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「糸宇夢」は1988年、私が初めて舞台の全作曲を手掛けた作品である。当カンパニーに参加して一年半の月日が流れていた。
私の提案でメンバー全員の主役公演を順次行っていた時期の作品で、今回の主演は芦川羊子であった。
利賀フェスティバル、東京、名古屋、大阪、広島、山口、北九州、福岡、大分、アムステルダム、横浜。キャストを替えて宮城、秋田、岩手、新潟、山形で開催された。
| 構成、演出、音楽、美術 |
友惠しづね |
| 振り付け |
芦川羊子、友惠しづね |
| 出演 |
友惠しづねと白桃房 |
土方死去
1986年一月私共の舞踏の師・土方巽が亡くなると、残された弟子達は土方の家族との折り合いから、稽古場を離れざるを得なくなる。弟子達の流浪の生活の始まりである。
土方夫人その家族と、『土方巽とともに』舞踏を創り続けた芦川との間で繰り広げられた裁判闘争初め、土方亡き後、舞踏界の様相はいっきに政治に塗れた。舞踏アートの本流は消えるかに想えた時期でもある。
ある権威者、実力者が亡くなると、残された人々の間に醜い争いが起こるのは、多くの業界、家庭を問わず珍しいことではない。
「誰が悪いのか?」
こうした問題が生じた場合、「死せる人を尊ぶ」という人としての礼から、生き残った誰かに「悪者」のお鉢が廻ってくる。
素人の分際で舞踏アートに首を突っ込む土方夫人が悪いのか?創作では天才舞踏家として土方アートを支えたが、リーダーシップを取れない芦川が悪いのか?
「金のことは夫人が、舞踏のことは芦川が」これが土方の遺言だと聞く。
(嫁と妾、二人仲良く・・・)随分と都合が良い願いだ。土方も無責任な男である。
私は、夫人も芦川も、どちらも犠牲者のような気もしてくる。争いの種は生前の土方が蒔いていた。生き残った人達には皆、土方舞踏に対する責務と裏腹な打算もある。死者の想うようには現実は運ばない。
「前衛舞踏」という当時のアバンギャルド志向の若者が喰い付き易い餌で釣り、自らが経営するショー・クラブやキャバレー、ストリップ劇場回りで酷使してはギャラの「ピン撥ね」に明け暮れた夫人の強欲さも、生前の土方は利用していた。
「土方さんて、稽古場を持っている女としか結婚しないのね」とは当時、日本の女性パントマイムの第一人者が言った言葉と聞く。
土方の前婦との間にもうけた二人の子供は、その母親を亡くし、土方からもほったらかしにされていた。成人した二人の子供は土方の死を聞くと、いかな思惑からか舞踏界を徘徊するようになる。舞踏批評家の中にはその土方の息子とやらを担ぎ上げ「何か一発やってやろう」と画策する者も出てくる。
舞踏は伝統芸能ではない。あくまで「今を生きる」というライブの世界である。何もやってきていない素人が血筋を誇示したとてどうなるものでもない。
また土方は、実際の踊りの現場では芦川の心身共の従順さを利用していた。そこには「舞踏芸術」のためと称し、一般的社会基準からすると醜悪な押し付けもなされていた。
しかし、二人の間が恋愛感情で結ばれていたからこそ成り立つことでもあった。
芦川にしてみれば土方との二十歳近い年齢差と、土方舞踏を彼と伴に担うという踊り手としてのプライドが、ギリギリのところで土方の我が儘を受け入れていたのかもしれない。
その詳細は私から語るべきことではない。必要とあれば、芦川の口から追々明らかになることだろう。
何れにせよ、私には一切興味の無い範疇である。お二人さん「勝手に恋愛」しててよ。
土方舞踏の功罪
私の家と土方の稽古場が近かったことも一つの縁になり、私は彼のワークショップに参加した。
彼の存在は同じ創作者としての私に親しみを感じさせた。
では、彼は何者であるのか?
「形は後から追い縋る」
この一言だけで彼の人間観を推し量るには充分である。ワークショップの内容も、この言葉に「きっかり」見合うものであった。あまりに「きっかり」合い過ぎて、実人生との間に矛盾を感じさせる。
(「形」が「速度」を持つ時、周囲の環境は激変する)、「きっかり」というのは、どうも・・・出来過ぎている?
これは誰もが逃れようもなく経験していることだと思うが・・・、
子供の頃に寝床で「おねしょ」をしてしまった時の開放感と、それに気付いて叱責を連想した時の恐怖感。アートのダイナミズムは、日常的に経験した感覚からこそ芽生えると、私は想っている。
作家の埴谷雄高氏の「胎内瞑想」などという御大層なキャッチコピーで彩られた舞踏。
私にはこの言葉の意味が分からない。
制作前に東洋哲学の本を読み漁ったというスタンリー・キューブリックの映画「2001年宇宙の旅」のラスト・シーンは、リヒャルト・ストラウスの交響詩「ツァラトゥストラかく語りき」が流れる中、宇宙に浮かぶ地球と対比させるように子宮の中に眠る胎児が映し出される。
彼が描きたかったテーマは輪廻する生命の永遠性だったのだろうか?観念的には非常に分かり易い内容の映画だ。ところが、あいにく私には自分の母親のお腹にいた時の記憶が無いのだ。
私には、「胎内瞑想」という言葉も実質感覚として捉えることは出来ない。埴谷氏や、彼のコピーを舞踏の宣伝行為として使用した人達に、どれ程この言葉を体で捉えているのか?、聞いてみたい。
「おねしょなどした記憶がない」などと宣う人とは、私は恐らくお友達には成れない。何故なら、産まれたばかりの赤子は、誰しも「垂れ流し」状態なのだ。
赤子に個というフォーマットが形作られるのに、公的な認可が必要な訳ではない。それぞれがそれぞれの速度と密度で認識の「未分化と分化」のグラデーションを培っていけばよい。
禁忌される「おねしょ」は弛緩=緊張、安らぎ=脅威という認識のニ分節に跨がる、人類がその黎明期に劇的に経験してきた記憶である。この大いなる記憶を無意識に封じ込める必要があるのだろうか?
土方の講習会で数人の講習生が「馬の群れの模写」をした踊りをやらされる。「だれか一人『たんぽぽ(歩行という踊りの一つ)』で離れて」と土方が言う。私がすかさず「たんぽぽ」に成ると、終わってから土方が、
「何故、たんぽぽに成ったか分かる?」と聞く。私が考える素振りを見せると土方はニヤッと笑い「距離の測定だよ」と囁くように言う。
「距離の測定」、当時のパラダイムにおいては「生の意味」に関わる言葉だった。
「たんぽぽ歩行」「馬」の踊り等は土方舞踏の初歩であり、素人を相手にしていた土方舞踏を特色付けるものではあったが、私は自分の創る舞台では振り付けることはなかった。それは精神に鋳型を嵌め込まれているようで、踊り手の主体性を制限するものと、私には感じられた。
土方の舞踏テキストに関しては、後々じっくりと語ることになるだろう。が、ここでは置く。
葬式以後
「私の許可無しでは踊ることは許さない」夫人は芦川に言った。
「踊りのことは芦川が」との土方の遺言は、土方が亡くなると早々に、夫人によって一方的に破られることになる。芦川へのアート雑誌からの原稿依頼にも、夫人によりクレームがつけられる。「土方舞踏に関する取材は全て私(夫人)が受ける」と、土方の最後の弟子達をあからさまに敬遠する。そして、自分に靡く過去に土方と関わりがあった人間を側に置いていく。
(散々、金銭搾取はされたが、夫人に世話になった覚えはない。ましてや「舞踏」を全く知らない人間に、『土方巽とともに』二人の人生を賭けて創って来た「舞踏」を、無知から来る傲慢さ、我欲に蹂躙されるのは耐えられない)
夫人の自己顕示欲による思惑、行為に対して、怒りを覚えた芦川は長年慣れ親しんだ土方の稽古場を出る。
嫁と妾、各々言い分はあるだろうが、やはりアートのことに関しては素人(表層的、コード化された概念で世界を括ろうとする輩。常に未知と直面する創造的な生にはアマチュア精神こそ必須)は口を出すべきではないだろう。ところが夫人の見せびらかす虎の威の権威と金に群がる輩の多いこと多いこと・・・。
それにしても、夫人には舞踏の現場に関わるための「才能」は全く無い。これは私共の舞踏アートでの膨大な実験と新たなコミュニケーションの方法を開拓し続けたライブの実績において、断言することだ。
土方夫人の体には舞踏の感性が全く無い。
私も、当カンパニーに参加した頃、
「主催者(土方)が亡くなった時こそ、残された人達の結束が必要」と、芦川に説いてはいたが、
「先生みたいに純粋な人には分からないのよ。あの女(夫人)は駄目よ」と、芦川からは一笑されていた。
私は自分が純粋だなどと思ったことはなかったが、一般的には、かなり「お人好し」の人間と看做されていたのだろう。しかし芦川の言う言葉の意味は、私にでも直ぐに分かってきた。(それまで私の付き合ってきた友人は皆、良い人ばかりであった。勿論、人間だからそれぞれ色々あるが、やはり良い人ばかりであった。ところが、・・・世の中、平気で汚いことが出来る人間もいるものだ)。
私の父の経営する工場がお得意さんから多額の不渡り手形を受け、そのために、当時私も薄給で父の工場を手伝う羽目になっていた。その借金は今でも払い続けている。人から不幸を被ったからといって、他人にも同じ想いを合わせていいはずがない。父の経営する工場は今までに、取引き相手から何枚もの不渡り手形を掴ませられてきた。しかし、どんなに苦しくても、一度も他人に不渡り手形を出したことは無い。これは当たり前のことだ。
煩悩塗れの人間が生きる上では、善良だけで事が運ぶというものでもないことは分かるが・・・。小さな打算のために政治に奔走するという姑息な人々を、その後、私は舞踏の世界で嫌と言う程見ることになる。
だが、私はそんな狡い輩には興味はない。
私が今心配なのは、発ガン物質として大きな社会問題になっているアスベスト(石綿)のことだ。土方夫人の父親はこのアスベストを扱う会社を経営し、その儲けで娘に「アスベスト館」という稽古場を作ってプレゼントした。その忌わしい館で日々、稽古に明け暮れた芦川を初めとする弟子たちの健康こそが気掛かりである。
アスベスト館を出た芦川を夫人は早速、訴える。金も居場所もない芦川は一緒に稽古場を出た土方の弟子達と共に苦境にたたされることになる。裁判に関しては、夫人は自分の前夫との離婚訴訟、土方と前夫人の離婚訴訟と過去二回の裁判を経験しているベテランであった。
当時、世間ではマイナー・アートとはいえスターであった芦川が学生が住むような「流し、トイレ共同のアパート」に居たことや、弟子達に至ってはアパートも借りられず友人宅に居候しているという実状を聞いて、私も唖然とせざるを得なかった。(「私は千里眼だよ」「私は不死身だ」などと生前うそぶいていた土方は、いったい何をしているんだ?)。土方の弟子達をバックアップするための夫人の金力は、逆に弟子達を追い込むために使われた。
途方に暮れた芦川が頼った先が、「一蓮托生ですよ」と、これ又政治絡みの念を押す田中泯氏、そのマネージャーの小幡和枝氏、編集人の松岡正剛氏という非舞踏家「三人組」の元だ。
ここで明解にしておきたいことは、「舞踏のライブ=即興性と、編集という作業は素直に馴染む性質のものではない」、ということだ。
舞踏というライブは常に表現当事者の体をコミュニケーションの媒介とする。舞台においては社会的役割=仮面では隠れようも隠しようもない、生身の人間が露(あらわ)になる。
舞踏表現の醍醐味はまさに、そこにこそ芽生えるものである。
「歴史とは編集された歴史」であるという言葉を吐く編集人は、舞台アートというライブ・コミュニケーションの現場に如何なる姿勢で立ち合っているのだろうか?もし、予め決まった自身の編集の資料に組み入れるという目算があってのことならば、「歴史を編集」しようとする編集人にとっては眼前のライブのダイナミズムは歪曲され、狭い範囲で措定して捉える他ない。
田中氏の公演のチラシには松岡氏の名前が土方の名前の隣に鎮座していた。
一編集人のこの僭越行為は、松岡氏という人間の「編集」の内実を語るに余り有る。
「舞踏はまだ赤ちゃんなんですよ」とは、当時稽古場に同居させていた、今日では私共の団員である天乃宇受美(あまのうずみ)に、土方が託した言葉である。彼の舞踏観と、その夢が警戒していたこととは何だったのだろうか?
元々、動きあるものを対象にする編集は至難である。対象さえ止まれば(死ねば)、と想う編集人がいたとしても不思議ではない。そうした輩が編集対象者の過去の写真資料などをアイコンとして祭り上げ、自らは舞踏の素人でありながら祭司として振舞い出す。
私が危惧することは、編集人が特権意識を持った場合、その人間の器(うつわ)内で恣意的に、しかも己の欲望に任せた傲慢な編集が行なわれるということだ。
ここになお政治的目論みが見え隠れしているならば、最早その編集は論外である。舞踏の命を窮地に追い込む行為でしかない。
(土方が警戒していたのは、実にこのことであった)
土方死後、舞踏に対しての松岡氏の行動が、如実に示している。
いったい田中氏の言った「一蓮托生」とはどういう意味なのか?
「小幡(氏)は田中(氏)のためには動くが、舞踏のためには何もしない」とは舞踊批評家の市川雅氏が私と芦川に、奇しくも言った言葉だった。このような例は幾つも挙げることが出来るが、切りが無いのでこのくらいにしておく。
さて、非舞踏家トリオの元に流浪の身を預けることになった芦川と土方の弟子達は?
「お姫様」と立てられはした芦川であったが、居づらかったのかもしれない。芦川は胃潰瘍で入院することになる。踊りの後の宴席で、田中氏の元に集う地元農家の主婦からの、チヤホヤされる芦川へのやっかみによるプレッシャーが原因だったのではないかと本人は語る。土方舞踏の現場とは水が違うのだ。
しかし本当に大変だったのは芦川を慕って付いて行った弟子達だった。
彼女達は、普段から「田中泯は舞踏じゃない」と語っていた土方に背くような行動をとる芦川に不信感を募らせる。白州にある共同農場へ行けば、一部屋与えられていた芦川とは待遇が違う。彼女達は他の入居者達と雑魚寝状態を強いられる。
ある舞踏批評家が夜中に彼女達の布団に忍び入る、などという事件も起きる。
こんな破廉恥な批評家が堂々と舞踏批評など称するものを書いているのだから、舞踏界などという処は余程腐り果てている。裸を意匠とする舞踏家も後を絶たないが、彼はどんな色眼鏡で踊り手達を見ているのだろう?
酔っぱらった田中氏に殴られる弟子もいた(パフォーマンス出身者は土方舞踏=「踊り」に対して劣等感を持っていたのか)。
また田中氏の団員達にはいじめにもあっていた。理由はこうである。
「地道に農作業してのアートだ。お前らみたいに都会でショーダンス(当時、アスベスト館の慣例で、女性団員は水商売をしていた)をやっている奴の、何がアートだ」
そんな彼女達を芦川は助ける素振りも見せず自分だけ「悠長に」暮らしていた、と彼女達の目には写った。芦川にしても背に腹は替えられない状況にあったとしても、慕う人間を慕い返さなければ、人生は味気ないものになる。
当時、私は父の経営する鋳物工場で働きながら、ギター弾きとしてライブ活動を行なっていた。薄給のため満足なギターも持っていず、レコーディングの時には友人のギターを借りる始末。
田中氏のように広告代理店がらみの、小劇場を経営するようなマネージャーが金銭的に采配を振るい、その中で余裕を持って「文化人の農作業」生活を満喫出来る状況ではなかった。それは私以外の他の弟子達も皆同じだった。師事した先生(土方)は急死し、身の置きどころも定まらず金銭的にも切羽詰まっていた。
文化人としての体裁を持った農作業生活は、特に都会人にとっては憧れの生活形態の一つでもあろう。しかし、其処にアートのプレゼンテーションのためのポーズを見させられれば、嫌悪感も涌いてくる。
其処には、「農村文化の創造」に命がけで帰依しようとした宮沢賢二の願いその陰影は、微塵も感じられない。
品がねーんだよ。
私は彼らの余裕に裏打ちされた特権的なアート観からくる私共の団員への仕打ちに対しては、今でもはらわたが煮えくり返る。
生き物の生業(なりわい)に優劣を付けることなど、いったい誰に出来るんだ。
「田中泯は舞踏じゃない」とは、弟子達に語っていた農家出身の土方の言葉であるが、
そんな土方を、(こそこそ陰口を叩くんだったら初めから付き合わなければよいのに)と、私は思った。
(付き合う人間に対して、今は出来なくても、将来は可能性があるというのならまだしも、裏では「舞踏ではない」と断ずる)のは、土方が提示した「暗黒舞踏」の品性にも関わる。
私は土方舞踏を唯一担う舞踏カンパニーの主宰者の責務として、世間では「猛者達が蝟集するとイメージされる」舞踏界のあらましを、自身の体を駆使して知悉する必要を感じていた。直感では全てが分かっていたが、やはり実践を通さなければ自分より一回りも年上の諸先輩方への礼を欠くとも思った。そこが、芦川に言わせると、私の「愚直さ」ということなのだろう。
舞踏カンパニーの主宰者として、またギタリストとして私は田中氏とは三回共演した。
しかし、・・・(たかがプロ)と、期待をしていた私は落胆せざるを得なかった。
尤も、「プロ」の実力も持たない舞踏家が多い中では、田中氏のパフォーマーとしての身体表現の特質は、芝居っ気は多分に感じられたが異彩を放つものであった、とだけはフェアーに記しておく(舞踏と演劇とはその身体技においては別種ものとだけは言い添える)。
「もう一回やりましょう」実力を出し切れなかったことが悔しいのか、ライブが終わってから田中氏は私に言った。
(バカ者が・・・)それ以後、田中氏との付き合いはない。
「人生に予行演習はないんだよ」とは、私が参加した舞踏講習会での土方の言葉である。
「踊れ」と促されてビビる講習生は土方の言葉から、改めて勇気を振り絞った。
「人生に予行演習はない」
それは舞踏という前衛アートに拘わらず、人間という生き物のあらゆる局面で誰もが突き付けられている、人生からの課題。
私が土方に引き付けられる理由は、如何なる特権性も許さないそれぞれの人々の生活の「大いなる当たり前さ」を鼓舞する、そんなアートへの姿勢だった。
私は今でも、どなたからの共演依頼をも受ける覚悟はある。逃げようなどとのちゃちな生き方はしていないつもりだ。ただ、政治絡みのイベント依頼だけはご遠慮させて頂く。
「仏」の踊り
「糸宇夢」はそれまでの土方舞踏の集大成を私の世界観、それまで一人で培ってきた創作技術で汲み取った作品と云えた。
二時間以上に及ぶ作品の構成は、後で気が付いたことであるが、数年前に創った私のギターのための作曲作品とパラレルであった。
1974年の土方の「白桃房十三公演」の最後を飾る「鯨線上の奥方」では団員達によって「仏」が踊られている。「仏」の踊りは私が参加した土方の講習会でもテキストとなっていた。
「白桃房十三公演」は土方舞踏の真骨頂であり、それまでの作品群とは舞踏の意味を変革する程の深さと密度、日本文化のオリジナリティーを備え、主演の芦川羊子を天才舞踏家として確固たる位置付けをした。
しかし、「土方はこれでもかと云う程、私の存在を押さえ込んだ」とは芦川の言。
主役として注目を浴びる芦川を土方は雑誌インタビュー等では封じ込めた。演出・振り付け家とその踊り手の間には不協和音が芽生えていた。
(舞台での芦川の踊りは、全て土方の手によるもの)
芦川に対する雑誌等の直接インタビューなど有り得ない。
(たかが一団員)
土方と土方夫人の気持ちは、作品の社会的成功に対して、少なからず呼応する。
しかし、当時の創作現場の内情を垣間みる澁澤龍彦氏は土方と芦川の関係を、単にトップ・ダウンではなく「土方アートの協力者」として彼女を評価する。
さて、土方舞踏の「仏」の踊りだが、私が「糸宇夢」でこの踊りに取り組むに際し二つの問題が生じた。
一つは「仏」という宗教上の超越存在を舞台で人間が踊ることが、果たして可能なのか、どうか?
振付家の土方は仏像の写真集からその形を模写して踊り手に「形」を写す。
しかし、「形」はそれを成立させる踊り手の精神構造、精神状態と密接な関係があると、私は捉えている。
「色心不二」とは「体と心は二つにして二つにあらず」、仏教の根本思想である。「仏」という完全な形には完全な精神が必要ということになる。
ところが幸か不幸か、不完全な精神性を常とする浮き世の人間である一踊り手に、それを求める術はない。
二つ目の問題は、土方の弟子であり土方舞台に実際に立つ踊り手が、いかほど日本文化の精神史に馴染む「仏」とやらに傾倒しているか?と、までは云わないにしても、興味を持っているのか?
残念ながら、芦川を筆頭に、彼ら土方舞踏の踊り手で修学旅行の京都・奈良の寺巡り以上に「仏」に興味を示す人間は誰もいなかった。`
1987年、私が当舞踏カンパニーに参加することを決めた時にメンバーに与えた課題の一つは、「妙好人伝(みょうこうにんでん)」を読んでもらうことだった。
「妙好人」とは江戸時代、浄土を願って真宗(親鸞浄土教)を信じ尽くした文盲の庶民。彼らは、最も健気に日本人の信仰の純粋さを表象していると云われた。
「完全他力」を標榜した大仏教徒「親鸞」の弟子として、難解な仏教理論は分かる筈もないからこそ、「信じる」という純朴な力により「悟り」に到達した庶民。
(どうも、ここら辺に、舞台で「仏」を踊るためのヒントがある・・・)と、私には想えた。
幼子が母に見せる笑顔と幾年月を生き抜いた「爺っちゃん、婆っちゃん」が垣間見せる諦観にも似た笑顔には、共通項があるような気がする。
イデオロギーや国家の理念、難解な哲学ゲームや社会的ヒエラルキーなど意にもかいさないしたたかな笑顔。もしかしたら、それが「仏」の笑顔(半顔微笑)に通じるものなのかもしれない?そして、それは生き物の「本性」に怒濤の信頼を寄せることで始まっているように想えた。
私は、「仏」の踊りのモデリングとして、自力本願を旨とする理知的な禅仏教の対極に位置する「妙好人」=「爺っちゃん、婆っちゃん」の「信じる力」を選んだ。
どうせ難解な仏教理論など、踊り手に教えることは出来ない。ましてや、主宰者の私自身が分かっていない。だけど、「信じるだけ」なら、御大層な修行などしなくても、誰でも出来る。
これが舞踏作品「糸宇夢」の、私の無知から始まる着想だった。
(なんか・・・この人《芦川》って、真っ当な人。白塗りメイクでこの世離れした「幽霊」を踊る人とは、同じとは思えない。ミーハーとまでは言わないけど・・・)
「あなた・・・、生きることは何なんだろうとか、死とは何か?とか、考えたことあります?」
ある時、私は芦川に聞いてみた。
「死の舞踏」と大行なキャッチコピーに縁取られる舞踏の舞台。「闇の舞姫」としてその主役を担う芦川。彼女は私の質問に、悪さを見つけられた子供のようにバツの悪そうな笑顔を造ると、
「・・・でも、信じることだったら誰にも負けませんから」と応える。
生だの死だの、一部の偏屈な哲学者や宗教家を除いては考える必要もない程、既に日本という国は潤っている。
フィットネス・クラブのトレーニング器具にしがみつきサプリメントを飲み漁る健康ブームが示唆することは何だろう?果ては「DNAの操作をすれば、金持ちは二百歳まで生きられる」等に立脚する人生観が実しやかに語られている昨今、「実存=生死の意味」を改めて考えることなど時代錯誤なのかもしれないし、不健康と目されかねない。現代人の生の在り方は大きく組み換えられている。
「他力本願っていうのは凄いですね」
当時私と即興デュオ・グループを組んでいたコントラバス奏者の吉沢元治が、私が胃潰瘍で入院している病院に見舞いに来てくれた時、私は彼に呟くように言った。
暫くはキョトンと意味を察っしかねていた彼だが、そのうち全てが分かったというように、ニコニコと微笑みながら頷く。
他人をダイレクトに受け入れることからしか始まらない何かがある。即興演奏の一つの境地でもある。
「済みません。次のライブには(退院が)間に合わないかもしれません。練習しないと指も鈍っちゃうし」そう謝る私に、
「そんな病み上がりの奴と(ライブ演奏が)出来るかよ。こっちだって自分のことで精一杯だ。逆に足手まといだよ」と気遣ってくれ、「ギターなんか十年練習しなくたっていいんだよ、あんたの凄さ(以前、吉沢とデュオを組み、1979年に自殺したサックス奏者の阿部薫がダブっているのなら、私としては誉められたからといって必ずしも良い気持ちにはならない)はそんなところにあるんじゃない・・・」。
三十分程居てくれた見舞いは、吉沢の身勝手に喋り捲る音楽論に終始した。吉沢と私は親子程歳が離れていたが、そんな吉沢を私は可愛いと想った。
最近、渡辺香津美という日本を代表する世界的なジャズ・ギタリストが「スーパー他力本願」と称し、幅広いジャンルのアーティスト達とコラボレーションを展開している。
私も今までに沢山のアーティスト達と共演してきたが、創造的なコラボレーションの極意は共演相手を「信じ切る」ことから、おざなりのパッケージ化されたもの以上の「何か」が、産まれるものと信じている。
日本的コラボレーションが内包する魅力には「契約」や「コンセプト」とは違う仏教の「他力本願」にも似た心が今でも息づいているようだ。
安易に「信じる」と言っても、そこに打算が介在していたのでは、その行為は単に目先の投資に過ぎない。
吉沢や渡辺香津美は、自分にさえ安易な妥協を受け入れない。弛まぬ研鑽を積んでいる。それにより確かな鑑識眼を備え持っている。しかし、多くの人間交流を創造的行為として展開しようとするには、厳しい「目利きの鑑識眼」だけではなく、「無防備な鑑識眼」をも用いることが必要となる。
「無防備な鑑識眼」、それは勿論リスクは伴うが、親子愛、同胞愛、恋愛、あらゆる愛を成就させるための一つの条件である。
誰しも裏切られるのは嫌だ。だから時に人間は、願を掛けた地蔵菩薩を荒縄で縛ったりもする。「信じる」ことは難しい。期待を賭けた株価の変動に一喜一憂するような行為とは違う。
さて、「闇の舞姫」たる芦川の「信じる」という言葉の意味するところは?
別に、舞踏カンパニーの主宰者である私を信じるか否かには興味がない。アートに対する彼女の姿勢は、如何なものか?そこだけに関心がある。
彼女の踊りその体はバスト・ショット、フル・ショットというフレーム内では、いわゆる「写真写りの良い」被写体ではある。しかし、土方という振付家からは舞台空間全体の流動性、蠢きに呼応する体の技術と感性は持たされていなかった。土方舞踏の踊り手が「操り人形」と揶揄される特質を遺憾なく具現している。
あまりに独異性を持つ踊り手と振付け、演出家との関係は、舞台をはみ出した人生の多様な局面で、時に浸潤し合い時に相互補完的でもある。
(芦川の精神=体の特質を観ると私には、土方という人間の姿がはっきりと浮き掘られてくる)
「臍下の一点」
私は、体と精神構造は深い関係にあると考えている。
こと舞踏に関するならば、踊り手の背中を一瞥見れば、その人間の数年先の踊りの状態まで分かってしまう。足音を聞いただけでも同じように診える。失望することも多いが、たまに嬉しい誤算(弟子の踊りが飛躍的に上達すること)があったりすると、天にも登る気持ちになる。
芦川の体は、多くの現代人のそれと同じように、体の中心が実用性において本来在るべき「臍下の一点」から少し後ろ、そして上にズレている。我々日本人は、特に戦後に広まる西洋的生活形態が馴染み切れずに(女性の場合はハイヒールを履くなど)、どうしても不自然な姿勢を強いられている。
最近の身体論ブームでは世界のホームラン・キングの王選手や世界のリーディング・ヒッター・イチロー選手を例に出し、盛んに「臍下の一点」の重要性が語られている。
「臍下の一点」を意識出来ると、下半身と上半身の力が無理なくバランスを取れることは事実だ。
舞踏の場合も、手の指一本動かすにも足の裏の地面への吸い付き方、膝への体重の掛け方、そこから産まれる力(力点)が「臍下の一点」を中心(支点)とし上半身の動き(作用点)に移すことが基本となる。
この体の構造が崩れるとスポーツの場合は効率の良い動きを導くことは難しくなるし、最悪の場合スランプに落ち込む。体を使うアートの場合には、その表現はある範囲内でパターン化してしまい能動的な多様さと深みは望めなくなる。
「臍下の一点」の在り処はなかなか他人には教えられない。臍の下十センチ程の処と謂われているが、体型は各々違うし、触れる場所ではないので本人が自ら気付く他無いようだ。また「臍下の一点」の有様は感覚言語でしか表せないために、曖昧ではあるが逆にそのイメージは豊潤さを持つ。
私の場合、体の中の鉛筆くらいの太さのその一点を覗き込むと「自分が、質量感を持たない無限大の宇宙の中心に居るように感じる」尤も無限大の空間なのだから、その中心も無限にある、ということになる。多分、生き物の数だけ世界の中心の数もあるのだろう。体の中に、そんな一点を感じて、舞台を見渡すと、舞台空間は清純な蒼空のように微笑んで私を迎え入れる。そして私に振付けや演出をするように促す。
日本の身体芸能のメソッドの重要性を表象する言葉に「腰」があるが、「腰」と「臍下の一点」とのイメージする処は違う。尤も、昔日の伝統芸能の大まかな差異言語が云う「腰」が示唆したことは、「臍下の一点」に重なるものなのかもしれない。そして、それは西洋的身体コードとは違う日本人の生活に於ける体の自然な生業(なりわい)からによるものだった。
表層的な効果を狙うだけの身体表現には、必ずしも日本文化に根ざす熟達した体が必要とはされない。
未だに坊主頭、裸、白塗りという舞踏を象徴するパッケージ型の意匠を施す舞踏家達の体は、「キャラクター人形を演じている」としか思えないものが多い。
私共は舞踏の「より普遍的な表現技術」を探求するために、坊主頭、裸、白塗りという安易に人目を引くようなエキセントリックな意匠は行なっていない。
*「舞踏の白塗り」の功罪に関しては、別の項で詳述したい。
言葉の景色
浮き世に弄ばれる人間の相対性を奇しくも証明する、「言葉」。
言語学、哲学で「言葉の差異性」が叫ばれ、泡を喰ったのは、例えば「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華教」という文字曼荼羅を信仰の中心に据える宗教家達であろう。
彼らは曼荼羅言語を概念言語から区別するべく躍起になる。彼らの試みは挫折に終わる筈だ。人類の歴史を担わされた無数の言葉の中で「名号」だけを絶対視する理論的根拠を提示するのは至難であろう。
親鸞仏教の教典「教行信証」。「教えと行ないとその証し」の書に、敢えて加えられた「信」の一字の意味することは何も鎌倉時代に限られない。それは現代においてもあらゆる宗教観の基底になる実質としての心だ。
この「信」の一字が現代社会に象徴的に語ることは、科学の範疇から外れた迷妄する宗教の姿についてなのか、ぐらつく座標軸上でウルトラCを演じ続ける科学という身体に対してなのか?
・・・もう少し「信」について考えるべきか?
卵から孵ったウミガメは海へと邁進する。子宮から這い出したカンガルーの子は母のお腹の袋へと絶壁を登る。「ンマンマ」と社会的には未分化な幼児言語を発する赤ん坊は、抱かれた母にミルクをねだる。
もし世界に意味があるなら、こうした行為は全て「信」から始まると仮定しなければ、「海と袋とミルク」は、立つ瀬が無い。信じられて「なんぼ」だろう。それでこそ、互いの生きてる「意味」が始まる。ましてや、相手は弱者だ。どうあっても信じて貰わなければ、困る。
「信じる」者と「信じられる」者。両者は、どうも相身互いのようだ。
仏の踊り
親鸞と同時代の仏教者「日蓮」は、親鸞の「完全他力」とは真逆の「自力本願」を唱えた。両者は「仏の名号(言語)」をそのまま曼荼羅としたこと。あくまで窮乏する庶民の成仏を願ったことにおいて共通項が多い。が、「法華至上主義」を唱える日蓮は他宗を認めなかった。そのために喧嘩も絶えなかった。
熱烈な法華経信者であった詩人「宮沢賢治」は親鸞浄土教を信仰する父親と対立し続けたという。
「宗論はどちらが負けても釈迦の恥」
賢ニの父親。喧嘩を吹っかけてくる息子にこんな川柳を言ったとか言わないとか・・・。
最早パターン化し尽くした企画の現代アートの展覧会に、いい加減辟易した私は友人の個展以外には足を運ばなくなった。それだからという訳ではないが、私は博物館や美術館へは仏像を観に行く。
飛鳥時代の高度に練られた形から木喰聖人の木片まで。貴族・主権者相手の物から庶民のための物まで選ばない。
舞台をやっている関係からか習慣的に、私は仏像の背中を注視してしまう(踊り手は背中こそ命)。展示ウインドウの横に廻ったり後ろに行ったりと忙しい。
いつも想うことは、国宝級の作品といえども、その殆どの物は「背中(の存在感)が無い」という事実。仏像鑑賞には不必要な行為なのかと諦めていたのだが、一点だけ輝くような背中を持つ木彫に出会ったことがある。それは日蓮が友達の僧侶を彫った小さな作品(富木日常座像)であった。萩原朔太郎の「竹」ではないが、まっしぐらに伸び上がる背中。日蓮は世界有数の彫刻家であると、私は思った。
勿論、日蓮は美術家などではない。日本仏教を代表する人間だ。しかし、他の仏師の作品とは明らかに違う。ボクシングの矢吹ジョーを凌ぐ「世紀のケンカ屋日蓮」の宗教家としての沽券を見る想いがした。素人仏師の興した奇跡は言葉を超えた「信」に収斂されているのかもしれない。
舞台の踊り手に要求される体の持つべき能力、
『表現のために(その一)』とは、まず「背中の存在」だ。
人間の体に前も後ろもない。全方位により環境と順応している。多彩な感覚器官が蝟集する側を「前」と呼んでいるに過ぎない。
しかし、「前」と呼ぶことによって「後」(背中)の感覚は後回しにされ、退化することを余儀無くされる。
入力情報が少ない背中に面する後ろ側の環境に、人は時に恐れを感じる。見えない状況を「闇」と名付けたりする。最悪の場合、背中の感覚器官が麻痺し切って恐ろしさに対して不感になってくる。
「前はあるけど、後ろは無いね。ドラマーによくいるタイプだよ」
私と即興デュオ・グループを組んでいたコントラバス奏者の吉沢元治が、私共の舞踏公演にゲスト出演したある舞踏家を観て吐き捨てるように言った言葉だ。
私はライブではギターを演奏することから慣例的にステージの前に立つ。そのためにステージの最奥に陣取るドラマーの音は背中で聞くことになる。しかし、ドラマーの後ろで演奏する人間は誰もいない。故に経験上、ドラマーには前しか捉えない人間が多い、と吉沢は言う。
ステージ上での演奏家の物理的ポジション(位置)が、演奏精神に影響を及ぼすということらしい。ここで云う「後ろが無い演奏家」とは、演奏のスタンスが前=目で見える範囲に固執していることを意味する。これは、観念先行の表現に成り易い。
「一緒に演奏しているつもりでも共演者に背中からバッサリと切られている。最悪なのは切られていることにも気付いてない奴ね」
演奏家に限らず、他人の眼を鏡とする生き方を強いられている現代人は、背中の感覚が疎かになるのは止むを得ないのかもしれない。
だからこそ、人類の「闇」をテーマとする舞踏表現には、日々ライブとして培われ続ける文化の中で多大な期待が掛かる。しかし、その舞踏家達の表現が己の前しか意識していない、などというのでは、舞踏の担う「闇」は単なる観念の玩具に成り下がり、最早怠慢を超えた滑稽な存在と云う他ない。
「三島由紀夫に誉められて」と、その舞踏家の解説をする私を遮るように「だから、駄目なんだ」。吉沢は過去の栄光に固執する人間をすかさず断罪する。
元々舞踏は、日本舞踊とかクラシック・バレーという確かな職人技術の上に成立している訳ではない。一時のトピックが普遍化することはない。思い付きからの発想・技法をシュール・レアリズム的表現と居直りゴリ押しするのでは、単なる「だらしのない」表現者擬きと云われてもしかたがない。
戦前のフランスのアート界で興ったシュール・レアリズム運動の背景にフロイトの精神分析学があったことは周知である。フロイトの人間解釈が提示した「無意識」なる精神は、当時はまだ「暗黒=深い闇」の領域であり、魔術的な色彩を帯びていた。人間の可能性を感性で追求する当時の現代アーティスト達が、フロイトの「闇」を放っておくはずがなかった。
しかし、戦後の心理学の発展は目覚ましい。ユングの「箱庭療法」、共感心理学のロジャースを初めとして、最近では「トランス・パーソナル心理学」と、心理学の実践領域は生活者個々の抱える問題に直接的に取組んでいる。もはや心理学はアーティストの愛玩物であることを安易に受け入れない。今更「超現実主義」で舞踏を語るのは時代錯誤の観がある。
現代の「闇」は、もっと別のところにあるのではないか?
独楽回しと独楽
舞踏家で舞踏の定義をする人間が皆無に近いのも舞踏アートの特色である。
大事なところは「他人任せ」ということなのだろうか?
「虎の威を借る狐」ではないが、死んだ土方を「舞踏神」(土方の死より数日後に夫人が命名)と祭り上げることにより、祭司となった素人(土方夫人とその事務員。)があるがままの舞踏のダイナミズムを拘束し、歪めていく。
舞踏の定義として「命懸けで突っ立つ死体」と、前衛アートの旗手であった土方は語っていた。
ところが土方亡きあと、舞踏を取り巻く人間は「命懸け」どころか、保身に走る。それはアートの創造性を放棄した人間達の当然の成り行きかもしれない。
挙げ句に、亡くなった「土方の名前」を己の政治的野心のために御都合主義的に祀り上げる始末。その場合邪魔になるのが土方舞踏メソッドを唯一受け継ぎ、絶えざる研鑽の元に実力と実績を示し続ける私共カンパニーであることは云うまでもない。目先の打算に終始する彼らにとっては「生き続ける舞踏」は既に必要ないのだ。
しかし、あまりにも多くの公演活動を通しての実験、検証を経て、より総合的、体系的に土方舞踏メソッドを語れる人材は私をおいて他にいない、との自負は捨て去る訳にはいかない。
ちなみに、私共は自分達の活動で「土方の名前」を出しに使うことや利用したことは一度も無い。それが品というものだ。
いまだに土方の名前を冠した企画公演が絶えない実状は、実質的な舞踏の不毛を象徴するようで、呆れ果てるばかりである。
アコースティック・ギタリストでもある私と即興デュオ・グループを組んでいたコントラバス奏者の吉沢元治が、その当時私共舞踏カンパニーが借りていた山梨県の田舎屋(稽古場)での私との合宿で、珍しく演奏の合間にこんなことを言った(普段、演奏が絡む時間帯はミュージシャンは喋らない。喋ると集中力が失せる)。
「幾つもの独楽が回っている。回転力が弱まり倒れそうになる独楽を見付けると独楽回しはすかさず紐を走らす。ところが回されている独楽達は自力で回っていると思い込んでいる。・・・独楽回しが死んでも。
俺の場合(独楽回しは)、間(章、あいだあきら)だったね。(1980年に)彼が死んで、俺は間に回されてたんだと気付いたんだけど、いまでも自力で回ってると想っている奴が大勢いるよ。俺は、例え弱くても自力で回ろうと思ったんだけどな・・・」
三十歳で夭逝した間章は1970年代の日本の前衛ジャズシーンを切り開いたプロデューサー、ライターとして知られている。彼の元には吉沢他、阿部薫、高木元輝、近藤等則、土取利行など多くの前衛ミュージシャンが集まった。上記の言は吉沢の深い内省の末に、間氏に回された活動からの再生への決意が込められている。間氏が亡くなってからお寺に籠ったとも聞く。その吉沢が当時の舞踏界を揶揄する発言であった。
「お中元とお歳暮じゃあるまいし、たまに挨拶がてらの公演をやってな・・・」
吉沢はそうした舞踏家達に呆れていた。
私共とも共演したフォーク歌手の三上寛氏は、
「音楽家は音楽を辞めれば音楽家じゃなくなるだろう。なのに何故、何年も公演をやっていないのに舞踏家はいつまでも舞踏家なんだ」と、憎々し気に語る。
(そんな苦情を、私に言ってもらっても困る)と、私も一緒に眉をしかめる。
舞台表現の内実よりも、体とは直接関係しない曖昧な言葉だけで弄ばれる小さな世界。それが彼らの舞踏だ。実践を伴いながらも理知的な相手に対して己の空漠な理論が通用しないとなると、今度は男気を売りにしたりする。
東京の舞踏界は絶望的な状況だ。「虎の威を借る狐」の諺は舞踏家達にも当て嵌まった。「土方の名前」を担ぎ上げる他には、己という軸を持たない回され続ける独楽達には、寄り縋るべき何物も無い。
「批評とは対象だけではなく、自らにも課せられる諸刃の刃」とは、土方の盟友、詩人の三好豊一郎氏の言葉だ。神と祀られた土方を信奉する人間は、土方を批評しない。そして、自らに剣を突き付ける必要もなくなる。創造力が退化するのも必然といえよう。
しかし私は「人間土方」にこそ、大きな魅力を感じている。だからこそ、彼に対してこそ批評精神を持ち続ける。そして自分にも突き刺さる刃は、時に陣痛にも似た創造の苦しみをもたらす。土方を信奉する多くの舞踏家達も、実は私と同じ気持ちを持っていたと、信じている。アートが例え真っ当な生活者からズレた身勝手な行為だとしても、何かを産み出すという喜びは、夏の日の仕事帰りの生ビールの味と同じくらい旨いというものに決まっている。
1987年8月、西武デパートの五日間五団体出演というパッケージ化された「土方追悼」公演がお祭り騒ぎ(土方夫人の出演した公演では暴力団も関わる)の内に終わると、舞踏ゴロ(ツキ)を巻き込んだ舞踏界のだらしのない有り様は、政治的思惑の中で有らぬ方向に跳梁していく。
これも独楽回しの土方が蒔いた種であろうか。
「土方追悼」公演が終わって、翌九月の私共の公演で、私は踊り手達に無音のシーンを作り、踊らせた。
その時の踊り手の反応は、私の予想通りであった。
彼らは舞台上で、突然服を剥ぎ取られた少女のようにうろたえる。クラブ・ミュージックで踊るベルファーレのフロアーに詰め込まれた客達が、曲間の数秒の「無音」に垣間見せる怯えた表情ともダブって見える。彼らの踊りは音楽に依存していた。
元々、太古から音楽と踊りは人間の体と環境の内で未分化であった。
音楽と踊り、音と体の関係を追求しようとする人間など芦川を筆頭に私共の舞踏団には一人もいなかった。
音楽と踊り、その関係に内省することなく無意識に既存のコードに依存する彼らは、表現者として皆素人であった。それは、考えてみれば当たり前のことであった。
土方の言葉=コピーに脚色されて舞台に立っていた踊り手達である。彼らは自分からの発想で考えて踊るという習慣を持っていない。否、持たされていなかったと言った方がいいだろう。
単なる、動きと形に措定されて舞踏の踊りが完結することはない。踊り手にとって振付けは出発点、契機であるに過ぎない。
例えば振付けは「山を登る時の道しるべ」と、私は踊り手達に教えている。時には仲間と助け合いながらも、登山の味わいは踊り手それぞれ見い出すもの。頂上を目指すだけが踊りの目的ではない。
ところが、そんな踊りの楽しさを、自分からいとも容易く捨て去ろうとする人間も多い。演出家や振付家に頼っただけの踊りでは、舞台のダイナミズムも制限されてくるし、踊り手本人の充実感も限定される。またライブで生じるアクシデントには対応し難い。
どうして、土方の弟子達はそんな境遇に甘んじられるのだろうか?
土方の「舞踏」という概念を脚色する言葉(それは、ややもすると土方アートの世界観と思われがちだが・・・)を受け入れるのは素人の踊り手と、批評家を含め実際に体の表現をしたことのない人々に多い。この点に注目してみたい。
土方舞踏の振付けのスコアーの意味する内容もその読み方も舞台構造も、何も知らない似非批評家や舞踏ゴロ達の我執に満ちた品性の無い行為に、舞踏の概念はあらぬ方向に跳梁しているのは事実である。しかし、それも土方が蒔いた種であるとは、既に記した。
土方が舞踏メソッドを開示しようとしていれば、今日の乱れ切った舞踏界の実状は幾許か回避されていたのではなかろうか?と、思われる。
しかし、土方は自身の舞踏メソッドの全貌を公開していない。その理由は三つ挙げられる。
一つは、メソッド自体が体系化されていなかったこと。
一つは、彼の言葉による舞踏のプレゼンテーションと実際の踊りとの間に生じる乖離を埋められていなかったこと。
三つ目は「風姿花伝」の「秘すれば華」ではないが、舞踏のエキセントリックな身体表現の内状を明かすことでその神秘性を損なう恐れを感じていたことだ(彼は一生、舞踏の独楽回しでいたかったのかもしれない)。
勿論、彼の創作の内状を明かせば、土方に追随する舞踏家達は彼の作舞法を模倣するだろう。だが、例えその方法を盗んだとしても、あるレベルでリミッターが掛かった筈だと、私は思っている。彼を信奉する追随者達との違いにこそ土方の創作の沽券が示されるべきだった。
ところが土方は隠した。その為に土方舞踏の表層レベルの模倣から解釈された舞踏が広まってしまったと、私は考える。これにより、舞踏の「共通言語」が育つチャンスが著しく失われてしまったことは残念である。
とにかく土方は隠した。その方法は言葉に負っていた。言葉によって踊りの内実を隠した。
「命懸けで突っ立つ死体」
「命懸けで突っ立つ死体」とは土方の舞踏の定義だが、この言葉を考察してみよう。
「命懸け」で表象される「生」と、「死体」が直截的に比喩する人間の「死」が、「いる」でも「立つ」でもない「突っ立つ」という強い動詞で連結されている。
「生」と「死」という二分節された概念が、まるでメビウスの輪のような、循環する生死の観念モデルを作り上げる。(紙テープの)表と裏が強い動詞で結ばれることにより視る者に眩暈を引き起こし、接合面の矛盾を隠蔽する。これにより魅惑的なマジックが成立する。ただ、そこで語られるのは机上の「生死」である。体で考える習慣を持たない学識者などは簡単に目を眩まされる。
こうした魅惑的だがたわいの無いマジックによって、舞踏は言葉の世界で享楽に耽ることになる。そのことが、実際の土方の踊りの現場での内情を隠す手立てともなっていた。
土方はワークショップにおいても、舞踏の創始者としてのプレゼンテーションに基づくテキスト(戦前の貧困の東北、女郎、身体障害者など)を取り入れた。
「舞踏とはこのようなもの」と一人納得する講習生、批評家等も出てくるが、講習内容と実際の舞台での振付けが掛け離れもしてくる。
幾つかの講習テキストの言葉は舞踏のプレゼンテーションのために、実に美しい相貌を観せている。しかし、そのテキストに基づいた踊りは実践の舞台では役に立たない。それどころか踊り手の主体性を縛る足枷にさえなってしまう場合も起きる。
私は土方のワークショップに参加して、現代という自由な自己表現を謳歌できる時代、しかも多様な個性が求められるアートという分野に生きることを志しながら、自ら操られる人形を志願する人々が多いのには驚かされた。私は何も団体への所属の是非を云っているのではない。如何に、主体的に生きようとするかこそが問われるべきなのだ。
彼らは公演後の打ち上げの酒会には、ヒエラルキーに準じて並ぶ招待客に対して女中さんのように振舞っていた。土方舞踏が「サロン芸術」との顰蹙を買っていた理由はそこにも垣間見ることが出来る。
土方舞踏に出演する踊り手達はオーディションというものを受けたことがない。数カ月間ワークショップに通えば、幼児のピアノの発表会ならいざ知らず誰でも舞踏家として公演に出演出来るなど、私がいた音楽業界では考えられないことだった。
アマチュアが出演する(飲み屋の奥に半畳ほどのスペースが設えたような)名も知れぬライブ・ハウスでもオーディションはある。私もそれまで数多くのオーディションを受けてきた。落ちれば誰しも自分の存在を否定された気分にもなり傷付く。
一流とされるミュージシャンでも金銭上の評価(ギャラ)はまちまちだ。彼ら多くの生活は端で見る程楽ではないのが現状である。破綻をきたす人もいる。好き勝手やっているようで、ミュージシャンの生活は日々オーディションの繰り返しだといえる。それは働く者皆同じことだ。
ところが舞踏家と名乗る人達の多くは如何なる了見を持っているのだろう?自らを「舞踏家と称すれば」、恣意性に満ちた幼稚な表現行為の特権性はおろか、人間の「生死(しょうじ)」の問題さえ確保出来るとでも思っているのだろうか?
その舞踏家達に吸い付き文化人面しながらただ酒を煽る舞踏ゴロに至っては言わずもがなだ。
私と巡り会う数年前、日本のフリー・ジャズ界の嚆矢の一人吉沢元治は北海道のライブ中にダウンし入院した。胃潰瘍と肝臓疾患に因ったそうだ。その期間彼は「生活保護」を受けていたと聞く。ジャズの全盛期にはサラリーマンの十倍は稼いでいたらしいが・・・。
吉沢に限らずミュージシャンには、「金じゃあ動かない」という頑固者の職人気質を備えた人が多い。楽器というものは弾けるようになるには時間が掛かるが、弾けなくなるのは早い。金が無い、となれば日々の練習時間の確保に、泡を喰っている状態だ。コントラバスを弾く吉沢の左指は何時も「もんじゃ焼きのヘラ」のように平たくなっていた。
「無音のシーン」を体験させた公演の翌10月、私は踊り手達に即興公演を経験させた。操り人形から主体性を持つ人間への第一歩を踏ませるために。
| 「犬になるための皮膚時計vol.10」 |
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| 構成、演出、照明 |
友惠しづね |
| 振付け |
芦川羊子、友惠しづね |
| コントラバス |
吉沢元治 |
| ギター |
友惠しづね |
素人の踊り手相手の公演は至難だった。だが、ギリギリのところに踊り手を追い込むことで創作の厳しさを彼らに体で体験させることが目的のこの公演は、始まる前に私の中では既に見えるものがあった。
私の創る舞踏公演の実質上の第一作となる公演であったが、私はその創作方法を誰からも教わっていない。後から考えると随分と不思議なことではあるが、私には全てが体で予感出来ていた。まるで私の意識を置き去りにするかのように多種な感覚が勝手にざわめく。
私は自分のところの踊り手の踊りの技術、精神構造まで、それまでの彼らとの付き合いから、手に取るように(勿論、時にとんでもない錯覚を交えながらも・・・そのリスク・パフォーマンスの面白いこと)把握していた。
吉沢は、この公演の数日前のリハーサルから深夜まで稽古に参加してくれていた。これ以後、私共は沢山のアーティストと共演することになるが、金にもならない稽古にまで熱心に加わってくれるアーティストは後にも先にも彼だけだった。
本番前日の踊り手との稽古が終わってから私と吉沢は二人、頭を抱える。
もう深夜二時を回っている。明日が本番というのに先が見えない。
数年後、私共の踊りと何回も共演することになるニューヨーク・コンテンポラリー・ミュージック界の一流ギタリスト、エリオット・シャープ氏は公演後、私の「演奏に臨む時、踊り手との関係をどう捉えているの?」とのインタビュー(ジャズ批評誌)に彼は「体感」と一言応えた。
異種ジャンルのコラボレーションに対しては「体感」で全てを感じとる。まさしくその通りなのだが、その「体感」の内実を説明するのは難しい。分かっている人には「言葉じゃない」という、恋愛にも似た定義で充分なのだが、頭で分かろうとする人には永遠に分かり得ない感覚なのだ。
土方はジャズ・ミュージシャンとの共演で、踊りと音楽の関係を聞かれ「(舞踏家は)音を食べればいいんですよ」と言ったと聞く。そんな応対で納得する、体を使わない文芸、舞踊批評家達には今さらながら辟易するし、もはや哀れみさえ感じるが、土方もよくも詐欺まがいの言葉を流暢に語れたものだと感心する。
ただ、「訳知り顔」の言葉が一人歩きすると、厚顔な舞踏家達の、共演者や観客に対して「押し付け」だけで成り立たせる似非ライブを助長することにもなる。
さて、深夜まで、「ダメだ」、「だめだ」、「駄目だ」と、実際に踊り手達と向かい合い、どうにも「打つ手」も無くなり、それでも稽古に立ち合う私と吉沢は、・・・溜め息をつく他無い。私の親と同じ世代の吉沢は持病も持つ。もはや体力も限界であろうか。
「命懸けで踊ってくれなくちゃ困るよ」との私の言葉に吉沢は、
「命懸けなど、簡単に言うんじゃないよ。生きてる人は皆命がけなんだから」
「だったら、明日、出来なかった奴は二度と踊ってはならないと、決めましょうか?」
「そりゃー、キツイよー」吉沢が顔をしかめ首を横に傾げる。
周りで私と吉沢の会話を聞いている踊り手達は、どれ程ビビっていたことだろう。
これ以上の稽古は明日の自身の演奏にも関わる。吉沢はコントラバスを中野の舞台に残したまま、原付きバイクで国立の自宅に帰って行った。
私達は、その日朝まで稽古した。
元々、私共の踊り手達には一流ミュージシャンと渡り合える技術も経験もない。企画自体が強引なのである。では、方法は無いのか?
一つだけある。それは相手を信じ切ることだ。共演者が出す音を信じて、信じて、信じ尽くせば奇跡は起こる。
相手も人間である限り、信じられれば隙が生まれる。健気な赤ん坊の必死な想いを無碍に出来る母親が世の中にどれ程いるだろう。
相手の予想を遥かに超える速度で信じる。信じられると人は弱い。自分の意志に反しても救わざるを得なくなる。それは生の意味を問う作業に直結する。
素人が熟達者と共演する時の心得
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一つ、 共演者を信じ切る。 |
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一つ、 姑息な手段は絶対に使わない。 |
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一つ、 これが最後だと思う。 |
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一つ、 人生に言い訳はしない。 |
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一つ、 自分を出さない(相手に、小さな自分の器を見せないため)。 |
プロの世界で修羅場を潜ってきたアーティストは形を持っている。ところが無垢には形が無い。両者がぶつかれば前者は少なからずインパクトを受ける。そこから共演者と接点を持つ他、素人には手立てが無い。しかし、この手が通じるのは熟達したアーティストに対してだけ。しかも一回きり。彼らは腹が座っているが、見極めも早い。
では、私が考えている熟達者の持つ属性は何か?(なにやら「桃太郎侍」めいた口調に成ってきたが)
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一つ、 形を持っている。 |
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一つ、 人一倍の好奇心を持っている。 |
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一つ、 厳しい。 |
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一つ、 優しい。 |
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一つ、 何時でも、捨て身に成れる(過去の実績に安住するとかえってリスクが増す。この境地にこそがライブの醍醐味が産まれる)。
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私とのライブの打ち上げの席で「(神経性から?)腕が上がらなくなって、バイオリンが弾けなくなると思った」と、呟くように言ったのはマース・カニングハム舞踊団の音楽をジョン・ケージと共に担う小杉武久さんだった。
「御活躍ですね」との私の言葉に「大変ですよー」と、か細い声で言ったのは大野一雄さんだった。私は、彼らの熟達ぶりは伊達じゃないと思った。
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アートが創作者の個人性を源泉とするという閉息的状況を乗り越えるために、主体性を持った観客を含めてアートを培おうとする運動は、流動する社会、文化において開かれた創造的コミュニケーションの方法の模索として大変意義ある活動であると思う。ただ、その前提条件として、創作を共にする殆どのボランティア(ノー・ギャラ)に対して芸術家先生(プロ)のギャラが公表されていないことに、ある不自然さを感じる。
ちなみに、上記の国立市のとある喫茶店で行われた「クリスマス・ライブ」での小杉氏と私はノー・ギャラであった。
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これは私の即興音楽演奏での経験から言うのだが、共演者を信じる速度が増してくると、実際に演奏する音を未来から俯瞰しているような視座を得られる。そして自分の音と共演者の音が、その違いは識別出来ているのだが、誰が出している音かなど最早どうでもよくなっていると思う自分に気付く。
私の「踊り」の場合は、舞台空間のある部分が「こそばゆく」なっているような気がして、するとその空間に感覚的イメージが現れていて「ニコッ」と笑うから、私も「ニヤッ」と返すと、体が勝手に動いてしまっている。そこに「自分の表現」という意識はない。音楽も踊りも似たようなものだ。
弟子の踊り手達との、私の踊りでの共演の場合、作品の流れから時間的、空間的に彼らの欠落点を補うように体は作動する。それ以外の欲望を持つことは不謹慎である(とは云え、生活での私は存分に不謹慎である)。
日々その相貌を変えるライブの正解のない整合性を志向する視座は、どこか遠くにだが確かに息付いている、と私の体は感じてしまっている。それは世阿弥の「離見の見」に通じる眼かもしれないし、「神の目かもしれない」と講習会で土方が語る、舞台に立つ踊り手の持つべき視座「第三の目」のことなのかもしれない。現代において、「能」は観客に対してサービス精神が無さ過ぎるし、土方は有り過ぎる。
舞台において目立つことや注目を集める踊りは、実に簡単だ。ところが、それをやったなら全ては終わりになる。ましてや、「仏の踊り」など、永遠に出来ない。
(私は最もインパクトのある「舞踏らしさ」の技術を、一週間もあれば誰にでも教えられる自信がある。しかし、それは虚飾のコミュニケーションを煽るだけ。詮無いことだ)。
吉沢との公演は狭い劇場スペースの真ん中に四角い舞台を設え、舞台角に対峙するように私と吉沢の演奏ポジションを構える。その舞台の周りを取り囲むように客席は設置された。私は今回の公演に出演させていない芦川を舞台の縁に相撲の審判委員のように鎮座させた。
コントラバスを抱きかかえる吉沢の肢体は、ただそこに立っているだけで存在感を放っていた。ジャズ・マンとして積年培ったドスを備えている。
肝臓病で浅黒く照る顔色に、白いものが混じる口鬚は往年のジャズマンのダンディズムを表象するように綺麗に切り揃えられている。眼鏡の奥の睨め付けるような眼の底がニヤッと静かに笑う。ギターを抱いた私は視覚情報を素通すように眼球をガラス玉にする。
それが二人の、「始まり」の合図だ。
緊張も極に達した踊り手が、舞台に上がる。
私と吉沢の出す音は、すかさず踊り手の体に食い付く。
それまでの芦川作品は「男の骨格が無い」などとの批判も受けたが、この作品では、そんな間の抜けた批評など寄せつける隙を与えない。私も吉沢も踊り手達も皆命を張っている。
ところが、ここで(舞台も慣れてくると)難敵が現れる。・・・それは踊り手自らの中から顔をもたげる「余裕」だ。
固より私と吉沢はその難敵を駆逐する術は充分に心得ている。しかし、恐いのは素人だ。「旨くいっている」との想念が湧いてくると、・・・「その気」に、なる。こうなっては全てが元も子も無くなる。吉沢が言うところの「背中からばっさり斬られているのにも気付かない輩」とは、このことである。
その、踊り手に寄り添い出す敵を殺すのも私と吉沢の役目になる。
舞台はクライマックスに入る。ここは何としても盛り上げなくてはならない。それが作品の全責任を受け持つ私のミッションでもある(作品の完成は「グリコのおまけ」のようなものと、私は常々団員達に言っている。だけどおまけって、結構大事なもの・・・。自分の子供時代を思い出せば、誰しも思い当たる筈)。
しかし、私の創った作品の構成意図を分かっていながら、吉沢は意識的に盛り上げないような演奏をしてくる。
ここら辺が実に面白いところだ。
即興ライブは段取りこそすれ、予め造られた筋書き「打ち合わせ」を嫌う。例え演出家であろうと、共演者である音楽家に演奏内容を指示することは礼儀に反する行為となる。
作品の自然な流れから結果的に演出意図を汲んだように演奏する人もいれば、わざと演出意図を外すような演奏をして下さる人もいる。吉沢は後者のタイプだった。
当然、吉沢は私の作品の演出意図を見抜いている。
(さて、そのまま私の願いを受け入れるか、逆をいくか?)いずれにせよ、演奏中の吉沢には選択という意識が芽生える。
「どうする?否、どうするか考えること自体、己に余裕を持たせることになり、必然の演奏を裏切ることになる。考えることを止めようとするのも又考えてのことになる」。まさに「合わせ鏡の意識」の中の人物だ。定位がぐらつく。
「くそー、友惠のやろう・・・」と、瞬間吉沢の恨むような眼が私を睨む。
そして吉沢は、私の演出意図とは逆の「(作品のクライマックスが)盛り上がらない」演奏をし始める。
私は吉沢の演奏を、ここまでは読んでいた。
このままでは、せっかく緊張感に満ちてきた舞台もカタルシスを引き出すことは出来ない。
「そんなことは知ったこっちゃない」
昨日までは、私共の踊り手達に愛の手を差し伸べるがごとく親身に接してくれていた吉沢は、いざ本番となると、他人のような冷たい演奏家に豹変する。
しかし、これこそが真の熟達者の姿なのだ。本番では誰にも甘えない、甘えさせない。ここに吉沢の沽券が光る。
さて、吉沢と対峙しギターを弾く私は、だからと言って、手をこまねいて、作品が成就しないのを黙って見ている訳にはいかない。第一に、観客に対して申し訳がない。
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マルセル・デュシャンやジョン・ケージのアートの観客との距離の取り方は確かに痛快ではあるし、彼らは私のアイドルでもある。しかし、今更、出涸らしのお茶を飲む気はない。妙に水臭い。リコピーされたコンセプトは体の感覚を鈍らせる。アート製作者に独占させないアートの可能性を批評家が言説で表現した時、アーティストと観客は、またもコードに縛られる宿命を担わされる。アート参画に批評的精神は必須だからこそ、それを「ものにしよう」と画策するのは観客それぞれの体感からであり、けっして批評家の言説からではあってはならない。批評家の表現された言説はライブにおいて多分に政治的に作用せざるを得ない。
ところで私共は近年、小学校等でボランティアのワークショップ、公演をやらせて頂いている。元々、児童、生徒さん達は前衛舞踏になど興味がない。そして彼らの情報入力感性は大人よりニュートラルである。
私は冷や汗のかき通しである。
前衛アーティストというフレームで囲われた作業の、楽だったことを思い知らされる。
その場逃れで、子供を騙したら、・・・それこそ、今までの自分の生きてきた社会という足場(子供でなかった大人はいない)を全て否定することになる。緻密な体の表現を標榜する舞踏であるが、「低学年生には縫いぐるみでも被った方が、彼らのイマジネーションを謳歌させられるのだろうか?」などと自信の無い想念が涌いて来る。何しろ、私共の女性団員はいい年齢をしてキティーちゃんが「可愛いー」などと、宣わっているのですから、私としては、頭がごっちゃになっちまいます。・・・「第一、なんで(キティーちゃんには)口がねーんだよ?」
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そこで、あらかじめ舞台縁の客席に鎮座させていた芦川に、本番前、
「ラストシーンになったら舞踏体で徐に立ち上がり一呼吸おいたらゆっくり座って下さい。糸で吊られるイメージでよいですから」と、打ち合わせておいた。
私共が素人弟子と違い、当時「舞踏の全て」を体現しているとのイメージを持たれていた、「闇の舞姫」芦川が舞台縁の客席から突然、ゆっくりと立ち上がる。
吉沢の目が突如、輝き出し、演奏のテンションが俄然上がった。
芦川は私の振付け通り、そのまま元の位置に座わり直す。その間、20秒程だっただろうか。
しかし、一度盛り上がった吉沢の演奏のテンションは残り少ないラストまでの時間、下げることは出来ない。
これで公演は「無事、終了」、ということになる。「お疲れさま」。出演者は誰も皆本当に疲れて果てていた。
次ぎの日は、同じシーンで、芦川に今度は一歩だけ舞台に乗ってもらい、前日と同じようにまた元の席に直らせた。吉沢は又も私の演出に釣られた。そして、テンションの上がった演奏はラストシーンまで・・・。
(私も、馬の面に人参をぶら下げるようなことをして、吉沢には申し訳ないなとは思ったが、背に腹は替えられない。この借りは数年後の作品で「吉沢と芦川」の即興の場を造ることで返した。私はその公演では芦川には何も指示していない。結果は見るも無惨だった。吉沢は百年の恋も醒めた想いだっただろう。私には結果が「読めていた」が、実際やってみなくては、吉沢も納得しなかった筈。
芦川は土方時代、一度も即興公演など経験したことがなかった。ましてや、「闇の舞姫」と命名されたプライドに寄り縋っていては、とても熾烈な即興コラボレーションなど出来る筈がない(芦川の名誉のために付け加えるが、元々踊りに関しては貪欲な彼女である。現在は、その実力は備えている、と言い添えておく)。
この公演以後、私共は百人以上の音楽家と共演してきたが、初期の頃、私は全て共演者の演奏内容を読み切って作品を創ってきた。そして時間を追うごとに、私の関与する分量を少なくしていった。
相手の演奏を「事前に読む」。
このシミュレーション作業を経なければ、作品の構成は創れない。それは単なる実験で終わり、作品は途中で冗長なものになり、共演者のやる気を削ぐことになる。共演者に存分の演奏をして頂くためにも、絶対に必要な作業なのだ。
ただ、「読む」と云っても、それはワインのテイストを表現するように私の感覚言語上での思考なので、創作に対してそれぞれ自分の感覚言語を持っている共演者には別段気にもならない。
勿論、「読み」は外れることもある。しかし、共演者のテンションが上がった故の結果ならば、私としては大歓迎である。公演の「場」は必ず大きな成果を産み出す。「異種ジャンルのポスト・フリー・コラボレ?ション」は、共演者達からも「単なる即興ライブより面白い」と、要望されるものでもあった。
私共の共演者の多くは、時代に敏感なつわもの達であった。私の提示する創作メソッドは、彼らにとっては「砂に沁み入る水」のように勢い良く咀嚼された。
但し相手が素人だと恐い。以前、芦川の同僚で七十年代の土方の弟子であるという舞踏家をゲストとして呼んだことがある。
実験的要素がない、振付けが決められた従来の公演形態である。そこで、そのゲストは本番中に突如着ていた衣裳をはだけ上半身裸となる。公演の流れや共演者のことなどほったらかして表層的な自己顕示に走り出す。
その公演のために長いこと準備してきた共演者、スタッフの気持ちは、どうなるのだろうか?そして、観客は?
私はがっかりした。・・・これが土方の弟子の有り様なのだ。こんなスタンドプレーを行なうことが、果たして舞踏表現の特権だとでも思っているのだろうか?
舞踏は確かに、その場の思い付きのような表現でも、即興として通用した時代もあるだろう。
イソップ童話の「塩を運ぶロバ」ではないが、前時代に「塩を背負ったロバがたまたま川で転び、荷が軽くなった」という甘い汁の味を覚えた人間が、今度は「綿を背負ったロバ」になっている自分を知らないで、自ら川に転び、水を吸い石のように重くなった綿により溺れ死んだ。
そんな寓話をこの舞踏家に見る思いがした。
「犬になるための皮膚時計 vol. 10」十二月公演
前回の公演に引き続き、今回も即興コラボレーション公演を行なった。
| 構成、演出 |
友惠しづね |
| 振付け |
芦川羊子、友惠しづね |
| コントラバス |
吉沢元治 |
| サックス |
ジョン・ゾーン |
| ギター |
友惠しづね |
ニューヨークのコンテンポラリー・ミュージック・シーンでのトップ・アーティスト、ジョン・ゾーンを迎えての本公演のあらましを語る前に、即興=フリー・ミュージックの歴史を簡単に説明しておく。
ジャズの巨匠ジョン・コルトレーン以後、七十年代のジャズ・シーンは打ち合わせ無しの「完全即興」=フリー・ミュージックへと進化しようとする。楽曲のテーマ性が失われ、アーティストの生身でダイレクトな表現が志向される。ノン・リズム、ノン・メロディーというように音楽のコードが解体されて、ノイズ・ミュージックというそれまで音楽表現から疎外されていた雑音まで音楽の一要素として看做されてくる。
ところが自由の筈のノン・コードの音楽は、ある時間を経た時、一つのコードとしてパターン化してくる。八十年台、このカタルシスのために「ポスト・フリー」という運動が起きる。これは野方図な自由演奏に「枠組み」を課することで、音楽の即興の持つ自由性を確保しながらも、惰性に流れることを食い止めようとする試みであった。この運動のニューヨークでの第一人者と目されていたのがサックス奏者のジョン・ゾーンであった。
私が当舞踏団に入る前年八十六年に、私が彼の企画に参加していたのが縁となり、今回彼をゲストとして呼ぶことにした。
近藤等則のバンドのメンバーや現代音楽の三宅榛名氏等が参加したその企画はゲーム感覚に溢れた即興の楽しい演奏会であったが、そのゲームのルールは観客には明かされていない。観客は見えないルールに規制される即興音楽をスリルをもって鑑賞し、音楽家達にしてみてもまるでポーカーのトランプを捲るように楽しみながら演奏を進行する。
今日ではその企画は、日本の若手ミュージシャン相手に巻上公一氏が引継いでいるようだが、「トップ・シークレット」とされたその演奏ルールは折を見て話すことにする。そろそろバラしたとて、いい頃合だろう。
吉沢は生っ粋の即興ミュージシャンであった。彼に呼ばれたライブでは、私も打ち合わせの全く無い完全即興演奏をしていた。
「いや、キツいー」。吉沢がゴールにへたり込んだマラソンランナーのように呻く。予定調和が無い現場で、二人して二時間半がとこ楽器を弾き続けるのだ。
精魂尽き果てるまでお互い心身から音を絞り出す。へたばるまで殴り合い続けるボクサーのようだ。いつの間にか観客の存在など忘れる、なんてこともある。しかし一瞬たりとも手を抜くことなど、お互いの脳裏には浮かばない。そんなことになれば全てがオジャンなのだ。今までの人生までも。
戦後、スイング・ジャズからバップ、フリー・ジャズ、フリー・ミュージックとアメリカン・ジャズ史を早足で変遷してきた吉沢は、最早「形」に執着はしない。阿部薫、間章という同僚達の死を背負っていたのかもしれない。
一方、物心付く前から喘息の発作に襲われていた私は、苦しみには慣れている。発作がピークに達するとランナーズハイではないが、苦しみが解放に替わる瞬間がある。その時の感覚が、陶酔感と覚醒観は一体であるということを、幼い頃から私に教えていた。それが私の即興演奏の一つの風景である。しかし、発作ピーク前の長い時間の不安は、自分という存在を脅かすものでしかなく、それゆえ私は「形」を追い求め続けていた。しかし既存の「形」に安寧出来るほど、幼い私は器用ではなかった。
私の舞踏コラボレーションをアート史から語るならば、「異種ジャンルのポスト・フリー」の先駆ということになろうし、またその内容は質、量共に世界でもトップ・クラスの活動だと自負している。
ジョン・ゾーンとは、私とのライブハウスでの演奏を挟んで翌八十八年一月、私共のメンバー「翔子」の主役公演「日輪」にもゲスト参加してもらった。
「踊り手の体は演出家、振付家の『操り人形』であってはならない」との、私のアート上の指針から敢行したコラボレーション・シリーズは以後、ジャズ系の即興演奏家に止まらずロック、フォーク、クラシック、文楽、義太夫、美術家、照明家、服飾デザイナー、武術家、詩人へと広がっていく。それにより、私共カンパニーの団員は、踊り手としての必須条件である「体の即興性」を培うことが出来たと思う(こう言うと、私の尊敬する団員達は皆、熟練者になったとの誤解を生じさせるかもしれない。実はそうではない。迷路を踏破した末に辿り着くは元在る場所などということは、誰もの人生の局面でさして珍しいことでもない。ただ、少なくとも私は彼らに器用さだけで世渡りするような「安直な要領」という手段を教えた覚えはない)。
踊り手は何より、観客もスタッフも含め「全ての共演者」を「信じ切る」ことから始めることが理想とされる。「信じる」とは博打とは違う。体とそれを取り巻く環境は、自分というややもするとコード化されがちなカテゴリーからは想像も出来ない、微細でパワフルなネットワークで広がっているのだから。
八十九年の即興コラボレーション・シリーズ「風に寄り添う女」では、現在の東京演劇祭の前身である池袋演劇祭で「大賞」を受賞している。賞金はみなスタッフに渡した。この頃は公演の赤字がどれ程なのか、計算をする余裕もなかった。
そして、糸宇夢(しうむ) 「宇宙の中に紡がれた夢」
八十八年八月、多くの稽古、公演を経て、利賀フェスティバルに上演する「糸宇夢」を創り上げた。
これまでに、稽古、公演を通しての実験で、踊り手達の舞台に対する姿勢、体の対応法を教えてきた私であるが、この公演での問題は今回主演を張らせることにした芦川にあった。
彼女は土方時代の、「稽古場公演」という狭い場所での限定された舞台創作法に安寧しようとする。
「あの時、上手くいったのだから・・・」誰しもが陥りがちな甘い罠だ。ライブでは「一瞬先こそが闇」である。
自分の今を知るために、踊り手にしろミュージシャンにしろ、それまで学び経験してきた技術を緻密に、入念に検証しなくてはならない時がある。それが技術者というものだ。しかし、驕りや焦りがあると検証作業は曖昧で歪んだものとなる。
また、彼女にはアーティストとして創造的に生きるには決定的に欠落していることがあった。それは作品創造のための純粋な「動機」が無いということだった。事に当たりモチベーションを高めることは出来るが、涌きいずる「動機」の源泉を持つ人は稀だ。
(「それをしなければ死んだ方がよい、と想う人しか詩作すべきでない」と言ったのは詩人のリルケであるが、創作の「動機」が尽きないという人は、本人にとっては辛いことなのかもしれない)
「闇の舞姫たる私が踊りさえすれば・・・昔のように奇跡は起る」と、芦川は単純(時代もシチュエーションも全く違うのに)に思う。
頼りにはなるが五月蝿い監視役の男(土方)はもういないし、過去の栄光を元手にすれば何とか一生喰い繋げる。幸い回りの人達はチヤホヤしてくれるし、「これから青春を取り戻すんだ」。
しかし、彼女は土方時代の振付けを組み合わせただけのオムニバス以上の作品は作れない。
土方がいないことによる開放感と言い様の無い不安は、芦川を時に戦闘的に振舞わせる。
そんな彼女の踊りは、「女性という生理」でパターン化して単調となり、とても観客に対して長丁場を保ちこたえることは出来なかった。
これは土方作品内の芦川についても言えたことだが、彼女を使うには舞台では特殊な演出が必要となる。土方独特の舞台演出法は主演で踊る芦川の特性=限界からの苦肉の策として生み出されたものであったともいえる。
ところが親の心子知らずで、踊り手本人は舞台での土方演出の役割に気付いていない。作品が成立するのは自分の「実力」故と信じて疑わない。そんなことだから、舞台で一緒に踊る団員達のことなど目もくれない、という傲岸な姿勢を養ってしまうことになった。
そこには舞台を創る上で必要条件となる「仲間や、その中で生きる舞台環境を信じる」という謙虚さは微塵も感じられない。
「主役は私一人でいい」という想いがあれば、同僚もライバルに転じて、辞めていく人も出てくる。
(尤も、土方時代の弟子仲間に比すれば芦川の踊り手としての能力、役割は別格であったということだけは、はっきりと言っておく。土方縁故と謂えども私共以外の舞踏家達が「振付け、演出」に関して述べることは不可能であるし、土方舞踏を迷妄させることにしかならない。)
しかし、芦川のような傲岸な弟子を造ってしまったということは、これもまた土方に責務がある。
晩年の土方は「第二の芦川」を造るべく躍起になっていたようだが、育ち切る前に辞めていってしまう。
土方に見込まれた弟子は、当然稽古もきつくなる。フォローするのは先輩である芦川の役目である筈だが、彼女にはライバルにならんとしている弟子を諭し導こうという発想はない。
土方のところで踊り手が育たない理由は、まず彼の弟子募集の方法が「公演出演」という餌で釣ることに因っていたことにある。
アートによる自己表現をしてみたいが、一人では大変そうだし自信もない。だったら「寄らば大樹の陰」、公演制作システムを持つ団体に席を置くのが最も早道。こう考える人間は公演が終わると直ぐに辞めていく。
土方が亡くなると聞くと、その第一声が「これでセゾン(劇場での公演)が無くなった」と呟く弟子もいたというが、花の東京での劇場出演が土方舞踏に関わる理由であったのかもしれない。亡くなった土方を悼む前に我が身の振り方を想う弟子に対して芦川も怒ったが、それも土方の団体運営システムからの必然といえた。
また、スタッフも育たない。例えば土方晩年の音響担当者は踊りの「振付け」を知らされていない。そのために音響の操作は舞台の動きに対して遅れてしまう。これは音響家の責任ではない。作舞の方法を「門外不出=トップシークレット」にしようとする土方のストラテジーに問題がある。
舞台照明に対しての土方の対応は問題外と言っていい。
照明のシステムは、照明機材の吊り込み(設置)、調光器の容量、仕様法など劇場によって全て違う。
土方自身が「お手の物」とした稽古場公演での簡易照明システムの方法など、照明という作業の段取り自体が全く異なる他の劇場では、根底から通用しない。ところがそれに、土方は気付いていない。挙げ句に雇った照明家と諍いが起る。
公演本番中に「あーせい、こーせい」と好き勝手な指示を出す土方に対応しかねた照明家は、彼が入って来れぬように調光室に鍵を掛ける始末。それでも土方から雇われた照明家は出来る範囲でやるべきことはやっていた。
土方最後のシリーズ作品(池袋西武スタジオ200「東北歌舞伎」)ではソロで踊る芦川を、なんとスポットライトで追った。
確かにライトから踊り手が外れることはない。しかし、これでは七十年代に行なわれ、それによって舞踏の新境地を開いた土方の「稽古場公演」での舞踏空間のダイナミズムは醸し出せる筈もない。それもこれも土方の、身から出た錆であった。
舞台システムという視座から晩年の土方の活動を見ると、彼は「時代錯誤の浦島太郎」であったといえる。
折しも日本経済はバブル期を迎えようとしていた。金に物を言わせ最新設備を導入する劇場が林立していた時期である。音楽業界では「レコードからCDへ」、「アナログからデジタルへ」システムが移行していた時期であり、劇場にもコンピューターが導入され始めていた。
自分を煽り、その場で、「ノレば何とか成る」という舞台公演の時代はとっくに終わっていた。芦川も土方と同様であった。ましてや彼女は真っ当な作品など創ったことも無かったし、演出の意味も知らない。
「糸宇夢」において、私はスタッフにも踊り手にも一切妥協しなかった。
踊り手、照明、音響、美術
初演での「糸宇夢」の美術は、戸板(雨戸)の表面をバーナーで焦がし、金たわしで荒削りし水洗いした後、仕上げにつや出しのためにカメの子たわしで磨いたものを使用した。
戸板に浮かぶ年輪は黒光りし他の部分は柔らかい質感を持つ、これにぶつかる照明光は一度板に飲み込まれ、粒子状に発光する。
この美術の発想は、私が父の経営する鋳物工場の社員旅行のお土産で買って貰ったある民具からの印象だった。それは幼い頃から、喘息の発作中の私の視界に同居し続けたテクスチャーだった。
土方も舞台美術として戸板を使ったこともあったそうだが、私のような意匠は施してはいない。日本文化を象徴する「日本家屋=舞踏」、彼の場合はコンセプトが先行していたようだ。
土方が舞台で使用していた音楽は西洋の超メジャー曲が多かった。
例えば、日本でもウイスキーのコマーシャルに使われたトランペッターのハーフ・アルバートの「ビヨンド」(G線上の奥方)、パーシーフェイス・オーケストラの「サマー・ドリーム」(ひとがた)などが、彼の作品のテーマを彩るように無造作に使われる。
幸か不幸か?七十年代の舞踏を取り巻く人間はポップ・ミュージックには無関心であったようだ。
これが後に、土方舞踏を世界に導く際の一つのネックとなる。
「何故、日本のオリジナル・アートである舞踏がウエスタン・ミュージックで踊られるのか?」西洋人には合点がいかない。
土方は踊りが人類史上「夫唱婦随」してきた「踊りの音楽」を育てる機会を、その取り巻きの無知も手伝い逸してしまった。
舞台音楽へのこだわりをプレゼンテーションするマース・カニングハムやフォーサイス(劇場にスピーカーを特設する。詳しくは「ジャズ批評」誌83号に私が上梓した「音場と身体」を参照されたし)を引き合いに出すまでもなく、世界で活躍する舞踊団の多くは専属の音楽家と活動を伴にする等、音へのこだわりに対しては厳密である。
レコード・CD・ショップで市販されている音楽に安易に取り縋った土方の舞台創作法は、これにより音に対する最も大事なことを欠落させた。
それは「音場」という概念である。
音楽はソース(原音)の録音方法と「ミキシング」という編集作業により多様な「音場」を創りだせる。例えば、「大太鼓は少し右に寄ったところから奥深い感じで余韻が広がるように」とか「キーボードの主旋律はセンターから右に、アタック音は強めに」とか、時には「足元からじわっと寒さが伝わるような・・・いやっ、氷の上に裸足でいるんじゃないんだから」「恋人に振られて一人乗る、夜の電車の窓に写る涙みたいな」とか、ワインのテイスティング(私共の女性団員はワインを愛飲し味にもこだわるが、プロはテイストのために生き物である葡萄の原産地の土を食べる人もいるという)と同じような曖昧で豊穣な感覚言語を用いて「音場」が決められていく。この作業は通常、ミキサー(編集器材)、沢山のエフェクター(音の周波数変換機)の操作で行なう。
市販されているレコード、CDはリスナーの音楽の再生環境(コンポ、iPod等)や嗜好を考慮して作られている。その意味では完成されている音楽といえる。しかし舞台では、踊り手という生き物も含め非常に多様な要素が絡み合う現場での、市販品の音楽の使用は手軽ではあるが、創作内容を制限する場合がある。
例えば、私はギター演奏を舞踏の舞台のために録音する場合、プレート系のリバーブ(鉄板を通した時の音の波形変化をシミュレートしたエフェクター)をかなり強めに掛ける。専門的になるが、私はリバーブだけで十社ほどの器材を有するが、日本製の場合はヤマハとは正反対の特性(音のざくざく感・モザイク感)を持つローランドが合っているように思う。ソニーだと少し粒子が細か過ぎるために音は霧状になってしまう。
一般リスナーには「ノイズが絡んでいるのでは?」と、間違えられる程強めにエフェクトすると、舞台の中で音は粒子状に浮遊し無数の断片が輝いて見えてくる。
すると、舞台美術の反射によりエフェクトされた照明の粒子状の光りと、音は新たな関わり方で舞台空間で混じり合う。
「嵐山(らんざん)の 闇に対する 蛍かな」
「客観写生」を標榜した大俳人・高浜虚子の俳句であるが、夜の闇の中に頼り無くもしたたかに浮かぶ蛍の灯火(ともしび)は、実存の宿命的な景色を表しているのだろうか?
淡くも神々しい蛍の光りの、その質感・・・。
日本文化には「抜け」と云われる美がある。主題を隠し仄めかす俳句の世界の技法であるが、その表現は踊り手の体には欠かせないテクスチャーでもある。「なま肉」のような体、「性に浸る」体は自己完結的で、無限に流動的成らんとする舞踏舞台の空間には馴染まない。
八十年代半ばにアートの新分野(美術としての空間に人が体をもって関わる)として、今日とは違う意味で使われていた「パフォーマンス」の定義を、舞踊批評家の市川雅氏は「動く彫刻」と、あるインタビューで応えられていたが、言い得て妙であると思った。
動くパフォーマーは己の居る美術空間内の位相を留意し意味を提示してゆく。その行為は多分にコンセプチュアル・アートの相貌を備えていた。だが、舞踏の体にとってコンセプトはニ義的なものである。何故なら、生き物の体はオブジェであることを断固拒否する。パフォーマンス出身者には舞踏は不向きであることの所以である。
舞踏の体は、粒子状にバラけ収束、拡散し続ける。そして、音や光りの粒子達と混淆する。ここに、他の舞台アートにはない舞踏の醍醐味がある。
この体の在り方を「舞踏体」と云う。この「舞踏体」は変化し続ける環境と順応し、まことに詩的な体を表し、千変万化するからこそ写真のフレームには安易には収まり切らない。
写真写りの良い舞踏家には用心した方が良い。土方などは舞踏のプレゼンタ?として、カメラに対するポーズ取りの名人と云わなくてはなるまい。しかし、体の前を意識すれば後ろ(背中側)はがら空きとなる。土方だとて例外ではなかった。
八十年代には、世界の舞台芸術のモードに乗り、海外公演などはビデオ審査だけで通っていた舞踏の公演も、
「実際に(彼らの公演を)観るとビデオと全く違う」と期待を外され続けた海外のプロデューサーは、やっと舞踏を自分の目で見極め始める。
プロモーション・ビデオのフレーム内でエキセントリックな意匠を凝らした舞踏は、現場の舞台では力無いものとして終わるものが多かったのだ。「柳の下のどじょう」の時期は十年も前に終わり、実質が求められた。
私共が海外公演を始めたのは、そんな時期であった。
私共はこれまで随分と海外公演を行なってきたが、恐らく日本では海外からの公演依頼を一番断って来たカンパニーの一つではないだろうか。実演(や)るべき」となったら、頼まれもしないのに「押し掛け公演」は行なうが・・・。
しかし、これまで私は自分の意志に反する活動は一切していない。
ところで、土方舞踏を特徴付ける「舞踏体」。私はこれを他のジャンルの身体技術とは明らかに差別化される「舞踏技術」の真髄と捉えている。
私は、その「舞踏体」を踊り手達に習得させることに心血を注いでいる訳だ。
しかし、感覚優先の「体の技術」を伝えることは大変困難である。これは何も舞踏に限らず他の身体表現やスポーツについても言えることだと思う。
昨今、多くのアーティスト達は他ジャンルとの交流を求めているが、「モダン」を標榜する身体表現者達はその方法にあぐんでいるようだ。
私共も今までに堅牢な形を旨とする伝統芸能の人達とのコラボレーションも行なってきたが、その多くの企画は伝統芸能のアーティストからのアプローチによるものでもあった。
現場にいる私は、「前衛」と「伝統」、どちらが「モダン」を志向しているのか分からなくなるような感覚に見舞われることがある。今日の「多様な価値観の時代」を表象しているようだ。
舞踏の必須の技術「舞踏体」の習得は、「体をもって」表現とするアーティストにとっては他ジャンルとのコラボレーションなど表現領域を広げるためには大変有用であり、またアート表現の深みを切り開く手立てともなる。
それでは、「舞踏体」とは何だろう?
先程、「粒子状の体」という感覚的な言葉を使ったが、そこに至るための踊り手の舞台上での心構えを一つだけ挙げるならば、ここでは「引きの表現」とだけ言っておく。
「踊り手の体が持つテーマ」を「隠し仄めかし、変容させる」ための「構え」。
土方は演出中、弟子達に「引けば広がる」と言っていたが、彼は生来「押し出す」のが好きだったようだ。彼は酔客相手にキャバレー、クラブでショーダンスを踊ってもいた。スポット・ライトの中のエンターテナー的資質は備えていたのだろう。その表現は、とかく派手だった。しかし日本の美の特質は何時でも「抜けた奴」だった。「淡さ」と言い換えても良い。
舞踏のイメージを特徴付けるダイレクトな「挑発性」は、観客が慣れてくればそのインパクトは早々に減衰する。土方舞踏の限界が露(あらわ)になる危機を、実は彼自身が一番感じていた。
舞踏の在るべき体を「風通しが良い体」と魅惑的な言葉で表現する土方。稽古場で垣間見せる彼の体からは、「風の又三郎」の体を吹き抜ける一陣の風の片鱗を味わう気がした。しかしイコンとして崇め奉られた写真の中の土方の体、その背中は重いズタ袋を背負っているように私には見える。
晩年の土方は「舞踏の振付けは俳句ですよ」とも語っていた。しかし彼は持ち前の習性から、「引き」切れない。「塩を運ぶロバ」は誰しもの折々の人生に当て嵌まる教訓である。
尤も、この教訓は私にこそ真っ先に当て嵌まるのかもしれない。最近では、自分の拙さに辟易し、いっそ「修羅」から「デクノボー」に徹しようかとも想っているのだが、そうは問屋が許さない。「とかくに人の世は難しい」と身に沁みる日々を送る他ない。こんな曖昧な主宰者と生きる弟子達こそ、大変だ。
私は弟子達に「引きの表現」の説明をする時、弓矢の比喩を出す。
「遠くに矢を飛ばしたければ弓に張ってある弦を思いっきり引くこと」、と。
体のメッセージを客席に届かせるには、まず、無私になって「引いた表現」をすること。具体的に言えば美術や音像や光り、共演者達との関係を濃密にし、その重要性を知ることである。
「引けば」舞台内に、普段の生活では、人間の内奥にひっそりと隠れている物語が知らぬ間に紡がれ出す。
その物語は、灯火のようにいたいけなく、言語化出来ないからこそただ茫漠としているが、人間という生き物が持つ確かな「実感」に共鳴するような次元に芽生える。それは、創作メソッドやコンセプトという枠から滴のように零り落ちる儚い事象のようにも思える。最早、作品の構成や梗概は風景や環境の一部として観客や出演者やスタッフその場にいる皆の中に溶け込んでしまう。
これが私が目指す舞踏の「境地」である。
二十世紀の偉人として必ず挙げられる人物にインドのガンジーとアメリカのキング牧師がいる。「無抵抗主義」を掲げた彼らの「引き」の生き方は時代や地域を超えた我々現代人にも感銘をもたらしている。まさに「引けば広がる」の言葉通りである。
「仏」とは何も世界の四大聖人に挙げられる「釈尊」を意味しない、と宗教に対して不信心な私は不遜にも思っている。
人間の命の状態を十に区分けした「十界論(六道四聖)」という仏教理論では、「仏界」という全ての人を受け入れようとする人の気持ちの象徴として「釈尊」という実在の人物を挙げている。
「四月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ」は、あまりにも有名な宮沢賢二の詩「春と修羅」の一節だが、「修羅」とは争う心の状態を示す十界の一つである。だからといって、「仏界」が尊くて「修羅界」は卑しいというものではない。どちらも人間という生き物が生きていく上では欠かせない要素である。問題となるのはそのバランス。この十に分けた心の状態の相関関係、その特徴を個人レベルで語るなら「性格」と云うことになるし、国家レベルで捉えると「国民性」といえる。
ただ、「十界」の中で「仏界」が果たす役割は、それぞれの人という生き物に備わる単なる一つの資質では終わらない。「仏界」は他の九界を含めた人間の心の全貌を現す「十界」全てのハーモニーを受け持つ、オーケストラなら 総指揮者の立場にある。
「地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界」という、人間の心の特質の日々今に始まる「創造(=生)」のコンダクターである。
心という荒くれ共を、時には生活のために走らせ、時には安らぎのために寝かせ、時には一緒に泣き、人生を潤させる最上の演出家が、人類にいるとしたら、「仏」もその一人だろうと、アジアの仏教国の人々はそれぞれの風俗の中で想い味わっているのかもしれない。
「仏」は、愚鈍な私には遥かに遠い人物であるが、舞台の一演出家としては見逃せない存在である。
単に形をお仕着せたのでは踊り手の中のあまりにも多様な心のハーモニーは豊潤さを失い単調なものに成る。そして踊りはパターン化してしまい、躍動感は失われる。
「仏の踊り」は「引き」、それも「怒濤の引き」が必要となる。
「ゴリ押し」してどうこうなるというものではない。「一発何かやってやろう」的なパフォーマンスで耳目を集めることに「味をしめた」踊り手達や、打算から目先の政治に奔走する人々には、舞踏はとても小さなものとして収斂する他ない。
利賀フェスティバルに於ける「糸宇夢」は「新劇」誌のダンス評で、
「舞踏手たちは、驚くべき熟達をとげていた」と評され、絶賛もされた。
本番では自身が創った音楽の音響操作をしていた私は、舞台を見ながら不覚にも観客と一緒に涙を流してしまっていた。
公演が終わると、何故だか急に気恥ずかしくなった私は、劇場をあとにする観客に紛れ込み、夜の闇にすっとんで逃げた。
(私だけは仏じゃない・・・)
そんなことは初めから分かっていたはずなのだ。
山間に囲まれた利賀村の川辺リで、一人ふかす煙草の明かりを同胞とでも勘違いしたのか、沢山の蛍が寄って来た。
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