である。目の前にはストリップ劇場や風俗店がある。そんな店の呼び込み達と覇権を競うように客を呼び込む。呼び込まれた一見季節労働者風の観客の多くが期待するものはおのずと知れてくる。当時の新宿は’70年安保で戒厳令が敷かれてからまだ間も無い。’69年には新宿駅西口では反戦をテーマにする「フォークソングの同好会(フォーク・ゲリラ)」が国から弾圧される等、物騒な印象が残っていた。
 呼び込まれ迷い込んだように行き着いた先は雑居ビルの一室(如何わしさを醸すうらびれた空間)。まばら観客はお互い顔を隠すように牽制し合う)。
 欲情を煽るような獣の結合・・・。何だか訳も分からないが恐らく前衛とか云われるのだろう異様な踊りの映像が流れる。暫くすると安普請の小さな舞台上を、全裸を白く塗りたくった若い女達が四つん這いで動き廻る。何故か?唇の先だけ赤い女、髭を描いた女・・・。扇情的、威圧的ではあるがどこか親しみも感じられる。かかっている音楽は、レコードなんか買ったことはないがどこかで聞いたことがある激しいロック・ミュージック(実はビートルズ)。
 当時、東京近郊では「関西系」と云われるストレートな演出(オープン・ショー)が広まりつつあった時期だが、都内では社会党の美濃部都知事の政策により風俗業界は規制が厳しかった。今日からすれば時代性を感じさせるが、「ヘアー」も禁忌であった。
 そんな中、全裸に近いダンサーのインパクトは風俗業界に引けをとらなかった。
 とはいえ、ダンサーのメイクが白塗りだけだとしたら、観客への威圧感が強すぎる。メイクに不可解だが滑稽なアクセントを付加することで、観客とダンサーに適度な距離を作り出し、観客の恐いもの見たさも含めた性のカタルシスを一時的(それは時として常習的でもあるが)に導くのに役立ったことは、容易に察しがつく。
「女性の舞踏は汚いですね。」とは、アート・ビレッジ公演の観劇後の大野一雄さんの言葉である。土方舞踏と大野舞踏のアート観の根本的な違いを垣間みせる発言だが、それは土方の客層、劇場、時代状況に柔軟に対応しようとするアート・イノベーションの特徴を表しもする。
 勿論、この劇場の公演にはアート嗜好を持つ観客も少なからずいる。
エロスとアートの表現は時代、地域を問わず微妙な関係で晒され、時に社会問題としてクローズアップされることもある。最近ではイスラム教国のインドネシアでは雑誌からビキニ姿のグラビア女性が規制されることが論議を呼んだ。風俗とアートはどちらも生の表現である限り、リビドーからの熱望であり両者の間に境界線を引くことは至難であるが、法律上、道徳上、エロスの境界を逆手にとった表現は時に痛快にも感じられるが、表現者の「たわいない」戦略と見下すことも観客の権利でもある。
「ストリップとは違うのですよ。」とは、この時期の土方の発言であるが、それはとりもなおさず両者が同じ土壌を共有していたことを雄弁に語っている。

    新宿アート・ビレッジ発信
 アート・ビレッジという劇場は、舞台の創り手サイドにとっては非常に融通の効く経営システムを持っていた。貸し小屋と云いながらも貸し料金は摂らず、あくまで入場観客の歩合を徴収するだけという、今日では考えられない出演者サイドに立った良心的な経営システムであった。このようなシステムを堅持ていたのはライブ・ハウスやジャズ・クラブを除けば舞台関係では、私の知る限り渋谷の「ジァンジァン」だけではなかっただろうか。ただし初演当日の早朝が舞台仕込みのための搬入時であった。前日の夜から搬入仕込みを受け入れリハーサルのために深夜まで会場を解放しているのは、私達が東京で出演した劇場では「新宿タイニイアリス」だけであった。どちらも出演者サイドにとっては本当に有り難い劇場である。
 舞台美術等仕込みには制限があるが観客ノルマは無い。ましてや少ない観客の入場料をたまに「もぎり」をやった輩(土方)が数人分の入場料をくすねるという事態も知っていて大めに見てくれるともなれば当然経営は苦しくなる。元々善良な経営システムなのだ。人が好いばかりでは続く筈もない。しかし、商業ベースに乗らない映画やアンダー・グラウンドの演劇人を理解する劇場が、繁華街を無作為に徘徊する人々をも巻き込み舞台アートの一時代を創ったことは事実である。そこには、先行する情報の穴埋めをするかのように劇場に足を運ぶ今日の観客と舞台との関係には、決してない秘められた愛惜が生まれもする。
 アート・ビレッジ公演も「裸踊り」と週刊誌上で喧伝され話題に登ってくると土方は次に、当時アンダー・グラウンド演劇のメッカになっていた映画館劇場、新宿アート・シアター(昼間は映画上映をするその劇場は、夜だけ舞台を貸していた。)での1ヶ月公演を、途中間に入った外部マネージャーに金を持ち逃げされる等のアクシデントが起こりはしたが、敢行することになる。ここも観客キャパシティーはアート・ビレッジとは比較にならない程大きいが、劇場のシステム上、舞台美術等(照明は勿論)は簡易に成らざるを得ない。
 しかしアートとしてのステータスは確実に上がってくることになる。以前は週刊誌のグラビアでアート色を持つ風俗として紹介されていた土方舞踏もアート専門誌の「美術手帳」が特集を組む等、俄然活気づく。
 すると、情報の発信基地を標榜し現代アートも劇場の特色に打ち出そうとする、渋谷西武デパート内にオープンした商業劇場「西武劇場」の柿落としの企画に出演することが決まる。

 ところが、ここで土方舞踏は思わぬ風に晒されることになる。新宿と渋谷という文化的地場の相違もさることながら劇場の形態、システムが前出の二者とは明確に違ったのだ。このことについて舞踊批評家の市川雅さんは自身の著作「舞踊のコスモロジー」で「(その公演が)よそよそしさを感じたのは劇場がモダンできちっとしていたからの様に思えてならない。・・・観客は坐り心地よい椅子に反応の端緒を失ったかのようであった」と述べている。
 明確なビジョンさえあれば舞台美術は存分に建てられる。照明、音響設備は操作技術さえあれば質、量共に充分である。ところがプロセニアム・アーチ(額縁)によって客席と仕切られる舞台は、出演者と観客のエネルギーが混淆することにより創られる未知なる魅力=ライブ感を持ち味とする小劇場とは勝手が違ってくる。
「客席に座ることにより観客という立場を享受する」ことに異議を唱え野外劇等多くの実験を行った寺山修司の危惧した劇場システムに嵌ってしまったと云うことも出来る。『いつも』と違い観客がノッテ来ないのだ。
 後に、土方の作舞法を継ぐ私は、既に出来上がった作品でも、劇場を替えての公演ではその準備に一年以上かけたこともある。劇場空間のシステムは舞踏作品にとって死活問題ともなる重要なファクターである。私は小劇場からオペラ・ハウス、ライブ・ハウス、実験スタジオ、野外、テレビ電話やコンピューター回線を媒介にした環境と、様々な公演に要する膨大な準備から舞踏の身体技術や演出法を編み出してきたが、当時の土方は劇場の違いよるライブの意味、内容のズレを軽くみていたことは否めない。(この公演以降、土方は人前では踊らなくなる。)
 また劇場から預かった入場チケットを招待券と勘違いして無料で配る等ルーズな対応から、劇場との間で金銭トラブルも生じてしまう。
 
 アートにおいてアカデミックなハクを得たとはいえ、商業劇場での公演に懲りた土方は、再び新宿アート・ビレッジに戻る。
「これじゃ、(アート・ビレッジにしたら)面白くないよな。」と、アート・ビレッジの経営者に同情を寄せるのは市川雅さん。
 元々、この時期の土方の活動に火を付けたのは小さな小屋とはいえ、善良でありながらも誇りを貫くアート・ビレッジの経営方針に負うところがあった。ところがスポットが当たる場所は大手にシフトしてしまう。経営者自身の意識は別としても、心ある人の目には「正直者は馬鹿を見る」と映りもする。
 1974年、6、7、8月、土方は再びアート・ビレッジで一週間程の(白桃房シリーズ)公演を開始する。
 この時期までは、褞袍(どてら)の着用等衣装は多彩になってゆくが、アクセントを付けた白塗りベースのメイク・スタイルは変わらない。

    「白桃房」シリーズ公演
 
私共の団体名「友惠しづねと白桃房」の由来になる土方巽舞踏団の白桃房シリーズ13公演は、前述したように新宿アート・ビレッジに始まった。その後1976年まで、詰め込んでキャパシティー7、80人程の目黒の稽古場に会場を移す。
 稽古場に場所を替えての公演は、初めは「客は寝そべって観ていた」程空いていたが、後半には盛況となる。
 この狭い稽古場での公演が土方舞踏の骨頂を創り出すことになる。それまでの作品は、時代を煽動すべくエロスと猥雑さを押し出す演出を優先し、振り付けに関しては粗雑と云わざるをえなかった。
 東京のストリップ界でも関西系のストレートな演出(オープン・ショー)が浸透した時期でもある。女性の裸の商品価値がいつまでも希少であることはなかった。最早、裸とはいえ舞台でバタフライ(ヘアー隠し)を着用する踊り手(アルバイト感覚で働く舞踏家)からは、さしたるインパクトは期待出来ない。そこら辺りの時代感覚は土方は鋭かった。
 また、自身が舞台に立つことを止めた土方は、振り付け技術の確立に専念しようとした時期でもある。踊りのスタイルは急速に変貌していく。
 後に土方は能楽の批評家である長尾一雄さんに、「国立劇場」への出演を打診する訳だが、彼は舞踏の形化を目指していた。
 それまでの作品と「白桃房」シリーズ公演後半の作品との違いは、まず、踊り手の裸のプレゼンテーションが減少したことが挙げられる。この理由は女性の踊り手の年齢によることもあるが、前述したように、一過性のイベントから舞踏アートの形化を指向することによるものであった。その一貫としてメイクからはエキセントリックな意匠を省き、白塗りのみを基本形として定着させようとしていた。
 振り付けの方法はそれまでの、単に体に当て嵌るような作舞法(私は、別項において語ることになるだろう。)とは違った。体の形と動きを舞台空間内に仮想された複数のイメージから誘発させようとする振り付け法(これについても私は、順次明示してゆくつもりである。何らか舞踏アートの片鱗に野心を持ち自身は体の表現に対して何の努力もしていない素人?舞踏ゴロや土方や大野一雄氏という大樹の褌で相撲を取ろうとするチャチな舞踏家もどきにより、舞踏は表層だけのアートごっこに終始している現今、緻密に精査する作業をする人間が求められている。)は、踊り手に特異な体の感性を要求することになる。これは振付家・土方と踊り手・芦川のコラボレーションによって産み出された方法である。この二人の親密な世界に入る手立てを知らない踊り手は、当て嵌められた形に終始し端役を準ずるか、団体を辞めていく他なかった。「裸踊り」の時代に「三人娘」ともて囃されていた芦川以外の二人の踊り手は「白桃房」公演を契機に相前後して去っている。土方と芦川のアートの伴侶としての関係が急速に高まった時期であるが、そのことは彼の舞踏団に与えた影響として一長一短を持たざるを得なかった。
 因みに私の主宰する「友惠しづねと白桃房」では、共演者の踊り手を盛り立てる(観客に存在感があるように見せる)技術をマスターしてこそ本領としているので、出演者同士を競わせることは禁忌としている。踊り手それぞれの良さが引き出せればいいのだ。ただ、自分だけが目立つことに終始する踊り手を、私は認めない。最高の踊りとは共演者を潤し続けながらも、自身は何の存在感も誇示しない云うならば「水」に成ることだと思っている。そうした踊り手はもしかしたら観客からは「でくのぼう」と目されるのかもしれない。観客から「巧い」と評されるようでは、まだまだ舞踏の一歩を踏み出したばかりのビギナーに過ぎないのである。実は「友惠しづねと白桃房」の一員で一番注目されていない人間が実は一番実力を持つ踊り手であったりする。それが誰なのであるかは、皆様の御見識に委ねることにする。

 さて、土方は振り付け・演出において、操作性の良い民生用の簡易な照明、音響機材により、踊り手の特性に合わせる独自な方法を編み出した。しかし、あくまで狭い稽古場公演という限定された場所で培われた振り付け、演出技術は、T.P.O.の違いによる対応力に限界があった。1983年に敢行された大中ホールでのヨーロッパ公演では、土方舞踏は又もその欠陥を露呈することになる。
「白桃房」シリーズ公演は、一人の主役とその他入れ替え可能な出演者によって成立されるものであった。ここが土方と私の根本的なアート観の違いである。私は舞台には主役と脇役を分ける概念は無いと信じている。観客からの観た目上の役割があるだけであると。
 演出家、振付家にとって、複数の団員達と創作世界を共有し、彼らを育てることは至難のことである。「何てトロいんだ・・・、不器用にも程がある・・・、お願いだから振り回さないで・・・。」等、とかく演出家、振付家は自身の傲慢さにより疑心暗鬼にかかり易い。だからといって、同じ舞台に立つ人間を功利的に選り分けたのでは、あくまで、「アートの為の人間」ではなく「人間の為のアート」というアートの本随を見失うことになる。そして、たかがアーティストという狭い範疇に自分を措定してしまうことになる。人類に「その他大勢」などという概念はない筈である。

    東北歌舞伎計画シリーズ公演
 ’80年代初め、山海塾の海外での評価を逆輸入するように、日本でも舞踏にスポットが当たり、’85年2月に都内の幾つかの会場で「舞踏フェスティバル」が催された。土方はこのフェスティバルには参加しなかったが、舞踏の創始者として注目されることになる。
’87年に、来るべきバブル経済を象徴するようにオープンする銀座セゾン劇場の柿落とし公演への出演を決めた土方は、その準備のための公演「東北歌舞伎計画」を池袋西武デパート内の「スタジオ200」で始めた。’85年1月から12月まで計4回行われた公演は、当初10回の予定であったが、'86年1月の土方の遠逝により中止された。また銀座セゾン劇場柿落とし公演は「土方巽追悼公演」に早変わりすることになる。
「スタジオ200」はデパートの売り場の一画を改装して作られた狭い会場で、天井高も低く、講演やライブ音楽会等多目的に使用されるスペースであった。土方は試行錯誤の末、4回目(最後)の公演ではスペースの中央に細い十字型の変形ステージを設えた。観客席は十字型の舞台と壁の間のスペースに桟敷を組む。この十字の舞台を、文学的な思い入れから田圃の畦道と解釈する批評家もいたが、それより舞台と客席を通常の劇場通りには分けるには無理がある特殊スペースの物理的条件から引き寄せられた発想と捉える方が妥当だ。後に、私もこの会場を4回使ったが、所謂「普通」の劇場としての体裁を持たせることはなかった。やっかいなスペースである。商業劇場として完成した銀座セゾン劇場のシュミレーションには役に立たつ場所ではなかった。 
 世界の舞台アート・シーンで舞踏に注目が集まる中、土方の「東北歌舞伎計画」公演は舞踏のオリジンを示唆するべく野心的な企画であったが、彼の後進達の意欲的な活動に比べると出遅れの観があった。公演や講習会での集客数は頭打ちであり、キャパシティー700人のセゾン劇場10日間公演のノルマをこなすには大きな不安が残る状況にあった。
「ぴあ」等の情報誌の購買数の伸びが象徴するように、多様し先行する情報に引き摺られるような情報化時代の観客の観劇観が「昔」とは違ってきてもいた。同じ観客が同じ演目に毎日通うなどということは稀であった。主催者にとっては情宣がやり易い時代といえたが、仇(あだ)ともなりえた。
 観客動員の確保のために、土方は自身の舞踏とは直接関係しない他の舞踏家達の出演要請も考えていたようだ。そのための酒席を媒介とする営業活動も始めるようになる。「東北」をキーに舞踏をプレゼンテーションしようとした土方が、自身を酒飲み(東北人=酒豪?)とイメージ付けてはいたが、実際の彼は元々酒の飲める体質ではなかった。若いうちは無理も効いたが、後輩達との酒席も重なれば体に負担も掛かる。
 健康人を自負していた土方の58歳という早い死の起因を、一概に銀座セゾン劇場の出演への精神的、肉体的な負担に収斂することは性急とは思われるが、肝硬変という病を考えると少なくとも一因にはなっているように思われる。

「東北歌舞伎計画」公演の踊り手のメイクは一層意匠を凝らすものとなる。
 「スタジオ200」最後の公演では、この企画に初めて出演する上半身を肌けた男性の踊り手達(それまでは、女性のみ出演)は、白塗りの上に肩口から腕、胸、背中に茶、青、赤のドーランを塗り、顔には歌舞伎の隈取りに似た模様を施す。
 テレビ・コマーシャルにも出演した山海塾等後進達により舞踏を象徴する白塗りメイクは一般的にも知れ渡り、土方としては十八番(おはこ)を盗られた形にもなった。舞踏の創始者としての沽券を示すためにも後進達と差異化する必要を迫られていた。最後の公演での白塗りプラス・アルファーのメイクも、そんな状況を打破するための一つの戦略であったようにも思われる。

    全身ピンクのメイク
 土方が亡くなると、舞踏界の政治に巻き込まれ、土方の側(そば)に最後まで残った弟子達を引き連れた芦川は、決まった稽古場も持たず 流浪したことは既に別項で書いた。
 ’87年1月から毎月3日、一年間余、中野の小さなパフォーマンス・スペース(12月は早稲田の小劇場)で行われた「犬になるための皮膚時計」シリーズ公演では、芦川の発案で、踊り手の女性に全身ピンク色のメイクが施された。このピンク色のメイクはカネボウ化粧品会社のプロのメーキャップ・アーティストが手掛け、照明効果等も考慮に入れた念入りのものであった。裸の踊り手女性のピンク色の肌はコケティッシュな美を醸し、モダンで妖艶な彩りを舞台に与えていた。しかし、それは当時の東京の限定された場、シチュエーションでは、舞踏の新たな可能性を模索する実験として一時的に成立していたとはいえ、T.P.O.が替われば対応は難しかった。例えば、地方公演への打診は受け手がいなかった。
「東北」を舞踏のオリジンとしてプレゼンテーションしようとした土方に対して、東京出身(生まれは両親の疎開先、千葉県)の芦川は土方との差異化を図ろうともしていたようだ。東北出身者ではない踊り手として、土方舞踏を象徴的、実質的に具現してきた芦川が、自らがプレゼンテーションしてきた舞踏のイメージ(東北)との間にジレンマを感じる事態に陥るとは皮肉なことである。

    白塗りメイクの功罪
 舞踏が世界に紹介され始めた頃の西洋の哲学的パラダイムは、文明化されていない国々、民族文化に関心が高まり、フィールドワークと称される現地調査が盛んに行われていた時期でもあった。
 オーストラリアのアボリジニィ、メキシコ先住民、ジャワの祭り等、 アニミズムに根差す踊り、音楽に注目が集まっていた。人類の原初性を表象するようにも見える白塗りメイクの舞踏も、そんな時代のコードからも捉えられていた。日本でも私達の公演でレクチャーをされた中沢新一氏、植島啓司氏他多くの宗教学者、文化人類学者が舞踏の批評に関わった。ただ、山海塾等で知られる抽象性が高い全身の白塗りメイクと、着物等具体的な衣装と合わせる白塗りメイクは自ずから意味合いも変わり、モードになっている哲学的パラダイムとの距離感は一様ではなかった。
 何れにしても、フィールドワークという学術上の方法論が、西洋文明の特権的視座から成り立つものに過ぎないとの批判から文化人類学(*)へのスポットが外れることにより、舞踏はそのジャンルの自立性を更に求められることになる。
 時代の潮流的パラダイムに宣揚された舞踏が、その事態をいかに捉えていたかは、大きな問題として継続している。
 
        *その時代のもう一つのモード思想にリゾーム(分
        岐、分裂構造)を提唱するポスト構造主義があるが、
        土方は舞踏の概念構築、振り付けにおいて意識的に
        接近しようとしていたと私は観ている。が、それは
        別項に譲る。

 白塗りメイクの舞踏以前に黄色の日本人の描く白い肌が、西洋文化にポジショニングされたのは、例えば和紙に描かれた浮世絵のモデルの肌であり、伊万里等の磁器の肌であり、藤田嗣治の裸婦像の肌がある。
 それらの白はそれぞれ独異なものであるが、白人種の地肌と不協和を醸すものではなく、彼らの民族的優越意識と矛盾するものではなかった、などと語れば、それは如何にも偏狭な美術論である。風俗、文化と色彩との関係を考察する識者の研究を待たねばならない。
 私が初めてパリに行ったのは’90年の冬であった。
 空一面を覆った雲は何日も太陽を隠している。東京と比べると寒さもきつく気分が滅入る。ボードレールの「パリの憂鬱」は実は直裁的な意味なのではないか、と思ったりしながらパリのアート・シーンを探索した。
 まずルーブル美術館に入って、力強さを感じたのはフランスが無許可でコレクションしたギリシャ彫刻の白だった。日本でレプリカを観ても大した感銘を受けたことはなかったが、風土とのコントラストが影響していたのかもしれない。
 舞踏の全身白く塗られた姿態がダブらないでもない。舞踏が西洋人にとって「寸足らずなギリシャ彫刻」と映っているのではないか?との想念がよぎった。彼らは白という美のキー・アイテムに共通項を、「寸足らず」という体形に東洋フォークロアという神秘性を見出したのかもしれない、という想念を私は未だに払拭出来ないでいる。
 
    白塗りメイクの心理作用
 舞台における白塗りという特殊メイクは、その明度と彩度から誘目性(目立ちかた)が強い。
 照明設備が発達していなかった時代の舞台では、歌舞伎、日本舞踊を例に出すまでもなく、白塗りメイクは出演者の存在をアピールするための必須アイテムであった。
 白という膨張色でメイクされた舞踏手の体は、舞台照明のハレーション効果で存在感が増す。特に坊主頭の場合は効果覿面である。試しに、全身白塗りの踊り手に衣装を着せ髪を生やした姿を想像してみれば、彼らの舞台が別物になることは容易に連想出来るだろう。それどころかバレエ、ダンスと違い形や動きの相違を判別をし難い舞踏の場合は、本物の技術、実力の無い限り踊り手の誘目性が減少すれば最早舞台は成立し得ない。白塗りメイクには偽の存在感をカモフラージュする効果があるのだ。

 白は洋の東西を問わず花嫁や祭司の衣装など神聖を象徴する色でもあり、観る者の情動に直接訴える力を持ちもする。
 舞踏の場合、白という意匠をメイクで行う訳だが、この同一メイクが集団で行われる場合、その色の属性をより意味化しながら、集団の同一性と凝集性が高められ、他の集団との異質性を際立たせる。
 一時期、社会問題として耳目を集めた「白装束集団」が、何かしら宗教色を臭わすのもこの一因による。(私達も真に非力ながらボランティア活動に参加させて頂いているが、・・・「タマちゃんを救え」とプールまで作るとなれば、何ともはや日本とは平和な国なのだろう。私達も可愛い猫を飼っているから動物への慈愛心は人並みにあるとは思うが。)
 しかし舞台の場合は、この異質性が有利に働く。白塗りという非日常的メイクをした集団は、観客と明確に差別化され、威圧効果なども手伝い、あたかも特異な存在であるかに見せかける。その意匠は非日常的であるがゆえに時に神聖であり、存在の内奥を特権的に共有する風にも見える。

 メイクは、それを見る人だけではなく、する人にも心理的な効果を及ぼす。それは自信の根拠にもなれば不安にもさせる。日常での女性のメイク表現の自己評価が精神に及ぼす影響が小さいとは言えまい。
 では舞台に立つ踊り手に与える白塗りメイクの影響は、どのようなものなのだろうか?
 裸体に全身メイクを施す踊り手は、それを衣服の延長と捉える向きがある。そう思うことによって特に女性は人前での裸による羞恥心を和らげることが出来る。
 舞踏の非日常的なメイクは抽象性の強い仮面を被るという意識を芽生え易くし、日常的な自己を隠すと同時に、特異な存在を演じさせるのに役立つ。
 舞踏のメイクが作り出すペルソナは、その不可解性により非社会的であり、挑発性により反社会的でもあり、肌から血の気を隠蔽することにより死を連想させる他グロテスク、神聖、神秘、真理への遡行性、内省、破滅、犠牲等のイメージを放つ。
 しかし問題は、メイクによって先行させた舞踏のイメージとこのメイクを施した実際の踊り手の意識との間に生じた距離にある。その距離の操作によっては舞踏は単なる耳目を惹くだけの演技と堕しもし、踊り手が先行するイメージに寄り添えば本人が「その気」になるだけの自慰行為以上のものではなくなる。それを避けるためには、謙虚さと、実践においての他人(観客等)との善良なる交感を求めるが前提になってくるはず。だが、これは何も舞踏に限ったことではない。見せかけの効果に安住しているうちは、己の人生に直面する内容も限定されてくるのではないだろうか。

 世界の舞台アート・シーンで舞踏がモードになる’80〜’90年代、海外からの取材が増えてくる。舞踏の写真集等が数多く出版されたが、白塗りメイクのグロテスクな顔やポーズを作った幾人もの踊り手が収まっている。外国語で表記された文章の殆どは大した検閲も受けず、編集者、研究家と称する輩の好き勝手な思い入れで捏造された私的文学で溢れていた。
 踊り手達は余程取材されることが嬉しいのか、宣伝になることを喜んでいるのか、ここぞとばかりにポーズをとる。そんな出版物を見るにつけ、私としては白塗りメイクの効果とその内情を知っているだけに、被写体の下種張った演技に呆れ果てるばかりである。
 私達のところにも、そうした取材(彼らにとってはフィールドワークのつもりなのだろう。)はよく来たが、私は彼らの押し付けの取材態度には閉口させられることも多く、彼らとの事前の打ち合わせで納得いかない場合はお断りしてきた。尤も、日本人にもこの手の輩が多いのには・・・恥ずかしさを通り越し哀れみを感じる。日本の芸能文化を西洋のコードに還元しようという試みは多くあるが、その逆の発想を持つ人には滅多にお目にかかることがないというのも寂しいことだ。
 武智歌舞伎の武智鉄二氏は「舞踊の芸」(’85年)で「あの恐るべき消費的芸術である舞踏も、・・・日本民族芸術のため、世界に害毒を流している。」と痛烈に舞踏を批判しているが、舞踏に関わる人間は注目されることに浮かれ過ぎていないだろうか。
 海外で捏造され定式化した日本イメージに便乗することは、決して発展的な文化交流は望めない。民族の独異性も儒教、仏教、西洋の科学、政治・経済システム等多くの輸入文化に培われてきた日本および日本人は、いったい己の事をどれ程知っているのだろうかと、グローバル時代を迎えた昨今、尚更痛感せざるおえない。

    ノー・メイク
 私達のカンパニー発足当初にはブームも手伝ってかアメリカ、ヨーロッパからの講習生が数多く来ていた。そこで分かることだが、彼らに施す白塗りメイクから放たれるテクスチャー、情感は日本人のそれとは同じものではなかった。特に黒人の場合は、白という色は人種問題をも表象するようで、彼らにメイクを施す私は何故か後ろめたい気持ちになることがあった。メイクされる側も言葉では言い表せない抵抗を感じる人もあったようだ。
 私には、日本発のアートと謳われた舞踏がグローバル・アートを指向するものであるならば、白塗りメイクという意匠には少なからぬ疑問を感じさせもした。
 私達は白塗りメイクを止めてもう十年以上経つが、上記のこともその一因になった気がする。
 舞台には素顔で立つ。女性の場合は軽くファンデーションを施す程度で口紅もアイラインもひかない。衣装は古着屋で探した希少品の着物類を作品に合わせて自分達で染め直して使用。衣装は生地の染め直しと稽古によって踊り手の肌には馴染むが至ってシンプルだ。ディテールにはこだわるが目立たせようという意識はない。必要とあれば体の技術でやればよい。
 ノー・メーク(東洋人の顔立ちはノッペリしていると言われている。)に作品の役柄や特別な文学性を表明する訳でもない地味な衣装、という姿で私達が舞台に立っても、観客の誰も、特に海外の公演では、彼らが期待する舞踏特有の神秘性や威圧を感じることはない。こんな訳だからチビで何の存在感も無い見窄(みすぼ)らしい東洋人がプロセニアム・アーチに囲われた西洋式の広い舞台に・・・いるだけ、と彼らの目には映る。
 舞台装置の大転換という華やかな演出もなく、ボロ布で構成されただけの舞台美術(実は百数十枚の着物を全て自分たちで染め直したものを私が踊り手達の体の質感に合わせコラージュしている。膨大な手間が掛かった。批評では美術が動いていると言われた。)は舞台奥に薄暗く吊るされているだけで転換もない。世界でトップと云われるエジンバラ・フェスティバルの由緒正しきオペラ・ハウスの公演でも、私達は形を誇示するようなことはしない。振付家・演出家の私としては、「白塗りメイクさへすれば、どんなに楽」に公演を凌げるのだろうと思った。
 しかし、私達は白塗りメイクの効用とその力を知っているからこそ、敢て安直な道程は選ばない。
 ノー・メイクにしてから間も無い頃の公演は、それを成立させるのに熾烈な課題を私達に要求することになった。とても、それまでの踊りの技術では足りない。白塗りメイクをしないことにより踊り手の存在感が減少し舞台はスカスカ。踊り手同士の連動感も観た目上無くなり、私達の舞踏特有の微細な動きが観客には意味不明の行為と映る。踊り手が如何に力んでみても空回りするばかり。新しい体の表現技術を産み出す必要に迫られることになった。しかし、そのことが私達にとっては舞踏というアートを根本的に見直す機会にもなっていた。
 私達が持ち味とする表情や体の動きの微妙な変化等は、特に大きな会場では例え白塗りメイクをしていたとしても客席まではなかなか伝わらない。しかし、この状況をノー・メイク=素という姿でチャレンジし乗り越えることで、舞踏のあるべき技術=心を精査し直し、成長させるのに役立ったと思う。また、踊り手それぞれがリスクを常時内包させることによりライブの必須条件であるテンションを具現する方法(火事場の馬鹿力)も、切実な想いの内だからこそ比較的簡単に体得することが出来るのかもしれない。
 障害が多い程熱くなるのは、何も恋愛ばかりではない。だからといって、ときめきは、派手なドラマばかり求めるとは限らない。これはけっして負け惜しみではない。

 社会が複雑化すると、素(す)のコミュニケーションというものも希薄化する。ペルソナの早変わりに疲れたら、時には弱さを曝け出してみるのも悪くはない。呟くような吐息の中にも世界の叫びが内在されているかもしれない。

 私は何も舞踏の形(かたち)化した白塗りメイクを否定している訳ではない。その有用性をそれに頼らなくても使いこなせるようになったら、また何時か、あの水で溶いたゾッとするような冷たい感触の練白粉を肌に塗ってみようと思っている。それまでは、少なくとも楽屋をクリーニングする掃除婦の方々に不要な気苦労を掛けなくて済むというものだ。

2008/1/1 UPDATE 読みもの
土方舞踏批評 1  執筆:友惠しづね New!
アコギ・ファン 文:友惠しづね
大野一雄氏100歳をお祝いして 大野慶人氏インタビュー
 
聞き手:土方巽舞踏鑑 代表 カガヤサナエ
「南管オペラ」のアーティスト達 文:友惠しづね
台湾での舞踏講習会 -「江之翠劇場」の皆さんと- 文:友惠しづね
糸宇夢(しうむ) 「宇宙の中のひとすじの夢」 文:友惠しづね
舞踏の精髄 文:芦川羊子
My Sweet Lord 文:友惠しづね
眠りへの風景(エイジアン・コラボレーション) 文:友惠しづね
蝶々夫人 文:友惠しづね
南管オペラ 文:友惠しづね

X JAPAN hide(2005年9月25日hide MUSEUM閉館に寄せて)  文:友惠しづね

ビヨンド・ブトー 文:友惠しづね
third eye  文:友惠しづね
振付について ミラーリング 文:友惠しづね
形について・PART2 ニャン子ちゃんへの質問状 生命(いのち)の舞台あるいは近似値的絶対 文:友惠しづね
新宿アートビレッジ 文:芦川羊子
小さな祈り 文:友惠しづね(2004/8/15)

TOMOE SHIZUNE & HAKUTOBOhttp://www.tomoe.com Copyright (c) OFFICE TOMOE Co., LTD. 1995-2006 All Rights Reserved.