舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。

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形について・PART2 
ニャン子ちゃんへの質問状

生命(いのち)の舞台 あるいは近似値的絶対

文:友惠しづね
 子供の頃から毎日のように母の踊る姿を見ていた。二歳前に発病した持病の喘息は、幾つもの病院を盥回しにされても治るものではなかった。母の踊りとは、私の病気治癒のための祈りをこめた宗教の儀式舞である。「お授け」といって、病人の患部に手を当てるという、前時代的な宗教所作も三日に一度づつ受けさせられた。私の病気ゆえに自責にかられた母の、苦しみからの神頼み、ということも含まれていたのだろう。母は熱心であった。恐らく数百万人いるというその宗教の信者の中で私が一番多く「お授け」とやらの所作を受けている。
 違和感はここらへんから始まった。情報受容器としての体の違和感だ。
 病人と面と向かって行われる「お授け」という儀式の所作は決まったものだ。
 しかし、「お授け」を施す信者の仕草、声、間、体の存在感が皆明らかに違うテクスチャーを発している。受信者としての私が発信者の心根は理解しても、その宗教自体にはシンパシーを感じていなかったからかもしれない。とにかく、彼等から発信される情報は様式の一元化では括れない何か為体の知れない多元的性を突きつけられるようで、私の体はおののきを伴う違和感を感じていた。
 それぞれの信者が属する教会では月に一度お祭りの日が定められ、私の自宅でも踊りに説話、その後食事と段取りが決まっていた。私のところは四畳半に数人(強制的に参加させられた家族と父が経営していた工場の従業員の奥さんたち)の小さなイベントであったが、上部教会は規模が違う。百畳敷きの広間の前面にしめ縄を垂らしたお社が設えられ、その前に檜の平台が設置されている。その日選ばれた笛、太鼓、三味線、琴、鉦等楽器奏者が舞台両脇に陣取り、男女三人づつの踊り手が黒の儀式装束(男は戦前の裁判官のような白の曲線文様の入った帽子と衣装。女性は紋付)に身を包みお社に対面し(客席には背中向き。観者は神妙に正座している)歌と伴に踊り出す。
 見ている私の体の中に、また例の違和感が湧き起こる。六人の踊り手の振り付けは同じである。だが、いつも見慣れている母以外のそれぞれの踊り手の体が幾つもの雑多で不自然なパーツの寄せ集めで出来ている有機的なオブジェとして、私の前に存在していた。人によってパーツによって異なるその多様な質感は、時に柔らかく時に鈍く光り、時にカビのように湿り、時に噛み砕けないような固さを持ち私の喉を詰まらせ、呼吸を停止することを強いてくる。母の踊る姿に目をやると、それはニュートラルであった。普通の人の形であった。少し安心出来た。
 慣れたもの、共有するものは当事者にとってその存在は意識しにくいものだ。例えば、空気や水の味、個人的な癖や地域社会の風俗というように。小さい子供は親にアイデンティティーを持つ。相対化はなかなか出来ない。私が母の踊る姿をニュートラル=自然に見られたのも道理であったのだろう。ところが、子供も成長に伴ない広い視野を獲得しだしてくると親を相対化する視座が産まれる。この作業に支障をきたした子供は人生において余分な荷物を背負うことにもなりかねない、と精神分析学はいう。肯定的にみれば、より多様な個性の開拓へのチャンスと捉えることも出来るが・・・。
 六人の踊りを何年か観続けるうちに、母の踊る姿にも違和感が生じてきた。母の体も他の踊り手と同じ様に不自然なパーツの組み合わせからなりたっていく。そして六人はそれぞれ全く違うテクスチャーとして存在していた。きっと、私の中の自意識が成長してきたからだろう。
 神前に立つ踊り手達に、少なくともその信条に嘘はない。皆最も人生で尊い瞬間を生きている。私はたじろいだ。踊りの振り付けは同じはずなのに皆明らかに異なって私の前に現れた。(神様を)信じるという人間の根源的な行為は、個々の精神構造とその様態の変容を表徴する体の在り方に如実に反映していた。そして、その個々の体は「信じるという純粋な心」をも確実に付随させている。
 私が彼等の体を違和感を伴って感受するのは「信じる」という純粋なはずの行為、心情とそれが根をはる精神構造との兼ね合いが体を通して不自然に感じられるからだ。それが彼等の「信じる」という形を恣意的、相対的に時に傲慢に表徴しながらも、確かな鼓動を伝える。

 一時間程あるその宗教イベントには途中インターバルがあり、踊り手、楽器奏者の総入れ替え(メンバー・チェンジ)がある。そのインターバルで客席にいた私の名前が突然呼ばれた。聞いてないよー。降って湧いたような災難に私が躊躇する仕草に教会長は威厳を保ち、何事も無いように私を則す。有無も言わせず私は檜の舞台に立たされていた。母は私に内緒にしていたのだ。いつものことである・・・。

 産まれ落ちた全ての生き物たちは神の意図によるのか、本能によるのか、世界に対する無邪気なまでの信頼ゆえか絶対に限りなく近い振舞をする。舞台の真実とは何か?踊りの真実とは何か?を問うことをライフ・ワークとしている私は一度彼等に訊ねることが出来ればと想っているのだが、なかなかフォーマットが対応しない。

元々、果てしなく身勝手な設問であるのかも3333333333333333333333wqqqqqqqqqq67
 ニャン子ちゃんがキーボードの上に乗ってきた。(分かんないこと、やってないで、遊ぼうよ)と、言っている・・・のだろう・・・か?
2008/1/1 UPDATE 読みもの
土方舞踏批評 1  執筆:友惠しづね New!
アコギ・ファン 文:友惠しづね
大野一雄氏100歳をお祝いして 大野慶人氏インタビュー
 
聞き手:土方巽舞踏鑑 代表 カガヤサナエ
「南管オペラ」のアーティスト達 文:友惠しづね
台湾での舞踏講習会 -「江之翠劇場」の皆さんと- 文:友惠しづね
糸宇夢(しうむ) 「宇宙の中のひとすじの夢」 文:友惠しづね
舞踏の精髄 文:芦川羊子
My Sweet Lord 文:友惠しづね
眠りへの風景(エイジアン・コラボレーション) 文:友惠しづね
蝶々夫人 文:友惠しづね
南管オペラ 文:友惠しづね

X JAPAN hide(2005年9月25日hide MUSEUM閉館に寄せて)  文:友惠しづね

ビヨンド・ブトー 文:友惠しづね
third eye  文:友惠しづね
振付について ミラーリング 文:友惠しづね
形について・PART2 ニャン子ちゃんへの質問状 生命(いのち)の舞台あるいは近似値的絶対 文:友惠しづね
新宿アートビレッジ 文:芦川羊子
小さな祈り 文:友惠しづね(2004/8/15)

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