韓国の雑誌「TOP Class」にユック・クンビョンのインタビューが掲載されました

2012-04-01

韓国の雑誌「TOP Class」
韓国の雑誌「TOP Class」 2012/4/1 no.83

韓国の文化・トレンド・人物を紹介する月刊誌「TOP Class」に、メディアアーティスト ユック・クンビョンと舞踏家、オフィス友恵の代表 加賀谷早苗のインタビュー記事が掲載されました。 (韓国語)

韓国と日本の時空を超越する友情と芸術の魂がこもっているミュージックビデオ
韓国と日本の芸術家たちのコラボレーションDVD『眠りへの風景』が、3月1日韓国と日本で同時発売された。
韓国のアーティストユック・クンビョンによる映像と、日本の舞踏芸術家、音楽家の友惠しづねによるアートミュージックビデオ。この作品は、1994年二人が初めて会った時から始まる。
この作品のより意味深いことは、ゲストミュージシャンに韓国の伝説的なパーカッション演奏家の金大煥、日本のフリージャズ界の草分け的な存在である吉沢元治が一緒に演奏していることだ。韓日の芸術家の即興演奏のアンサンブルが誕生したのだ。 しかし1998年に吉沢元治が、2004年には金大煥が亡くなり、友恵しづねはその時の公演を永遠にあらしめ、世界に知らせるために、ユック・クンビョンと"ミュージックビデオを作ろう"、と創作を開始した。

記事の本文
韓国の雑誌「TOP Class」

TOP Class誌(韓国)2012年4月号掲載 (※ 誌面は韓国語で掲載。下記ご参考の日本語訳です)

韓国と日本の時空を超越する友情と芸術の魂が宿るミュージックビデオ
日本舞踏家と一緒にアートミュージックビデオを作ったビデオアーティスト陸根丙

韓国の現代美術家・陸根丙(ユッククンビョン)と1960年代日本で始まった前衛的な現代舞台芸術「BUTOH(舞踏)」の大家であり、音楽家である友惠しづね。韓国と日本芸術系の代表者が一緒に作ったミュージックビデオ作品が出た。3月1日韓国と日本で同時リリースされた「眠りへの風景」だ。大衆音楽でよく活用されるミュージックビデオ形式をとった、アートミュージックビデオとも呼ばれるこの作品では陸根丙は映像を、友惠しづねは音楽を担当した。「眠りへの風景」の始まりは陸根丙と友惠しづね、ふたりが初めて出会った1994年に遡る。サンパウロビエンナーレ、カッセルのドクメンタなど世界的な名声を得た陸根丙氏は当時友惠しづねから連絡を受ける。「陸根丙氏の作品を舞踏の舞台美術として活用させてくれませんか」と言うリクエストだった。「私も舞踏の公演を見て魅了されていました。舞踏は限られた動作でゆっくりと動きますが、そこから出るエナジーはとても大きいと感じました。なんだか原初的で土着的な感じと言うような。生と死、人間の本質について問いかけるところで私の作品と通じるところがありました。「一緒に舞台を作りましょう」との話を聞いた瞬間、『ヨシ』と言いました。」
ミュージックビデオがリリースされた直後の3月2日、京畿道楊平のアトリエで会った陸根丙氏は、友惠しづねとの出会いを運命だと感じたと言う。この場にはこのミュージックビデオを制作したオフィス友惠の代表、加賀谷早苗氏も同席した。加賀谷早苗氏は友惠しづねの後を継ぐ舞踏継承者でもある。1994年友惠しづねが舞踏公演舞台で共演した陸根丙の作品は。丸いお墓のような設置物の中に子供の目を映し出すビデオモニターが入っている作品だ。観客は作品を見る主体、作品は一方的に見られる対象になる客体と言う公式を陸根丙はこの作品を通してひっくり返した。お墓の中の片目は瞬き観客を見つめ何かを語りかけてくる。古いお墓とビデオモニターという現代の最先端のもの、死の世界であるお墓と現実の舞台、それを結びつけるのは片目。この作品は時空間を飛び越え観客をはるか遠い始原から現在、そして未来に案内する。
1994年日本の大阪キリンプラザで開催された舞踏公演は陸根丙のこの作品からのインスピレーションで始まった。日本では埋葬が禁じられていて友恵しづねには韓国のお墓は変わった風景としてやってきた。先祖のお墓が寄り添いあってる風景や自然環境になじんでいる風景から「韓国文化の力強さ、地域や政治を超えて人類全体に温かさを与えているように感じられた。」と言う。お墓の中の「子供の目」から彼は「温かく時に切なく、人類の行く末をありのままに見つめようと徹する意志が見えた」と話した。
陸根丙の作品を友惠しづねは音楽と踊りで解釈した。さらに意味深いのはゲストミュージジャンで韓国の伝説的なパッカーション演奏者金大煥(キムデファン)、日本フリージャズ系の草分けと呼ばれるベーシスト吉沢元治が友惠しづねと一緒に演奏、韓日芸術家の出会いの場になったのである。即興演奏で構成されたこの日の公演で三人は迫真感溢れるアンサンブルを生み出した。だが、この公演は二度と行われる事はなくなってしまった。1998年に金大煥、2004年には吉沢元治が次々と世を立ち、友惠しづねだけが残った為だ。友惠しづねはその時の公演を永遠にあらしめ、世界に知らせるために、陸根丙に「ミュージックビデオを作ろう」と、創作を開始した。陸根丙と金大煥の出会いも格別だった。
「大学時代、私も音楽に夢中だった時がありました。イギリスのロックバンド、ピンクフロイドに夢中で、オックシゾンと言うグループサウンドを結成してボーカルとリードギターを担当しました。よくライブ公演にも出たりしました。金大煥先生とは1988年に私が仁寺洞で初めて個展をやった時に出会いました。ハーリーデヴィットソンに乗って、ブーツを履いたまま、ザクザクと歩いて来ました。"黒雨"という異名のように全身黒系の服を着て髪はしっかりと結びサングラスをかけたままでした。それから私の作品の前に一時間もずっと立って動かずに見ていました。そして、「お前が作ったのか?」と聞いてきました。

韓国の雑誌「TOP Class」

しっかりと根を張るように強く、鮮烈なエナジーを噴き出すような音楽。友惠しづねが金大煥を選んだのもその原始的エナジーに惹かれたからだと言う。陸根丙が見抜いた舞踏のエナジーと舞踏大家・友惠しづねが発見した陸根丙、作家のデビューから陸根丙を見守った金大煥と金大煥を見抜いた友恵しづね...。三人は時差を置き交錯し強固になった縁を重ねた後に一つの舞台で出会った。そして今、生と死の壁を乗り越えまた一つの舞台を作った。
「眠りへの風景」は太初のアダムとイブのように男と女が口づけをしながら水中から浮き上がるシーンから始まった。友惠しづねは1994年公演を基礎にテーマ、トリオ、ギターテーマなど三章に分かれた音源を作りだした。テーマは公演のテーマ曲にクジラの鳴き声を風の音響としてサンプリングし、リミックスした。大洋で泳ぐクジラの鳴き声と風が出会い、ここに1994年公演の音楽が加えられた。済州島で撮影した陸根丙の映像は男女が並んで立ち激しい風に全身で立ち向かっている。白い服の裾がひらめき男女は預言者、あるいは人類の救世主、あるいは救道者を連想させる。トリオの音楽は1994年金大煥と友惠しづね、吉沢元治の即興演奏。陸根丙はソウルの街を背景に男女の出会いとすれ違いを映像におさめた。ギターテーマは友惠しづねがテーマ曲をギターバージョンに編曲した音楽。陸根丙がそこに智異山で撮影した映像をのせた。この部分には男女の言葉を越えた調和、自然との共存、そして安息を試みる。DVDの後編には1994年大阪での公演の様子も収録されている。生と死に分かれ、いまや現実では会えない人達の公演だ。
「友惠が作った音楽をほとんど1年間ずっと他の音楽に触れずに聞きました。そこに濃艶な感じ、男と女の間、セクシュアルなイメージが湧いてきました。それは現実での愛というよりアダムとイブのように原初的な愛、神聖視される愛のようでした。それを男女の話で砕いて語っていこうと思いました。」
ところが、この話を砕いていく主演は専門俳優ではない。画家「金勤中(キムクンジュン)(嘉泉大美大教授)」なのだ。陸根丙は金勤中に「わざと演技をしようとせず、表情も作らなくてよい」と注文した。ただありのままの姿を見せてほしいと話した。しかし、ミュージックビデオの中での金勤中の姿や動作が尋常じゃない。偶然、陸根丙のアトリエを訪ねていた金勤中にその理由を聞いた。 「1990年代初頭に、京畿道驪州(キョンギドヨジュ)で貴人に出会い、太極拳の初期形態の體禅(タイゼン)を教わった。體禅は内在されているカルマを払拭し、体と心を磨く手段である。心中に抱く災いや怒り、欲望、感情を取り出し、それらに本当に触れるかのように、実体を感じる事もできる。ひとしきりそれらに取り組んだ後には欲望と感情に惑わされず、平穏な状態に至るのである。分別を置く場で意識を解放し、そのまま自然な流れに身と心を託す事になる。」
金勤中が體禅をやっている姿を見た陸根丙はその姿、人間のどこにも縛られず本然の姿を探る姿を映像に収めようにした。この実験的な作品を作りだす為に陸根丙はほとんど作品料を受けずに制作に参加し、金勤中も「飯を食わせてくれる条件を出演料の代わりに受け入れた」と言う。「眠りへの風景」は発売後、東京国立近代美術館、韓国のアートソンジェなど、美術館で所蔵するとのリクエストが続く。「特にアーティスト達が興味を示してくれる」と加賀谷早苗・オフィス友惠の代表は話した。マーケットがどんな反応を見せるのかとは関係なく陸根丙と友惠しづねにとってこの作品は「死んだ芸術家、友達と一緒にした最高の舞台を蘇らせた」という所で格別な意味をもたらすのである。

文・イソンジュ(TOP Class誌 編集長) 写真・キムソンア