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日本の現代美術を代表する作家の一人に小林健二さんがいます。私共は今までに二度、コラボレーションさせて頂く機会を持ちました。
コラボレーションは、共演者同士の開放的精神を得て初めて、「互いに共有する個」とでも云えばいいのか、接点というより略奪、浸潤し合ってしまった領域に、見慣れた自分とはまた違った自分を発見できたりするわけです。そこが、醍醐味です。
それで、私は今までジャンルを問わず沢山の人たちとコラボレーションしてきたわけです。
端から見ても窮屈なほど堅牢に自己を死守する人とかは、どうも相性が合いません。そうかと云って、偶々、上手い具合に事が運んだからといって、その関係が一生を保証するなどという幻想を持つわけにもいきません。両者の関係を絶えず活性化するためにも、慣れ合いは禁物です。
私の経験上ですが、舞踏の舞台と舞台美術のコラボレーションほど、困難な関係はそうそうありません。と言いますのは、一度設置した舞台美術は、公演中、その存在を主張し続けます。踊りの舞台作品の抑揚が美術の主張に措定されるリスクを背負うことにも成りかねません。結局、美術も作品の責任を持つ演出=振り付け家が自分でやらなくてはいけないはめになります。
土方も随分と苦労したと聞きます。最後は誰にも頼れない。
私も、身内から舞台美術家が育って欲しいとの願いを持った時期もありましたが、やはり駄目、絶望的でした。舞台美術は踊りを知悉している人間でなくては出来ません。(長い目で見れば誰でも必ず出来る、というのが私の舞踏のモットーです。私共のカンパニーのメンバーは私を含めて皆不器用です。それでも、こつこつやっていれば本人の気が付かない間にも自分らしさが芽生えてきます。「才能だけは教えられない」と嘆いた土方の言葉を安直に受け入れるのを拒んできた私です。
ところが世の中、世渡り術だけで人生を処そうとする輩もけっこう多い。そうした人に過度の期待をすると、逆に恨まれたりもします。私としてはいい人生勉強にもなりもしましたが・・・結果的に舞踏ゴロ(踊り手でもなく、舞踏アートの根幹に隣接する術も識らず、舞踏の時空間・身体メソッドの開示の困難に乗じ、政治的野心から舞踏界を立ち廻る輩)と云われる人間を産み出す契機を作ってしまう要因になったことは、大変遺憾に思っています。
美術も、自分でやり切らなくてはならない・・・そんな、思い込みを裏切ってくれる人が、いた。世間はやはり、広い。
美術家の小林健二さんは、人間の内奥への旅を遡行しながらも常に可能性に対して心を開放し続けるアーティストの一人でした。小林さんとのコラボレーションとの仔細は、舞踏アートの一つの可能性を開示した公演として、資料も含めて何れ発表することにもなるとおもいますが、ここでは置きます。
'60年代、アンダーグラウンド・アートの旗手として活躍した土方の公演は、'73年、渋谷西武劇場「静かな家(詩人・吉岡実氏の同名の詩のオマージュ)」、'84年ヨーロッパ・ツアーの失敗と、いわゆるアカデミックな劇場のシステムに適応しきれない公演形態を保持していました。土方舞踏は小劇場、ライブ・ハウス、クラブ(大人向け・子供向け共)・イベント等、舞台と客席が混淆する空間を前提として成立してきたアートと云えます。これは一概に会場のキャパシティーで判別すべき問題ではありません。劇場が負っている時代性、地域性、運営理念にも大きく関わりますが、象徴的に語るとするならば、舞台と客席の間を、明確に区切る「プロセニアム・アーチ」の有無の如何に関わります。
所謂、西洋でいう額縁舞台が、能を代表とする「奥行き」美を重視する日本文化に浸透してきたのは何時の頃だろう。「張りぼて」美術を旨とする歌舞伎の舞台からだろうか。
ここで、日本芸能史をさらうつもりはない。
最も私たちが、生活の中で親しんできた「プロセニアム・アーチ」とは、通っていた小・中学校の講堂(体育館)の、入進学式に校長先生が演壇の前で挨拶する、高さ90センチメートルの舞台床をアーチ型に囲む、上に紋章がプリントされた、えんじ色でベルベット生地製の、それであろう。
役割を制度化させる構造である。
土方舞踏の舞台システムを基本とする私共に、この「プロセニアム・アーチ」の問題が最初に突きつけられたのは'92年のニューヨーク「ジャパン・ソサエティー」公演の時だった。勿論それまでにも舞踏公演と劇場空間の関係性は嫌と云う程味あわせれてきた。例えば、'90年「松本演劇フェスティバル」(同演劇祭で打たれた全ての公演で最高と云わしめた)で、後に世界の舞台に幾度も曝すことになる、私共の代表作品の一つ「蓮遙(れんよう)」の初演公演は松本市の公民館ホールで行われたわけだが、本番前日、会場に入ると舞台は上に市章がプリントされたえんじ色のベルベット生地に縁取られたアーチ・・・。
私は即、有りものの舞台を自前の美術幕を垂らして閉じる。そして、その前面に迫り出すように新たな舞台を設えた。当時の私たちにとって「プロセニアム・アーチ」の有無は公演の命運を分ける一大事であった。
この、演出家の直感による急遽の舞台変換(作業は徹夜で行われた)は、殆ど地元市民のボランティアにより運営されていたフェスティバル・スタッフの寛大な熱意により可能となった。
さて、「ジャパン・ソサエティー」という劇場は日米文化交流のニューヨーク・サイトの発信機関という役割を担うような機能を果たしていた。私共の出演と相前後して、狂言の野村万作さんや、人形舞のホリヒロシさんなど古典からコンテンポラリーまで現代日本の舞台アートを広く紹介していた。最近では若手の津軽三味線の演奏も行われている。
キャパシティーは三百人弱。きちっと舞台と客席がそれぞれ括られた、奇麗な会場であった。私がこの会場を観たのは、結果的にこの劇場に出演するためのオーディションとなった二年前、'90年の私共数人のメンバーによるニューヨーク「セント・マークス教会」公演を行った時であった。
「セント・マークス教会(に出演するの)だって、大変なところなんだよ」と、舞踊批評家の故・市川雅さんが言っておられたが、私共がニューヨーク到着後、遊びたくて仕方のない一人の団員の「たかがデモンストレーションですから」との言葉に、危うく煽動されたい気持ちを押さえて、東京から私たちを送り出してきた残りの団員の心を全て引き受けるつもりで、当日はたまたま日本人がリーダーのモダン・ダンスのデモンストレーションとやらを観に行った。
石造りの教会は、扉を入ると、ずっと奥の壁に十字架が掛けてある。祭壇に対する広いスペースには何もない。ここが踊りの舞台だ。結婚式での司祭を前にするバージン・ロードを挟んだ参列者が畏まって座る何列もの横椅子を全部取っ払った空間と思ってもらえばいい。高さといい広さといい丁度学校の体育館程か。二階は三方がバルコニーで囲われ、その真下が客席となる。キャパシティーは百五十人程。誰でも受け入れる気楽さの中に、安直な美術など陳腐化する教会特有の荘厳さも残している。
そして、東京を出て来る時に軽く考えていた「デモンストレーション」という軽い響き は、日本人がリーダーで踊る十人程のアメリカン・パフォーマンスを観た瞬間、一瞬でブチ飛んだ。それは紛れもなく正規の公演である。しかもレベルが、高い。今まで日本で観てきたコンテンポラリー・モダン・ダンス公演とは、次元が明らかに、違う。当たり前のことだが、モダン・ダンスの本場としてのアメリカを改めて感じさせられた。
それを見た一瞬から、何時ものように私は「鬼」になっていた。
私が一度、創作モードにシフト・チェンジすれば、日本も世界も、宇宙も奈落もない。
「もう誰も・・・止められない」
・・・幸いなことに、私共の公演は大成功(ビレッジ・ヴォイス紙でも絶賛)した。ただ、ニューヨークのスタッフから「一度でいいから、友恵の笑顔が見たかった」と、私に直接ではないけれど、ぼやかれた時には、私は思わず自分の両の手の人さし指を口の端に突っ込み、 唇を横に引っ張った。私の歯形は中国の山のように鋭角である。笑顔も歯磨きのコマーシャルのようにはいかない・・・。
この渡米で、ニューヨーク、ボストン、ポートランド等幾つかのアメリカの大学で、公演とワークショップを経験した。学校内のロック演奏などを演るパーティー・ルームやキャパシティー二百人程のミニ・オペラハウスなど、劇場システムはまちまちであった。何れも「デモンストレーション」という安直さを誘起する名目だったが、全力の正規公演を要請された。
現場に合わせた構成、演出=振り付けはもとより、照明、音響操作は全て私一人に課せられた仕事である。
私はシフト・チェンジし続けた。どれ程現場のスタッフは恐怖に戦いていたことだろう。 思い出す度、私もゾッとする。だが、私は嬉しくてたまらないという感情も隠すことは出来なかった。
(何しろ・・・音響、照明機材を自由に触れるのだから)。
普通、公演でプロのスタッフを頼んだ場合、例え主宰者、演出家といえども、機材には触れない。彼等職人のプライドがそれを許してくれない。そのために、いかに段取りを円滑にするかが決めてとなる現場会場では、スタッフとの手続きがネックになる時がある。
例えば、こうだ。同じままの照明パターンではシーンが持たない。そこで、演出家が、
「ストップ」
「どうします?」照明家が答える。
「今の、明かりを全部消して、サイドとバックから踊り手を追って下さい」お願いする。
「はい・・・はい」
演出家は、時計を睨み付けながら待つ。じりじりとした時間が、経過する。
「お待たせしました」照明家が指定した明かりに切り替える。
しかし・・・思い道りの、明かりではない。
「バックといっても、真後ろのじゃなくて、斜めの(天井バトンに吊り込んだ)やつを・・・」
「えーっ?はい・はい・」
また、待つ。
「これで、どうですー」
(それじゃ、なくて)演出家が、首を傾げると、
「でしょー。良くないよねー」
例えば、一時間半の公演で一分に一回照明の変換が行われるとしたら、いったい何回こうした手順をふまなくては、ならないのだろう
機材操作のタイミングや速度の問題もある。しーんとした会場の中で一言喋るのにも多大なプレッシャーが演出家には掛かる。劇場照明にコンピューターが導入され、劇場環境も大きくシステム変換する時期(バブル経済期)でもあり、また私も自分なりのメソッドを確立して久しいが、当初は、それこそスタッフとの間で熾烈な供宴を演じていた。今でも患い続ける胃潰瘍で初めて入院したのもこの頃である。(あの機材ー照明の調光器に、触りたい)最早、恋愛感情すら抱いていた。
'73年「プロセニアム・アーチ」付きの渋谷西武劇場公演での失敗の後、土方は自ら主宰する舞台に立つことはなくなり'74年からの自宅稽古場「白桃房」公演(私共のカンパニー名は、それに由来)から演出=振り付けに終始することになる。そして、それまで実験色の濃かった土方舞踏の本格的なメソッド化は、ここから始められる。
それまで「三人娘」と評され土方舞踏を支えた三人の踊り手の内二人が、この公演と前後してやめていった。そして土方舞踏はその後、唯一「白逃房」公演の主役を担い切った「芦川と共に」展開していくことになる。
土方舞踏メソッドの特色は振り付けが産み出された芦川の体=心のポテンシャルと、公演、稽古が行われた住まい兼稽古場、八畳程の貸しスタジオの特性に、良いも悪いも措定されたものに成らざるを得ない。これは作舞者と踊り手に意識的、無意識的に影響してくる。
例えば、座敷芸である端唄、小唄の舞は、背景となる一間(180センチメートル)高の襖、屏風の美術空間に、踊りそれ自体は密接に関わってくるし、タッパ(高さ)が十数メートルの西洋オペラ・ハウスで培われたクラッシック・ダンスとは踊りの質が根底から違ってくる。座敷舞の一間半にも満たないお座敷スペースで、まさかジャンプなどというスキルは発想だにしないであろう。
土方の「白桃房」公演の舞台は図面が残っていないので、ビデオ映像から推し量る他なく、踊り手の身体感覚も混えたあくまで推量値であるが、幅三間半(6,3メートル)、奥行き二間(3,6メートル)、舞台高20センチメートル、奥舞台が雛壇のように40センチメートル上げてあり、その上に美術の意匠を凝らした一間の高さ(1,8メートル)のパネルを設置してある。私共が経験してきた舞台と比べて、その舞台は極端に狭い。其処に二十人近い踊り手が出演する。靴を入れるビニール袋を渡された観客キャパシティーは「ぎゅうぎゅう詰めて百人がところ、五十人から七十人で満杯」とは芦川の言。
舞台と客席が一体感を満喫出来る、仮ではあるが小劇場志向の公演としてはベストの劇場空間と云うことも出来る。
ここで「白桃房」シリーズ公演終盤を飾る芦川主演の「ひとがた」、「鯨線上の奥方」という日本の舞台史上でもトピックすべき独創的な公演が産まれた。
私の舞踏のスタンスもここに原点を置くわけだが、それは、それ以前の土方舞踏の作舞をそのスコアーから検証すると、明らかにレベル・次元を異にするものであるし、土方舞踏メソッドを確立していく上で根幹をなす重要なイベントであったことは間違いない。
ただ、当時の公演の感動、インパクトを伝え切るには、舞台環境が変わり続けるそれ以後(特にバブル経済期以降に増えた高額機材・システムを備えた)の劇場での適応には、はなはだ脆弱なシステムしか持ち合わせていなかったと言わざるを得ない。
これは、あくまでイベントの必然性を支えた'70年代半ばという時代性を抜きにして、土方舞踏を構造的に捉えようとする視座からの見識である。
前述のように「白桃房」シリーズ公演が行われた稽古場は、狭い。
音響設備も家庭用のシステムで足りる。高価な業務用調光器(舞台照明を統括的に扱う照明機材)などない。家庭用のブレーカーから直接引く数基の変圧器で賄っていた。このことは後に詳述するが、ようするに舞台機材は簡易であり、逆に(素人でも)扱い安いという利便性を持つことで舞台の大きな要素になっていく。ここに他ではお目にかかれない土方舞踏の舞台アートの特色である「空間が呼吸するような照明」、「舞台の時系列を破壊するような音響」が出現する動因である。
では何故、このように独創的な照明、音響効果メソッドを創るにいたったのか?
照明、音響機材の操作性の簡易さからでは、ない。
これは私見であるが、舞台の統括者=責任者は常にコスト(人的、時間的、金銭的、環境的)を考え、しかも創造性を追求し続ける人にとって、余裕などあろうはずがない。
では、何故か?その答えは簡単だ。
(必要であったから)だ。
土方舞踏の舞台では、単なる意匠を超える特別な照明、音響メソッドが不可欠であった。それは舞台(客席をも巻き込む)という時空間をダイナミックに揺さぶり、作品が生死(しょうじ)の世界、暗黒と名付けられた世界を自在に蠢き、彷徨する一匹の「生き物」へと生成させるための偉大なる舞台メソッドと云える。
何故、このような舞台メソッドが必要であったのか?・・・演出=振り付け家である私の視座からならば、当然分かって然るべきである。また、舞踏舞台の創作のあらゆる現場(踊り、照明、音響、美術、衣装等など・・・)に深く立ち合い続けた人間なら、それこそ体で分かることである。だが、これを創作現場を識らない人間に伝えるのは至難である。何故なら、観手には「図と地」=「踊り手の体と背景」という先入観を予めフォーマットしている人が多い。図は意識的に見、背景は無意識的に観る。勿論、観客は自由に楽しんで下さればいい。わざわざ踊りの公演で踊り手以外の空間に注意を集中し続ける人はいない。
創り手サイドも、そんな観客の視座を前提に創っている。しかし、専門家はそれでは失格と言わざるを得ない。これは、土方が舞踏メソッドを開示しなかったことにも由縁するが、前述したように舞踏メソッドの伝達は非常に難しい。また、土方自身が己の舞踏メソッド生成の場で、それをどれ程意識化出来ていたか?という問題も起こってくる。これも、先ほど記したように、統括者=責任者は余裕がない、という切実な事情と絡んでくる。
土方舞踏の場合、舞台上の「図と地」の関係は他の舞台表現とは明らかに違ってきます。
踊り手の体と背景(体以外の舞台上のあらゆる要素)との関係は、それがなければ舞台が成立しない程ダイナミックに交感する。
何故、このような特殊な舞台構造になったのか?
踊り手の体だけでは、舞台が、保たない(成立しない)。
土方舞踏の作舞の内容は、踊り手に舞台空間と関わらせる意識を持たせなかったという理由に起因する。
(踊り手は振り付け家の言うことを、聞いていればいい)「操り人形」と、一部の人間に評されていたのは、土方作品の舞台に立つ踊り手たちだった。
演劇と違って作品を貫く脚本=言葉が、舞踊作品にはない。ましてや「コラージュ」と云われ、各シーン間の脈絡も容易に捉えられない作品構成に成り立つ土方舞踏は、(踊り手に下手に自己解釈されては、却って舞台に支障が起きる)
また、特に主役である芦川に顕著であるが、土方の振り付けが細密になればなるほど、踊り手の体と舞台空間が分離してきてしまうというジレンマが生じてしまう。
踊り手が体に課せられた振り付けに集中するほど、関わるべき他の舞台要素に向かうべき意識が希薄になってこざるをえないと、言い換えることも出来る。「フルショット」写真で頭から爪先までキッカリ納まるフレーム・ワーク。舞台写真の場合、踊り手の全身がこのフレームに納まった場合、それが美として完成しているような被写体=踊り手の体のばあい、その体は舞台では通用していない。何故なら、フルショットのフレームからはみ出している膨大な舞台空間との関わりを被写体は放棄してしまっていることを意味するからだ。写真展や雑誌のグラビアならそれでこと足りる。だが、舞台での体は、フルショット・フレームに納まるようでは、とても脆弱なもの、と言う他ない。
そして、土方の作舞を象徴的に言うなら、踊り手である芦川の体は「フルショットの美」として、完成されたものであった。
いわゆる「写真写りが良い」被写体。
この振り付けメソッドは、狭い空間での振り付け家と踊り手の「あまりにも密接な作舞過程」の影響を多分に受け、土方自身でも半ば無意識裡に培われていってしまったものと思われる。
実際に、踊り手を舞台で踊らせてみる。
ところが、舞台が抱え込む時空間と踊り手の体の間にズレが生じてしまう。
その欠失を補うには、もはや、ライブ時(本番)に即興的に対応出来る照明、音響操作で賄う他ない・・・。
これが土方舞踏舞台で、独異な照明、音響メソッドが産まれるに至った経緯だ。
この舞台メソッドは前述してきたように、稽古場という狭い劇場、簡易な故に、操作性に富む照明、音響機材によって初めて可能となった。
さて、ここで重要な問題が生じる。生真面目な踊り手にこそ尚更云い得ることだが、振り付け家に課せられた踊りを、それこそたった今、動き=形として産まれ出たものとして蘇生させるために己の全霊を傾ける。と、いうことは踊り手には舞台を総合的に見る演出家の踊り以外の舞台メソッドを意識する余裕はない。また演出家は「踊り手の下手な自己解釈は邪魔」という立場を取る。両者の関係には「溝」が生じざるを得ない。
まるで踊り手に衣装を着せ変えているような・・・演出メソッド。
土方舞踏の踊り手が「操り人形」と評されたのも、実は、このようなメソッド上の問題からであった。
新たな舞踏アートのその生成時の現場の熱は、演出家、踊り手両者の関係が内包する亀裂を溶解し合うのには充分であったと、私は思う。
しかし、時間は、両者の恋愛という概念で括るには、あまりにも熾烈過ぎる関係(超恋愛とでも言っておこうか。其処には誰でも入ることが出来るが、制度化がお好きな人は、肉体関係の有無に関わらず永遠の距離を持たざるを得ない)により、奇跡的に成就するに至った舞台アートに、いったい何を語りかけるのか?
演出家=振り付け家は「自分の世界を一人の踊り手に措定されてたまるか」と、他の踊り手に脇目を振るう。
踊り手は「舞台は全て私が仕切っている」と、踊りのモチベーションを自己の内部に探ろうと躍起になる。
音楽、音響の話からも語ってみよう。
'78年パリ「間ー日本の時空間」展に舞踏として初めて出演した芦川はインタビュアーの「何故、日本の踊りにウエスタン・ミュージックを使うのか?」との質問に、返答の仕様がなく、たじろいでしまった経験を持つ。
土方の舞台では当時、ポップス・トランぺッター、ハープ・アルバートの「ビヨンド」(日本ではウイスキーのテレビ・コマーシャルで使用されていたことでも有名な曲)、パーシーフェイス・オーケストラ演奏のメジャー・ヒット曲「サマー・ドリーム」、ジャーマン・プログレッシブ・ロックのクラウス・シュルツ「タイム・ウィドー」などポップ・ミュージックを使用していた。
使用した舞台音楽について批判とも思える質問を浴びせられたからか、'84年のヨーロッパ・ツアーでは、効果音を多用し、ウエスタン・ミュージックは減らした。
舞台上の全ての要素がダイナミックに絡み合い、奇跡的な表現たり得た「白桃房」公演。それが舞台音楽の選択という思わぬコードを科せられたがために、土方舞踏はある強引さを持って、また別の方向に向かい始めることを余儀なくされる。
しかも、この時既に海外で脚光を浴びていた舞踏団「山海塾」との比較は免れなかった。
土方舞踏にとっては、慣れない四百から千人以下の中劇場での公演。美術は稽古場公演と同じく40センチメートル程の台座に一間高のパネル(天井が高い舞台の上部空間は手付かずのまま未処理)のみ。音響、照明のシステムはアバウト。芦川の舞台衣装の着替えの段取りのためかもう一人踊り手を出演させる(実をいうと、これは別項で記すが、舞台戦略上宜しくない)。二十人近く出演していた稽古場公演の作品性は薄れオムニバスの色合いが濃くなるという曖昧なプレゼンテーション。現場での演出担当(どうした訳か土方は現地には行っていない)は踊り手の芦川が兼ねる。(行けば、なんとかなる)・・・土方も芦川も、そう思っていた。同じように思うこの二人。実は、その根拠にはズレが生じている。二人それぞれの真意をここで推し量るのは、私にとって、それ程難しいことではない。例えば(後輩の山海塾は海外で予想だにしない成功を収めているというプレッシャーがなかったとは言い切れない。万が一失敗したならば沽券に関わる)、(舞踏の舞姫と呼ばれた、この私が、踊りさえすれば・・・)などなど・・・だが、ここではそれ以上語る必要はない。それより、彼等の舞踏公演は、「あまりに無謀だった」とだけは、はっきり言わなければならない。
運不運が絡んだ紙一重の失敗ではない。幾重もの原因から成功しなかった理由は導き出せる。しかし最も質が悪いことには、公演を楽しみに劇場に足を運んだ観客の気持ちを蔑ろにした、彼等の自分事に収斂せざるを得ない安いプライドによることだ。
土方も失敗は失敗で潔く処せればまだよかった。
しかし、彼にも世界シェアーに対する色気が芽生えていたことは否めないのではないか。東北の青年が'60年代に東京で注目を集めた。そして、歳を経た'80年代始め、また新たな夢が脳裏をよぎる。彼の創作の方法の一つをそれから導いた(シュールレアリズム・アート)発祥の地への遙かな憧憬・・・。
帰国後、公演の報告を聞いた土方は芦川を、
稽古場の階段から突き落とした」と、云うことだ。
'85年、土方舞踏最後の活動は二年後の銀座セゾン劇場柿落とし公演に向けて果敢であった。
稽古場公演二回、池袋西武デパート内「スタジオ200」四回。東北公演。そして講習会。
振り付け、美術は'70年代半ばの「白桃房」公演と同じだが、舞台での使用曲は排除し効果音だけのシーン。簡易な照明システムの稽古場と違い、本番中に「あーせい、こーせい」との指示で動ける筈もないプロの照明スタッフとの葛藤(土方が入ってこないように調光室の鍵を掛けられたとか)。終いには踊り手の動きを追うだけを目的とするスポット・ライトに頼らざるを得ない、というありさま。あまりにも、雑で強引な手法だ。昔の稽古場公演での、それ自体が土方の身体であった筈の照明メソッドは最早、新しい劇場では適応する術もないのか。
土方舞踏特有の舞台上に衝撃音を挿入する音響メソッド。これは舞台に流れる楽曲(聴覚)と視覚で捉えられた舞台から織り成される観客の認知、認識を、突如発せられる衝撃音で断絶し、舞台の流れの時系列を狂わすことにより、舞台をアクティベートするという効果がある。これも客席と舞台が一体化し易い小劇場ならではの手法で、中大劇場では、発した衝撃音の衝撃が広い客席空間により緩和されてしまい、白けの原因にもなりかねない。
公演が行われた「スタジオ200」は小劇場の部類に入るが、何せこの衝撃音は踊りの振り付けに合わせてこそ効果を発する。で、なければ舞台はめちゃくちゃになる。ところが土方は振り付けのスコアーを音響家に公開していない。ということは、音響家は踊りを見ながら音響操作を行わねばならず、従って、この衝撃音は遅れ遅れに挿入せざるを得なくなる。
事実、そんな始末、であった。
あらゆるメソッドは可能性と同時に限界をも内包している。
私は土方のメソッドに共感しつつも、そのメソッドが垣間見せる亀裂から、どうしても受け入れられないと感じることがある。それは、人間としての根本に関わる問題でもある。
一見、派生と思われることが、実は人生の核にしっかり根ざしている、というような事象に巡り逢うことは別に、珍しいことではない。
ニューヨークのセント・マークス教会劇場には、20回路の調光器が備えてあった。そこで私共が行う作品(舞台と機材に合わせて一日で創った)のための照明の吊り込み(舞台のどの場所にどういう種類の照明を何灯当てるか、そのための照明の設置)は劇場スタッフに既に指示してある。
私は横並びに20あるフェーダー(その回路に接続してある照明の光度を調整するための上下動する摘み)の一つに指を乗せ上に滑らす。指定された照明が反応良く舞台を照らす。この操作に憧れ続けていただけに、思わず時めいた・・・。
フェーダーを順番に上げては下げして、吊り込んだ全ての照明を点検した。途中一つ二つ愚図るフェーダー(反応が鈍い)のがあった。機械物というのは皆癖があるものだ。こうしたことも知って置くべきこと。
劇場には電気(アンペア)にキャパシティーがある。それは一般家庭も同じである。クーラー、電子レンジなど電気を喰う器具が当たり前の時代では、供給電流は40アンペア程だろうか。これを照明器具に換算すると、100ワットの電球ならば40個まで点けることが出来る。劇場照明器具は普通500ワットから2キロワットである。ですから例えば1キロワットのものなら4灯まで点けることが出来る。それを超すとブレーカーが上がるかヒューズが飛ぶ。
劇場ならそのキャパシティーは当然多いが無限ということはない。
ここで、セント・マークス教会劇場の20回路、40灯程の照明が接続されているフェーダーを全て同時に上げたとすれば、場内はたちまち停電となる。
そんな事態を招こうものなら劇場によっては二度と貸してくれない。
電力(ワット)=電圧(ボルト)×電流(アンペア)
照明家は計算式に当て嵌めて、照明ビジョンをプランニングしていく。
土方の稽古場では家庭用配電盤から直接、業務用調光器ではなく変圧器(市販されている)に接続していたわけだが、プロ仕様には耐えるまでもないアマチュア向けのシステムであった。
故に簡易であり利便性はあるともいえるが、他の劇場への応用性は効きにくい舞台メソッドを構築していかざるを得なかったともいえる。
演出=振り付け家が照明家でもあるということは、踊りを照明効果を考慮に入れながら創れることを意味する。
それは先に踊りを創って後付けで明かりを入れるという舞台創作の手順と結果を大幅に改変出来る。即ち、舞台創作の自由度が増すという利点を持つ。
セント・マークス教会劇場での二日間の公演は二部構成で行われた。一部は同劇場に登録されているジャズ系のミュージシャン(サックス、チェロ、二日目にピアノが加わる)とのコラボレーション。
何のコネもなく、初めての渡米であるから当たり前の話だが、ニューヨークでは私共のカンパニーは全く知られていなかった。数ヶ月前にメンバーの一人が仕事を決めてきた訳だが、どこの劇場へ行ってもけんもほろろ。劇場担当者は会ってもくれない。世界のモードとして注目を浴びている舞踏というジャンルでもあるし、その創始者・土方の直系のカンパニーである私共であるという自負もある。日本の劇場に売り込む感覚で行ってしまった。これが大きな誤算であった。マネージメントのシステムが違うのである。ニューヨーク、言わずと知れた舞台アートのメッカである。全米は勿論、世界からアーティストたちがこの街に集まる。私共は単なる田舎者の一人であるに過ぎなかったことを思い知らされる。
「山海塾」の舞台アート・シーンでの成功が切っ掛けとなり舞踏が広く世界に紹介されてから十年の月日が流れていた。「舞踏」と冠すれば訳の分からないパフォーマンスも簡単に受け入れた時期もあったと聞く・・・そして「舞踏」は信用を落としもしていた。
同劇場に最初に行った時も、はっきりと断られる。ブッキングが可能になったのは内のメンバーの執念といってよかった。その受け入れ条件が、劇場登録ミュージシャンとの共演であった。
セント・マークス教会劇場で共演ミュージシャンと会ったのは、本番当日。サックス、チェロ奏者共、三十才前後。極めて真摯な男女だった。私たちは握手を交わす。
それまで、彼等の音は聞いたことがない。相手とて同じく、私共の踊りは見たことが無い。
「ちょっと、やってみましょうか」
彼等が軽く出している音を、聞く。内のメンバーにも踊ってもらう。
ミュージシャンと踊り手の、距離を持った、探り合いだ。
チェロの女性は、神経質だ。音のエッジは、はっきりしている。楽器を持った姿勢に奇麗な線が一本流れている。演奏中の目元の引き具合に深過ぎないが細い揺らぎが感じられる。中産階級の家庭、部屋で真面目にクラシックの練習をして来た少女時代の映像が見える。顔は随分と奇麗だが、それはこの際、関係ない。
サックスの男性は、挨拶時も演奏時も、目の下の皮膚が透き通るように薄く光る瞬間がある。プロなので当たり前だが、眼球の視点は引いているが笑うように微動することがある。陶酔タイプでないことは間違いない。人の良さ、が、ある。茶目っ気も匂う。
とにかく、二人共生真面目だ。
内のメンバーはといえば、それぞれの踊りには癖も存分にあるが、初めから全力だ。難を言えば、引きが足りない。真面目過ぎて、駆け引きなど思いもよらない。プロ意識が足りないともいえる。ところが、そこが、共演相手から、好感を持たれもする。コラボレーションで、お互い嫌な事といえば、相手の猾さ、卑劣さに付き合わされることだ。
(まず、信頼し合うこと)。
手の内を見せることはないが、「一発何かやってやろう」的な発想を持つ奴に限って、厚みがない。
創造的なアーティストは触れ合っただけで、勝手にインスパイアーしてしまう生き物。
どんなに恐そうに見える人でも、恋愛待機状態の少女の心を持っている。
・・・数分後、私は、今、創ったばかりの「今日の公演の構成表」を出演者に観せ、 「まず、この踊り手と、チェロのデュオが五分、この明かり(照明)をゆっくりつけますから、いつでも(演奏に)入って下さい。シーンの変換は、明かりを30秒掛けてフェード・アウトしていきます。完全に明かりが消え切りまして、演奏の区切りが付きましたら、次のシーンの(この)明かりがフェード・インしていきます、そして(ここから、この)踊り手が・・・」というように。
段取りを交えて軽くリハーサルをしてもらう。この段取りは絶対に狂わせてはならない。段取り上の不備からくる躓きは、ミュージシャンに多大な精神的負担を強いる。また、ミュージシャンとのコラボレーションの場合、基本的には一シーン、一照明(パターン)。もし途中で変える時は事前に伝えておくこと。照明は場に対して大きな力を持つ。観客にとっては一見、踊り手とミュージシャンだけの共演と思えるが、両者の関係はお互いが依って立つ「場」をスタンスの一つとしている。であるから、「場」に影響を与える照明は勝手に変えてはならない。
コラボレーションはあくまでフェアーでなくてはならない。ところが、この程度の基本が分かっていない輩もけっこういる・・・。
「よろしくお願いします」
ミュージシャンが笑顔で控え室に去っていく。分かれ際にサックス奏者の目の下の皮膚の光が少しだるい波動を寄せた。
コラボレーション前のそれぞれの控え室は、試合前のボクサーのそれに似ている。
私は自分たちの控え室に直ぐさま踊り手を集めた。
「あのサックス(演奏家)ね、ソロ・ソロ(踊り手一人、ミュージシャン一人)の時(シーン)ね、必ずバラードを吹いて(演奏して)くるからね。そしたら、そのゆっくりのメロディーに合わせてゆっくり踊っちゃ駄目だよ。向こうは、この踊りが、何なのか?距離感を計るために、そうするのだから。別な対応をしろよ。で、なきゃ、踊り手は単に、猿回しの猿になっちまう。いいかい、相手はこちらの踊りの、深さが、知りたいから、強引にでも(場の必然に合わなくとも)バラードを吹いてくる」
こうなってくると、演出家はもはやセコンドだ。
相手サイドの控え室ではミュージシャンが気を紛らわすために、軽いジョークを少し交わしながらも、呼吸を整えテンションを高めている。見えなくとも私にははっきり分かる。そして、踊り手たちの(その当時はまだ塗っていた)白塗りの皮膚にも鳥肌が立ってくる。
サックス奏者の強引な行為は創作者としての純粋な好奇心ゆえなのだ。これは快く迎え入れなければならない、踊り手側の礼儀でもある。もっとも、まだ本番前だ。正解は明かされていない。しかし、どうした訳か、私には分かってしまう・・・私は鋭角の歯形を持つ「鬼」だった。
二階ベランダに設置された調光器の前に座り、客入れ明かりを消す。お客さんは七十人、キャパシティーの半分以下。何か、みじめ・・・。同劇場が、地元在住のミュージシャンとのセッションを斡旋した気持ちが分かった。もし、共演者がいなければ、観客動員は更に激減。それこそ、公演としての形が整わなかった、かも?
私は、息を殺しながら調光器のフェーダーを上げていく。実は演(や)りて側は観客の人数が少ない時程ストレートに緊張するものなのだ。隙間が開いた客席に座る観客の体の神経は、それこそ全方位に張り巡らされる。光の中に浮き出た出演者たちが、体で会場の状態を感じ取る。
(まず、受け入れること。それが全ての始まりだ)。
ミュージシャンの出す音がだだっ広い空間に張られた毛細血管を走る血液のように、場を染める。
踊り手は音を耳で聞いてはならない。体で聞くのだ。
踊り手は観客に体を見せてはならない。観客や共演者やスタッフや、その劇場が培ってきた色んな人の想いが混淆する空間を見せるのだ。見せるというより、一緒に味わい合うために踊り手の体は、そこに、いる。「わたくし、という体」に寄り縋っている暇はない。
そうしたら・・・、
舞台空間が有機的な光の粒子に還元していく。
(ような、気がする)。
音や、視線や呼吸。壊れそうなほど、細かいテンションたちが寄り添う。みんなで支えなければ震えている場は直ぐにでも霧散してしまいそうな・・・。
私はその場から逃げ出したくなる衝動を思いっきり押さえる。
観客の拍手。出演者の安堵をまじえた、おじぎ。
「ふーっ、・・・」。第1ラウンド終わり。
別に舞台という特殊な場ではなくとも、誰しも生活の中でこんな経験をしたことがあるのではないか。その時、時間や空間の感覚は日常のそれとは、何か違ったものになっていたはず。長くなったり短くなったり、広くなったり狭くなったり、明るくなったり暗くなったり、深くなったり浅くなったり。たとえば、恋愛や喧嘩の時なんかで・・・。
実を言うと、アートの内実とは、たったそれだけの、もの。
休む暇もなく、第2ラウンド(踊りだけの公演)の鐘が鳴る。
二日目の公演は観客で満杯だった。口コミで(情報が)広まったらしい。客席をよく見ると、いかにも仕事帰りのラフなジャンパー姿の労働者風の人や、家族連れの人。日本とは客層が違う。生活の延長として、気軽に楽しめる場として、劇場がある。あんまり、気構えていない。これは、将来、世界のフェスティバルに参加するようになり、尚更、思うに至ることだ。(日本て、何か、仰仰しい。観劇料も高いし)。舞台を観に行く時って、どこか、構えていません?
一部のコラボレーションでは昨日のメンバーに加えピアニストが入る。彼女の弾くプリペアド・ピアノ(グランド・ピアノの開けた共鳴蓋の中の弦を直接弾いたりする現代音楽特有の奏法)について、常設ピアノを痛めるのではないかと、劇場スタッフと揉めている。その彼女の対応も含めて、私の貴重な情報としてファイリングされる。
新しく今創ったばかりの今日の公演の構成表を彼等に渡す。軽いリハーサルをする。お互い笑顔で「よろしく」と、それぞれの控え室へ。昨日とかわらない。
客席が満杯だと、場に溢れる緊張感を観客が食べてくれているようで、出演者は却って、開き直れる。昨日より皆リラックス出来たようだ。楽しい。
二部は、私の作曲作品による三人の踊り手による公演だ。振り付けは「場」から、どんどん変えていく。
土方舞踏はまず作舞し、それを舞台に当て嵌めるのを基本とするが、私の作舞は踊り手(それぞれ癖=個性を持っている)に依って立つ、場の必然性から振り付けを引き出す、という方法もとる。同じ作品でも、時間=時代を含めた場の違いにより、作品の意味合い、メッセージは、それぞれ異なってくる。
・・・とにかく内の踊り手は、毎日、体の状態=心が変わる。生き物であるから当然であるが、作品の創り手としては、基準が設けられない。その都度ファジーに対応しなければならない。ほんの一点の踊り手の体のズレが、公演の明暗を決する場合がある。舞踏の演出家は日々「地獄」だ。そこがライブの面白さでもあるのだが・・・。私などは、足音を聞いただけで、その日の踊り手の状態が分かるような神経センサーを持たされる羽目になってしまった。こんなでは、あまりに精神回路が鋭すぎて、日常生活には、いわゆる「真っ当に」対応できないのではないか?と、思われることも、暫し。尤も、私は生来「とろい」性格なので、丁度バランスが取れていると云えるかもしれない。
「シーンが終わる毎に、拍手が鳴り響く」。
こんな経験は初めてだった。
「生き馬の目を抜く」矢の速度は増し続ける東京である。私などは、人を信じて、数年経ってから騙されていたことに気付くような、お人良しであるが、「舞台では絶対に人を騙さない」(舞台というコミュニケーション・フレームは元々騙しのテクニックを要請するものだが)、と、仄かな決意をして自分を慰めている。だが、信じることも矢張り、まんざらではない・・・。
この時もそうだったが、人生を豊穣とさせる魅力的な出逢いは、
(確かにある)ものだ。
とにかく「ほっと」した。
これで東京に残してきたメンバーに、顔向け出来る。「ジャパン・ソサエティー」劇場との仕事も軌道に乗りそうだ。ここが決まればロサンゼルスの「日米会館」劇場、ポートランド州立大学での公演も決まる。ツアーを組めるということだ。「セント・マークス」教会劇場の公演を終えたあと、私共はニューヨーク大学ビル内にあるブラックボックス(四角いスペースが全て黒塗り。アメリカではよく見かける)で行われた演劇祭、日本では軽井沢に似ていると云われた長閑なキャンパスのアムハースト大学(リスが走っていたりする)、ハーバード大学(偶々、私の弟が家族連れで、同大学に通っていたので、面談。『兄貴が踊りをやっているのは知ってたけど、まさか、ここで逢うとはな』弟の顔はげっそり痩せていた。『睡眠時間は三時間。落第すれば会社はクビ』)、西海岸のポートランド大学と、何れも大学のダンス学部主催の(デモンストレーションという名の)公演とワークショップを行った。公演は何処も盛況だった。しかし主催者のダンス学部の教授は、日本発の現代アートである「舞踏」に一方ならぬ興味は持ちながらも、その反応は一様ではなかった。素直に絶賛する人もいれば、舞踏通を任じて、執拗に頓珍漢な質問してくる人もいた。舞踏については既に多くの混乱した情報が広まっていたようだ。
アメリカ・ツアー、ジャパン・ソサエティーでの公演は二年後の秋に執り行われた。公的機関からの助成金は得られなかったので、私を含めた数人のメンバーが家から百万円づつ借りた。何故か、どうしても一回は皆で行きたかった。
「ソロ、デュオで踊る大野(一雄)先生(舞踏を海外に紹介した嚆矢の一人である)は、舞踏をもっと高い値段で受けて貰わなくちゃ、それ以後に行く大きいとこ(多人数の舞踏団は同じ値段で)は演れない」ニジンスキーの著作を日本に紹介するなどグローバルな活動をしていた故・市川雅さんが言っている意味が分かった。ギャラが安過ぎる。だからといって大野先生を恨むのは筋違いだ。しかし、人数を抱えたカンパニーにとっては海外公演は死活問題ともなる。
プロセニアム・アーチを備えた、高い天井の劇場。
小劇場で使っていた低い美術パネルでは対応出来ないことは、土方の公演を例に出すまでもなく分かっていた。また、その美術パネルの輸送費だけでも数百万円掛かる。
私は舞台美術を天井から吊るす「幕」にしてみよう、と発想を変えてみた。これなら、舞台の高さと踊りに合わせて美術の高さを調節出来る。
本番までの二年の間、日本での公演活動の合間を縫って、どれ程の稽古をしただろうか。似たような劇場も稽古のためだけに幾つ借りたか・・・。
だが、これが、踊りの体と空間の問題を改めて浮き彫りにし、舞踏への造詣を更に深めることになった。
ある時代、稽古場という特異な小舞台で確立された土方舞踏メソッドを継承するところに始まった私共カンパニーは、土方没当時それこそ無防備で大海に抛り出された感があった。放って置けば、霧散する他ない。土方の最後の願いを託された踊り手たちは、どうした訳か、その稽古場を無一文で追い出されていく・・・流浪。その上、その在籍中一度も舞踏の稽古に参加したことがない、土方舞踏の共同創作者であり主演を勤め続けた芦川と土方の奥方との間に起こった裁判。亡くなった創始者の「威を借り利を得よう」と故人を神輿に担ぎ出す輩の政治も横行する。どこの業界でも似たようなことがあるのかもしれない。
「今後、私の許可なく踊ることは禁じます」
しかし、
(踊り手の、その体に刻まれた踊りのメソッドは誰のものか?)
踊りのメソッド(生き方)とはそれを体現する人間の生の全てに体として立脚する。創作者同士の深い関係。当然、創作(生)を共にした相手の影響は相互に色濃く反映される。私はセックスの有無を言っているのではない。あくまでも創作(人生)の問題を言っている。
踊り手の体は誰のものか?
演出=振付家のものか?
そんなことは、あるわけない。発想自体が人権侵害だ。
踊り手の体は踊り手のもの。当たり前だ。
ましてや、その奥方のもの?などと、馬鹿らしくて話にもならない。
一度だけ、芦川は土方の元を去ろうと思ったことがある。恋愛が絡んでのことだったようだ。
「その時の、土方の慌てようといったら」・・・目に見えるようである。
踊り手は舞台に自らの意志で立つ。その替わり、自分の体がその中で共存する環境=舞台空間と積極的に関わる責任が生じる。
ただ、晩年の土方作品では舞台空間(照明、音楽=音響、美術、衣装なども含む)と体との関係性の捉え方が、演出家である土方と踊り手である芦川とではかなりズレていた。その理由については既に幾つか述べてきた。また、土方は変遷する舞台アート界の中で、そのメソッドの改変を迫られていたし、'70年代半ばの「白桃房」公演より歳を経て踊り手として貫禄を備えてきた芦川は、自信と傲岸の狭間を内から溢れる女盛りの生理で押し切ろうとしていた。人は皆一緒に歳をとる。誰しもこの真理から免れない。少女が女に、青年が初老の齢をむかえ。そんな時期、土方が亡くなった。
「芦川は・・自分の強さに負けぬこと」銀座セゾン劇場柿落としでの土方追悼公演での、古典芸能評論家の故・長尾一雄氏の雑誌評(現代詩手帳)は、当を得ている。
土方没後、残された芦川にとっても、踊り手としての誇りと不安が錯綜する時期でもあった。今まで舞台作品など創ったことがない。作品を創っていたのはあくまで土方だ。
(だけど、私だって・・・)
「芦川さん、今度の公演(土方追悼)で、今までの名声が崩れちゃったりして?」
聞こえよがしに言う人の声が、あからさまに聞こえてくる。羨望の中に揶揄と嫉妬が入り混じる・・・声。強気が押し隠してきた不安が沸騰してくる時もある。挙げ句の果てに、胃潰瘍で入院。土方が亡くなった年のことだった。
だが、芦川はまだいい。政治も大きく絡んだ舞踏界では「姫取り合戦」(舞踏アートの錦の御?を背負った踊り手の争奪戦)と称された、その主人公である。
どこに行っても「ちやほやされる」存在、であった。
「芦川もそのポジションを満喫していた」
ところが、同じく土方舞踏の踊り手であり、土方からそこへ引っ越して来るようにと言われ、土方が亡くなるやいなや、奥方家族により、寝耳に水のような理不尽さで稽古場を追い出され、芦川を頼った踊り手たち(当然のように辞めて行く人もいたが)の生活はどのようなものだったのだろうか?
金も無く、友人宅に起居するなど当面の生活を凌いだ彼女たちは、芦川が身を寄せることになった、東京からほど近い山梨県に農業とやらを営み出したパフォーマー出身の舞踏家(そのマネージャーが広告代理店の嘱託であるということからも、言わずもがなステレオタイプな芸術=自然=生活観が伺えるであろう)の処に同伴させられていた。
この時期の彼等の焦燥、不安、不信は、お姫様気分で悠長に散歩に興じる芦川の姿を、納得もいかぬままさせられていた畑仕事中に、「苦々しい気持ちで、横目で見させられていた」と、いうことからも、当時の彼等の(追いつめられていた)心情は容易に想像出来る。
その寄宿場では芦川は一室を与えられていた。が、他のメンバーは大部屋で雑魚寝を強いられる。破廉恥な一人の舞踏批評家が彼女等の布団に入り込んでくるというような騒ぎも起こった。
また、食事時に酔っ払った主宰者からメンバーが殴られるやら、その弟子からいじめられるやら・・・。土方の下での生活とはおよそ、
「掛け離れたもの」であった。
頼みの芦川に苦情を言っても・・・、何処吹く風(いい気なもの)である。
「いつ、辞めよう」
毎日のように、考えていた。
私一人はその主宰者のあからさまな打算と筋の通らぬ対応(私は人間として人のこうした浅ましさを見るを凄まじい羞恥とした)に激怒したが、どうやら芦川は腹の座ったお姫様として居直っていた。
創作に留まらず生活においても長年熾烈な関係を強いた土方という呪縛からの開放感に浸っていたいからなのだろうか、
アーティストとしても組織人としても責任感が欠如していたように、思える。
「女はなー・・・」
死の床で芦川の顔をつくづく眺めて、土方がにんまりとした笑いを飲み込むように呟いた言葉である。
土方追悼公演が行われた銀座セゾン劇場は中ホールとはいえ、最新設備を備えロイヤル・ボックスや広いエントランス、ラウンジを凝らした劇場であった。舞台の運営システムもしっかりしている。小劇場特有のいい意味での慣れ合いは、許さぬという体制であった。ほんの一つだけ例を挙げるなら「リハーサルが押して(長引)いているからといって、幕開けを遅らせることは絶対にない」。
私共の公演は、結果をいうならば、七百という観客キャパシティーはクリアーもし、作品の出来も破綻無く、まずまずといったところだろう。その理由は、まず、劇場サイドの宣伝が行き届き、観客に公演者サイドに有利な先入観(良い悪いは別にして)を与えていたこと。そして何より、それまで抑圧されてきた生活の中でも、踊りだけに自分の夢を託してきたメンバーたちの真摯さと、「強い女・・・戦う顔」に表象される芦川の踊り手としての自恃が支える傲岸なまでの闘志(まー、負けず嫌い)であろう。
「(それまでの作品の)あたたかみを知る人は不満を言うだろうが、」と長尾氏は畳み込むが、創作の行程=内状を知らないにも関わらず、氏の達見と言っていいだろう。
楽屋裏を話せば、もう、めちゃくちゃ。
銀座セゾン劇場を主宰する西武デパートの思惑と本公演への対応は、彼等のアートそのものへの関わり方とパラレルと捉えられるが、
「あまりにも、強引」と言わざるを得ない。
'80年代、池袋や渋谷の自らの経営するデパート内の劇場、美術館を中心に、主に現代アートの催し物をカラーとして主宰してきた西武にとって、日本発の現代アートとして世界から注目される舞踏は外せないものであった。折しも彼等も大いに加担したバブル経済が日本を席巻する時代である。金にものを言わせて外タレ(海外アーティスト)の企画を連発し、海外でのアート・シェアーでの発言権を得るために日本人のアート・プロデューサーの育成とやらにも手を出した。「環太平洋」などモードを意識したビジョンを出したようだが、いったいどのような成果を得ることが出来たのか?それが本当に日本の文化を海外に発信(?)することにどれ程役立ったのか?彼等の商売の経営戦略と同じ速度と方法でアートに関わってきたと思わざるを得ない西武デパートの文化戦略は果たして如何なものだったか?私は彼等のアート戦略がバブル経済と呼応しているようにしか思えない。日本と海外の文化交流の在り方を考える上で、今後に多くの課題を残すことになる。
少なくとも舞踏に関することならば、彼等がヘッド・ハンティングしたアート・スタッフ(組織)の中には誰一人、舞踏アートの内実を識る者はいなかったとだけは言っておかなければならない。
土方舞踏の内実は、その本人が門外不出としていたためもあるが、安直な研究者の解釈を許さない核心を持っている。杜撰に扱えば、あらぬ方向にイメージだけが彷徨する。
「金で芸術か買えると思うな」あるパーティーで土方が西武の社長に背中越しで言ったと聞く。
五日間日替わり公演(五組の舞踏団がそれぞれ一日づつ)という強引な企画に対しては出演者の多くは辟易した、とだけは言っておかなければならないし、また参加者の選別にも疑問が残る。そのためボーダーから漏れた多くの(殆どはソロ活動の)舞踏家の思惑が錯綜する状況も作り出す。彼等(必ずしも土方に傾倒しているわけではない)の多くを囲った(それ故、無理もでる)、土方の奥方が出演した公演では暴力団も関わったとの噂が流れた。その真偽の程をその公演の演出家に直接問い糺したのは舞踏界で私唯一人だけであったという事実は、舞踏にとって非常に悲しい出来事である。
それはそれとして、この公演で、何より問われるべきは恥ずかしながら当時の私共カンパニーの実情。
まず全員、舞台人としての意識が薄い。右も左も分からない素人といっていい。
「もっと、みぎー(右)」芦川が客席から舞台に立つ踊り手に怒鳴る。
「違う、ちがうー、反対ー」
「???」 右とか左という方向はいったい(客席から観てなのか、舞台からなのか?)、どっちだ?
突然注意された踊り手はキョトキョトと当たりを見回し迷った末、行き先をボディー・アクションで確かめ、また振り付けられた踊りに埋没する。
演劇人なら、どんなに初心者でもそのことは知っている。脚本には「上手(かみて・客席から観て右側)、下手(しもて・同左側)」と舞台コード用語が記されている。ところが、舞踏には脚本が無い。
(これでよく、今まで演ってこれたものだ)
呆れる他ないが、それが、舞踏という踊りの特色の一端を表すもの、とも云えるかもしれない。
舞踏スキルはあるレベルに達すれば、ジャンルの壁を平気で放擲する自在さをも持ち得る。例えば、洋の東西を問わず伝統芸から現代アートの方々と、多彩なコラボレーションを繰り広げることも可能である。まるで、初めて逢った子供たちがいつの間にか一緒の遊びに興じるような・・・。役者さんではこうはいかない。踏まなくてはならない段取りが多過ぎる。
が、また、あくまで自身の体を中心に世界を観るという偏狭な視座を備え易いのも事実だ。体=自分さえあれば右も左もどっちでもいい。舞台という多くの人が参画する表現コードは元々、面倒くさい、と想わせる特質を持っている。
(踊り手の意識に余裕があるなら、それぞれ勝手な舞台解釈をされる恐れがある。であるなら、振り付けに埋没させよう。それが土方の踊り手に対する演出法であった)
私がカンパニーに入って間もない頃だ。芦川が私に言ったことがある。
「土方の悪の哲学、教えてあげましょうか」
私は、「土方の悪」という、土方と長年の朋輩の言葉に、意表を付かれて、思わず頷くと、
「土方はねー、誰も信じていなかったのよ」
一見、誰でも信じてしまうような資質を持つ私への老婆心が、彼女にそう言わせたのかもしれないが、そうだとしたら土方の方法ではやがて限界がくる、と私は思っていた。
土方の方法は、あるフィールドに限れば、非常に効率がいいものだ。現に土方はある時代のアートの先駆者的存在として自己をアピール出来た。しかし、'70年代半ばの「白桃房」公演が終わると、
「結局、得したのは土方と芦川だけじゃないか」
と、二十人程いた同公演の出演者の殆どは、稽古場を去って行く。
「公演のため」と、安い賃金で地方のショー・ダンスの仕事やストリップ劇場を回らされていた彼等も、バカではない。土方とその家族の暮らし振りと、自分等のそれを比べれば、内状も自ずと見えてくる。
(金だけ搾取され、利用されていた)
異性関係に餓えている輩にとっては、格好の漁り場であったのかもしれない。しつこく居残る男性には、
(男は俺一人でいいよ)と言う土方が、独立して貰う。
土方には踊りにおいて、真の弟子と云える人間はあまりに、少なかった。'84年のヨーロッパ公演においても、自らの踊りを実現出来る踊り手は、芦川以外にいなかった。もう一人の公演同伴者とは殆ど十年振りの再会であった。私共の創る公演であったならば、十年という溝は容易に埋められる筈もない。踊りの体は日々変わるものだ。
土方もそれは分かっていた。しかし、結果的に彼には人材がいない。それが彼という人間の隠しようも無い生き様を如実に表しもする。
(信じる)という生き物の妙なる技の仕様は、生から多彩な景色を引き出し続ける。
内のカンパニー結成初期、二人のメンバーに照明学校に通ってもらった。舞台照明の技術は高電圧を扱うもので危険も伴う。基礎の習得が必須になるためだ。技術をマスターした一人は、今もカンパニーの中核として活動を伴にしているが、もう一人はそのまま照明学校の先生に「なっちまいやがんの」。お陰で、公演契約が決まっている舞台の穴(その子の替わり)を振り付け=演出家の私自身が埋めなくては(出演しなくては)ならない羽目になって・・・。胃潰瘍と喘息の私が当時どれ程大変だったか、「知るめー」。
まー、この子は根が真面目だったので、その後の人生も謳歌しているだろうし、それはそれで安心だが、中には質(たち)の悪いのもいる。・・・これ以上言うと、愚痴になるので(もう、充分ぼやいてる)止めるが、舞踏に限らず全ての団体とかいわれるものの主宰者とそのメンバーとの関係は、一概に正否を語れない妙なるものと言わざるを得ない。
(人を信じる)・・・重い言葉としてのしかかってくる。
「ねー、この舞台なんか、窮屈じゃない」
リハーサル中の銀座セゾン劇場の客席で、芦川がおもむろに囁く。
劇場スタッフが朝から数時間掛けて仕込んだ舞台(客席に向かって凸形に張り出している。そのサイドのへこんだ処に音響スタッフが入ることになっていた)が、実際に見てみると、
(しょぼく)、感じたらしい。
「元に戻せない?」(へこんだ処を客席に対して真っすぐになるように立ち上げなおす)。
芦川はニヤッと笑って、スタッフに流し目を送る。
内のスタッフが、突っ走り、作業中の劇場側の大道具スタッフを呼んで来る。
「舞台(の床)を元の形に戻してもらえます・・・か?」
劇場側のスタッフの顔が引きつる。
「ストップして」劇場側のスタッフが作業中の数人の大道具係に大声を出す。何か、問題が生じたことを透かさず感知した大道具係たちは手を休め、客席に屯する我々を見つめる。険悪なムードだ・・・。
「この(こちらが指示した)舞台を造るのに、朝から何時間も掛かっている・・・何の為に数ヶ月前から(舞台図面を挟んで)打ち合わせしてきたのか?」劇場スタッフの瞳が沈む。
(ごもっとも)こちらは平身低頭する他ない。
「もう、これ以上の変更はありませんから」ひたすら、頼み込むしか他ない。
「また、(戻すのに)時間掛かるよ」
こちらは、頭を下げるだけ。
「(舞台を)元に戻して」劇場スタッフが大道具係に、大声を発する。
「戻すんだってよー」と、大道具たちが、聞こえよがしに言う。
芦川だけがニンマリ、笑う。
公演本番前に舞台の調整が必要になることは珍しいことではない。時には大きく変換しなければならない事態も生じる。公演のために最善を尽くす、という気持ちは出演者だけでなく、(内部外部)スタッフ皆同じだ。だから、多少のことは、劇場スタッフも融通を持ってくれる。
だが、今回の芦川の気侭だけは舞台人として許される範疇を超えていた。責任感のある人間なら例えド素人でもこんなまねは決してしない。
まず、舞台図面と場当たり(踊り手の立ち位置と動き)からプランニングしてきた照明家は、その突然の舞台床の形の変換にどう対応したらいいのか?また、客席に面して舞台のへこんだ処に陣を構える準備をしていた音響スタッフは自分の作業を何処で行えば宜しいのか?
「何の相談もない」
結局、音響家は舞台袖の最奥(舞台が見え難いために舞台進行、シーン変換が把握出来ない)に追いやられ、スタッフの一人が舞台袖口に立ち、インカム(ヘッド・ホーンとマイクが装備されているスタッフ間の連絡用の機器)を頼りに、操作をする羽目になる。ところが、この通信網が照明家のそれと混線し、照明家と音響家の怒鳴り捲る声が錯綜しお互いすったもんだだ。
そしてゲストのライブ演奏家(ギタリスト)のその演奏する場所が、本番直前まで確定していない。おまけに現場のどさくさに紛れ演奏中マイクが入らないという、お話にならない状況を呈した。
公演終了後、照明家は挨拶もしないで帰っていった。
土方追悼公演は、芦川にとって、土方という主催者の死により、タガが外れたことによる野方図な開放感と強引さによる不自然なプライドの奔走により、まったくのお祭り騒ぎの基に成立していた。こうした場合、煽りは必ず(人がいい)奴のところに集中する。音響スタッフの束ねと演奏を担当していた私のところへ・・・。その負担は身内である人間であるから、甘んじて受けるとしても、この舞台は芦川の舞台人としての限界と欠落を如実に表すものであった。育て方と言っては語弊があるかもしれないが、土方の踊り手への対応の仕方に手抜きがあったことより生じた、としか言いようもない。
土方の弟子の、踊り手としての能力について、これは土方舞踏メソッドを唯一受け継ぐ、私共カンパニーの舞踏の根幹に関わることでもあり、そのことに関しては別項で記すつもりだが、一つだけ例を出すと、
土方の踊り手(彼の元で殆ど一年程しかいない人だが、そうかといって長年いた芦川も含め)は皆、
「音を見ることが」出来なかった。また、(音と体との関わりについて)多様な方法があることなど発想だにしなかった。
舞台上で流れている音楽の、「リズム」に体をシンクロさせてしまう、という癖を無意識裡に持っている。これでは、クラブ(ディスコ)で踊るお客さんと変わらない。土方舞踏の(聴覚と視覚情報が認知から認識への行程で錯綜、変換が行われるような)時空間構造と明らかに馴染まない。私は、そのことを踊り手の頭と体に理解させるのに膨大な時間を割いた。多くの音楽家との即興ライブも実践の稽古の一貫となった。
だが、土方は手を抜いた。そのために、舞台で流す音楽に慣れてきた踊り手は生理=ノリに身を任せ奔走するようになる。そして、踊り手の体は舞台空間=環境との関わりを軽んずるという仕儀に陥る。
土方作品でミニマルミュージック、リズムが合うとされるのは、踊り手の単純なノリをセーブし易いという利点を持つからだが、所詮、対症療法に過ぎないと観るのが、単なる「演出家の人形」に堕すことなく、踊り手の本来性を謳歌するための人間としての基本的なモラルであると私は考える。
踊り手は「音という生き物」と積極的に共存していかねばならない。
ただ、その方法を素人相手に一から教えるのは演出家にとって、多大な負担となる。病弱な私と違って頑健な体を持つ土方が何故か、この手間を惜しんだ。
体の不自由(病弱)者の緩慢な動きは必ずしも密度が薄いとは限らない。健康な人は恐らく想いもよらない。遠回りが最も近道であることを体で識る人は少ない。誰しも、目の前の餌にかぶりつきたい、という誘惑に克つのは難しい。
昨今、アートの「アーカイブ」とか云われるものが流行っている。土方のアーカイブとやらもあるようだが、そこには肝心の「踊り」が無いし、その内実を識る者もいない。何でもかんでも、目先にかぶりつく下衆ばった輩の強引な凝集の一表象と思う他ない。
ジャパン・ソサエティーの舞台美術は、百枚以上の染め直した(自家で行う)着物を縫い付けた布幕だった。実際に稽古の舞台に踊り手を立てての、布幕の色彩のグラデーションとテクスチャーを決める作業に半年程掛かった。幕の重さは二百キロ。稽古の度に車で運び、借りた劇場や体育館でその都度上げ下げしながら創っていった。
踊り手の体のポテンシャルを最大限に引き出すには、舞踏の美術は基本的には喋り過ぎない方がよい(勿論、公演の目的によって美術の舞台内での位相は多様である)。あくまで、舞台空間の一要素としてそれに馴染み、それぞれの踊り手の個性を引き出すものがよい。
舞踏の振り付けというのは、けっして振り付けにより踊り手を囲うものではない。囲おうとしても、それを擦り抜け、浸潤する個性の表れこそ魅力だ。その(踊り手の)個性を単なる癖と解釈するのか?世界でその人にしかない煌めきと捉えるのか?そのボーダーの判別は演出家にとっては、まさに「命掛け」の作業になる。その踊り手の人生を、大げさに言えば「決定付ける」ことにもなりかねない。少なくとも、演出家は、その覚悟で踊り手に臨まなくてはならない。
「癖」か「煌めき」かの、演出家としての踊り手から突き付けられる知覚情報は、実際にはボーダーが奇麗に引けるような景色ではなく、入り交じり、錯綜し、浸透し、動きまくり、時にはテクスチャーとして時には匂いとして捉えられる。
演出家と踊り手の関係は常にダイナミックに躍動せざるをえない。
ジャパン・ソサエティーの公演の数週間前、メンバーの半数がオペラの客演のためにフランスのリヨンに行ってしまった。だが、まだ、美術は出来ていない。
私は、渡仏したメンバーの一人一人異なる踊りの体の状態を私の体で模写し、残りのメンバーに美術幕との関係性を見てもらいながら、美術を完成させた。
ところでこの「幕」という舞台美術はカンパニーにとって、思わぬ恩恵をもたらした。
美術幕の輸送時に、私共はこれを二十程のパーツに分解し、手荷物として飛行機内に運び込むことが出来た。その後度々行くようになる海外公演では航空会社の協賛もあったが、経費は「ただ(0円)から50万円の間」。経済的に非常に助かった。劇場によっては「消防法」の煩いところもあり、
「実際、消防署の人が来て、ライターで火を付け、直前に公演中止になったこともある」との強制的なアドバイスを貰い、防火処理に70万円程掛かってしまったことがあるが、舞台美術がパネルであったなれば、確実に数百万円掛かることを思えば、安いものだ。
このニューヨーク公演での舞台美術はヴィレッジ・ヴォイス紙で「動かないが神秘的に流動している」との評価を得た。公演も絶賛されたが、実は舞台の意匠で一つ秘密がある。
既に記したが、私共の舞踏のメソッドは舞台と客席が肌で混淆するような、いわゆる「小劇場」に適している。観る者、観られる者を隔てる(象徴的な意味で)プロセニアム・アーチの存在には元々、馴染まない。小劇場とは、「ミリ単位」と云われた踊りの技術は元より、照明、音響プランも全く違ってくる。
今でこそ、踊り手も堂に入ったものだし、小劇場、大劇場の差は大して感じることもないが、当時はそれこそ、必死だった。
(二年間に渡って万全の準備をしてきたはずだが・・・自信が持ちきれない)
舞台の高さが客席から60センチメートル(最も私が好きな舞台)である時、客席の前数列は「桟敷席」にすることが出来る(舞台と客席の空気の流通が程良くなる)。
踊りで、座り技を多用する私の作品では、舞台がこれより低いと、客席最前列に座るお客さんの頭、背中に舞台上の踊り手の体が重なって、後ろに座るお客さんには踊り手が見えにくくなる。よって桟敷席は向かない。中大劇場(日本の小劇場以外=靴を脱いで座る客席を持たない)は全て椅子席であるのが標準で、舞台の高さも自ずと高い。今回もそのような舞台だ。
「何故、こんなに苦労しなくてはならないのか」と、土方メソッドを継承してしまった自分を恨みたい気持ちにも苛まれたが、恐らく人事の及ばぬところで共振してしまっていたのだろうと、諦める他ない・・・。
(世の中、もっと簡単なフォーマットが幾らでもあるのだろうに・・・)
公演数週間前、発砲スチロールで作った劇場の縮小模型も持って、美術家の小林健二さんを訊ねた。上記の理由を話し相談にのってもらうためだ。
小林さんは「相撲の土俵」を例にとり、
「(高くなっている)舞台床のエッジから客席の床に向け斜めに板を設えたらどうか・・・」との示唆を下さった。
この意匠は、この公演にとって決定的な意味を成した。
舞台床のエッジから客席側に斜めに板を張り、舞台を相撲の土俵のように台形にする。これによって、プロセニアム・アーチで分断されていた舞台と客席を(観客の足下から)流通させることが出来るのではないか。
この効果はてき面であった。実に、この意匠がジャパン・ソサエティー公演(今となっては大して大きな舞台とも感じないが)の成功のキー・ポイントになった。
ところが、この舞台床の客席側に張り出した勾配面は、本番中にはライトも当たらず、殆どの観客にとっては自分より前に座る観客の頭、背中が邪魔になり大部分が見切れて(観えなくなって)しまい、その存在に意識的に気付いた人は、まず、いなかっただろう。
ここが、演出の実に妙なる面白みだ。
観客は(舞台で踊る)出演者を見る。少なくとも、意識的にはそうだ。だが、無意識の領域ではあらゆる事象を感知している。この観客の無意識の感知は多分に生き物としての「自己保存の法則」に根差すものと私は解釈しているが、観客の入力する意識的、無意識的情報のダイナミックな関係、その様態に率先して関わっていかなければならないのが舞踏の演出家の宿命である。
尤も、こうした演出家の行為は何も舞台という特殊な環境に収斂する特別な事象ではなく、人間が生きる日常の中で、生きている全ての人の間で当たり前に行われ続けている、あまりにも、ありふれた行為の一つの延長に過ぎないのである。
ノンバーバル・コミュニケーション・・・言葉によらない相互伝達。その曖昧さと、もどかしさにこそ、えもいわれぬ人間の秘め事が隠されているのかもしれない。
「舞踏」とうい言葉は、生きとし生けるものの、どうにもならない欲とせつなさのつぶさな巡り会いを表象し続ける何者か、と、私に体で感じさせる。
この公演の後、ニューヨークでは毎年のように公演を行ってきた私共ですが、'90年代民主党のジュリアーニ市長の改善政策により、行く毎にそこは「ゴミ箱と警察官が増える」街へと変貌していく。
・・・そして、2001年9月11日。
今でも、毎年ニューヨークの劇場からオファーがあるが、受けていない。
'94年「ジョイス・シアター」(クラシック、モダンを中心に世界の一流どころが出演する舞踊専用劇場)での公演では、
ニューヨーク・タイムズ紙から「ビヨンド・ブトー(舞踏を超える)」と評されたが、
超え続けることは、いつでも・・・難しい。
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