舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。




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2020「江之翠劇団」公演『朱文走鬼』に寄せて

執筆:友惠しづね
石婉舜氏(台湾国立清華大學文學 准教授)からのインタビュー

■現代アート舞踏の始まり、その歴史的状況

私が主宰する舞踏カンパニー「友惠しづねと白桃房」は、創始者とされる土方巽(1986年没)の舞踏を唯一継承するカンパニーとして1987年に結成されました。今年で34年を迎えます。日本の舞台アート界では稀有な形態ですが、創作活動のためにメンバーは共同生活を送ってきました。

さて、1960年代それまで上流階級の婦女子の習い事とされていた西洋ダンスの業界にアンダーグラウンドの身体アートとして、後に舞踏と自称することになる前衛舞踊が生まれます。
当時、日本の美術界では「もの派」といわれる、例えば画廊に生木を置く、美術会場の庭に穴を掘っただけという、今で云うインスタレーションによる表現が作品として展示されます。しかし、コンセプトが先行する表現は、その制作意図が観者との間で共有された時点でその衝撃は薄れ、表現ジャンルとして発展し続けるのは難しくもなります。
また詩壇では韻を重視する定型詩から散文詩など西洋からの翻訳物の詩の手法を取り入れる「現代詩」が注目され、それを扱う専門誌もできましたが、その寿命は、主に難解過ぎるとの理由から停滞していきます。
こうした日本のアートシーンと連動した身体表現のジャンルとして舞踏がありました。
今日までも舞踏の一つの特徴とされている、技術の修練よりも身体を素材として取り扱うことに眼目し、例えば「動く彫刻」と云われるように身体を異化させるポーズと緩慢な動きによる表現スタイルが生まれます。
何よりも直裁的な視覚的インパクトを重視するこのような身体表現は、それまで特別な訓練を受けたことがない者をある意味で気軽く参加させることになります。言葉は悪いですが「目だった者勝ち」の気風があることは事実です。

当時の日本は1945年の敗戦時まで「神国日本」を表明する全体主義体制により、極端に偏向させられた日本人の世界観、道徳観、身体観への反動から、これは特に都会で顕著でしたが、怒濤のように輸入される欧米文化を半ば無条件に受け入れました。

それまで国家の絶対的な権威を表徴していた天皇の「人間宣言」を契機に欧米のそれとは歴史的背景の違いから、今日までも必ずしも馴染み得ているとはいえない欧米型の自由主義、個人主義思想により市民という概念が流布し政治、経済、生活の体系が大きく変貌します。「農地解放」により小作制度が撤廃され、儒教思想からの身分制、男尊女卑という差別は平等思想により選挙制度も変革します。
実際の庶民の生活では、胡座、正座という姿勢を導く畳、お膳からテーブル、椅子を取り入れた西洋様式が浸透していきます。
欧米からの映画を通じ彫りの深い顔立ち、八頭身への憧れから女性は和装、草履から洋装、ハイヒール、パーマネント、マスカラという化粧術に、男性はスーツ、ネクタイにハットが急速に一般化していきます。音楽業界でのジャズ、ロックの広まり`60年代後半にはアメリカのカウンター・カルチャーの影響から若者のジーパン、長髪が流行り、また「雷族」といわれる暴走バイクの集団も現れ世代間ギャップも際立ちます。

高度経済成長により工業化が進むなか、その多くが15歳、中学卒業者であり「集団就職列車」に行列をなして乗り込む地方からの低賃金の工場労働者は「金の卵」といわれ、地元を離れる親子の涙の別れのシーンはテレビ、映画のニュースで都会と地方との文化的確執を心情的に報じます。これは演歌など流行歌のテーマともなりました。

中国、ソ連の政治、経済的内情も知らされぬまま、マルクス主義を掲げる労働運動、経済的余裕のある家庭の子息による学生運動も盛んになります。こうした欧米の趣味、嗜好、思想の流入により日本の個人意識は元より家族制度の形も大きく変化します。
それまで仏教の檀家制度によりアイデンティティーを保持していた家制度は解体し始め、都会ではアメリカの占領政策の一環としてのキリスト教系の宗教は思うように伸びませんでしたが、それまで「国家神道」により弾圧されていた神道、仏教系の新興宗教への入信が盛んになり、また急速な工業化に伴う公害による喘息患者とその家族の有様は、警察と学生運動の闘争と共に特集され人々の耳目を誘います。
1964年の東京オリンピックは日本の復興の象徴となるイベントでしたが、この時、初めて多くの日本人は生の欧米人を観ますが、彼等の体の大きさ、パワーに驚異を感じもしました。


■舞踏勃興のポイント―裸体、白塗メイク、言葉

以上景観した戦後日本のあらましは、私の祖父が戦前から東京の日本橋で和装学校を、父は戦争の影響から東京の目黒で鋳造業を経営しており、喘息を患っていた私の子供時代からの肌身から受けた見識によります。
同じ時、土方は私の住まいから徒歩20分ほどの住宅街の一角に住居兼稽古場を持つ奥方の養子となり、其処を活動の拠点としていました。
当時の土方の稽古場には一夜の宿を求めるように、警察に追われた学生運動家やフーテンまがいの家出人が「前衛」という名のモードに同調、蝟集し、土方作品の俄出演者となります。
彼等は土方の奥方が経営するキャバレー、ストリップ劇場での「白黒ショー」という男女の絡みと裸を売りにするショーダンスの仕事を斡旋され、雑魚寝の住まいと一汁一菜という最低限の生活が保証されます。しかし、舞踏公演の出演と引き換えに、義務付けられたショーダンスの仕事のピンハネ額(当時の裸のダンサーのギャラは破格に高かったが、経費を抜いた全額)の実情を知った弟子達には、「我々は利用されただけだ」と全員一斉に辞められる憂き目にもあいます。「白黒ショー」を縁に連れ合いも出来、ショーダンスの金銭上の旨味を知った弟子達の中には、その後、舞踏家と名乗り公演活動をしだす者も少なくありませんでした。

`60年代の舞踏は前衛と目される他のアート業界(文学界や美術界、演劇界など)に抜きん出たインパクトを有していました。その理由は戦前までは絶対禁忌となっていた公衆の面前での裸によるパフォーマンスです。特に女性の全裸(ツンと呼ぶ小さな布で局部だけは隠す)によるそれは、「性の開放」が謳われ始めたとはいえ欧米のモラルとは明確に一線が引かれている時代です。踊り手の全身に「白塗メイク」を施すことでアートとしてのフィルターを通しているとはいえ、非社会的な過激な行為と映ります。二十歳そこそこの女子達を思うように差配する土方のカリスマ性は嫌でも浮き立ちます。
勿論、一般のモラルのコードからは受け入れ難いものでしたが、当時、全国シェアを占め、政治、時事問題、芸能からゴシップなどアラカルトを扱う一般男性向けの「週刊誌」のグラビアページを通し東京発の現代アートとして紹介されることになります。現代アートを扱う美術誌なども写真ページを割きこれに追随します。
このような性を絡めた舞踏のプレゼンテーションを、忌避し憎悪させるような世情を背景にすることで、逆に先鋭性、秘匿性を浮き彫り、今日までも続く過激さを売り物とする舞踏のイメージを醸成します。

今日、インターネット・コミュニケーションの普及により主に欧米からの風俗映像は子供達でも日常的に覗ける時代においても、日本の法律では性風俗に関してはまだまだ厳しい。ましてや欧米諸国から「無条件降伏」という歴史を体験していないアジアの諸民族、国家においては今日でも到底受け入れ難い文化的座標軸を堅持しているものと想われます。
私が当カンパニーを主宰した`87年、土方舞踏の主演を務めていた踊り手からの「(女性の踊り手は)裸くらいになれなくては駄目なんだ」との強烈な示唆により、今のメンバー達による裸体シーンを含んだ作品を創りましたが、早急に止めました。
確かに女性が「裸」で舞台に立つには覚悟が必要ですし、そのことが舞踏家を志すための一つのイニシエーションにもなるのでしょう(男性の場合は逆に自身の裸体を観せたいという者もいるようですが)。
私はけっして「裸」という意匠がアートにそぐわないと想っているのではありません。「裸」が舞台表現において直裁的なインパクトを得るための安直な手段として使われることに大きな抵抗を感じるからです。これは舞踏のもう一つの特徴と看做される意匠「白塗メイク」にも言えることです。


■舞踏の「白塗メイク」

ここで舞踏の「白塗メイク」について簡単に説明します。
舞踏の化粧で使われる白塗の素材は、伝統芸である歌舞伎、舞妓が使う物と同じです。
歌舞伎役者や舞妓がその顔に白塗を施したのは、電気が無い時代の乏しい照明(気象条件により変化する日光や蝋燭の炎)の中で人物の存在を浮き立たせるための演出法であった訳です。胡粉を塗った能面でも同じことがいえます。
しかし彼等の意匠では顔の造作を際立たせるために目にはしっかりとした黒色のアイライン、唇は赤色を配置します。歌舞伎にいたっては人物の感情を表徴させる「隈取り」を行います。
ところが舞踏では彼等と同じ化粧素材を使いながらも、眉毛から睫毛、唇にいたるまで白色に塗り潰します。では何故そうした発想が生まれたのか?
今でもシリーズが続くハリウッド映画007の「ゴールド・フィンガー」に出演した金色のメイクをした女優の影響から、舞踏家が働いていたショーダンスの世界でも踊り手が全身を金色に塗る「金粉ショー」が流行ります。このメイクは目元、唇まで金粉を塗りますが、この方法を映画「天井桟敷の人々」で紹介されたパントマイムで用いられた白色に転用したことが、今日の舞踏の「白塗メイク」として一般化します。
舞踏の「白塗メイク」は欧米人と比べノッペリしているとされる日本人(アジア人)が施すと、死に顔を想わせると嫌悪する人も多いのですが、何とも不気味、不可思議で、あたかも神秘的な世界観を背景に有する神秘的存在として踊り手を映します。こうした仮面を被ることにより実我を無化させもする効果は、観客だけではなく、それを施す踊り手自身も、その気にさせる効果を持ちます。それまで何の表現活動の経験も技術もない者でも、現代アートの旗手として速やかに変貌させる。それほど意匠としての「白塗メイク」の効用は強かったといえます。
このメイクの特徴は、膨張色である白色により出演者の存在感が増します。そして集団の蝟集性を高め排他性を強調させます。しかし裏を返せば出演者は没個性となり、踊り手個々人がそれぞれ培うべき心と身体技術の差異の表出を蔑ろにするような安易なパッケージングをすることにもなります。ですから私達カンパニーは土方舞踏の流れから「白塗メイク」を施していましたが、ここ25年間は行っていません。私は出演者それぞれの個性を何よりも重んじるからです。詳細については「日本顔学会論文誌」に発表した私どもの論文「舞踏の顔」(2009年)をご参照下さい。
もし、私が舞台効果として担保となる「白塗メイク」に依存するに留まっていたならば、貴団体「ガンジン・シアター」との2006年コラボレーション公演は全くの別物になっていたでしょう。
中国―台湾の伝統芸能と現代舞台アートである舞踏のコラボレーションはグローバル時代にこそ相応しい企画であり、国家、民族を超えた文化交流により、人間同士のより親密な関係を築く一つの礎になれればこれにました幸せはないと考えます。
私は自身の作品が、主に西洋の現代演劇史で語られるポスト・モダンという文脈に括られることを快しとはしません。
それぞれの生活文化に根ざすところから発せられたアート表現は、互いの個性を尊重し合うことでより多様な世界観、人間観を培うことがグローバリズムの本来性だと想います。
分節をこととする西洋文化と味わいの刹那に意味を育てる日本、東アジアのそれは、世界観、人間観だけではなく身体観の違いにも現れます。文化交流の創造性を謳歌し合うためには、急ぎ過ぎないことも一つの肝になるかと考えます。  


■時代から取り残されていく土方巽、振付けを模索するも破綻

さて、`70年代の日本の世情はといえば、「所得倍増計画」を謳う高度経済成長により、「平等」をテーゼとするマルクス主義は霧散し日米安保条約は自明のものとなり、労働運動は目先の賃金闘争に終始し(今日では増大する非契約社員から区別された労働組合員達はエリートと目される)、学生運動は早急に終焉します。
争乱の時代を背景に、現代アートの象徴的表現として耳目を集めた舞踏もその在り方を問われます。それまでは、殆どは仮設ステージであった安普請の会場に手弁当の渇望を持参した観客達の熱気を、インパクトを最優先させた現場での即興的なパフォーマンスで収斂し増長させました。しかし、現場のインパクトを誘発させ続けるために常に新規を求められるアイデアが枯渇すれば、パフォーマンスはパターン化し観客からは飽きられます。
この時代、経済成長により商業的運営による劇場が乱立していきますが、この劇場側の運営システムの演者側への適応要請は日本ではこの頃より一般化していきます。
「ガンジン・シアター」と私達が公演を行った台湾の劇場のシステムも当たり前のようにそれに倣っています。例えば、予めのチケット販売の把握による観客の入場規律。劇場職員との公演の開演、終演とリハーサルを含めての役割と時間管理。消防法による演出の規制などが挙げられます。
`60年代を象徴するような規制をはみ出した解放区的な運営をする劇場は姿を消していきます。
新規にできた商業劇場の公演では土方得意の即興は空回りし、主宰者との金銭トラブルを招く失敗に終わり、以降、土方は自ら舞台に立つことはなくなります。
土方は観客キャパシティー50人程の目黒の自宅兼稽古場を俄仕立ての劇場(広さは「朱文走鬼」公演の稽古場として使用した文山劇場の3分の2程。照明、音響機材は市販の民生用、素人の弟子が操作)とし、自らは振付け、演出に徹し作品性を重視した公演を行います。ここで初めて単なる実験的なパフォーマンスから舞踏を踊りのジャンルとして確立させようとするべく踊り手への「振付け」を模索することになります。
ここでは誌面の都合上、土方の「振付け」法の詳細は別項に譲る他ありませんが、今日まで私だけが知悉する(土方はその方法を公開しませんでしたが、それがまた舞踏の神秘性を演出する手立てとなります)彼の「振付け」法を一つだけ紹介します。
土方の作舞法は、洋の東西を問わず古典とされる絵画中に描かれた人物の形を何人もの踊り手に模写させます。そして、それぞれ癖=個性を持つ踊り手達が模写した形のうち、興を感じさせるものをセレクトしていきます。沢山選ばれた踊り手が彼の作品の主役に抜擢されていきます。
しかし、この方法は踊り手を鋳型に嵌め、本人の主体性を著しく措定することで成り立ちます。
「土方舞踏の踊り手達は猿回しの猿」と揶揄されます。土方はタブロー中に描かれた人物として踊り手を観ていた。自分は踊らないので、そこに自身の体は介在しない故の発想から始まる「振付け」法です。
土方の踊り手達は主体的に舞台に関わることを禁じられます。踊り手達には自由な作品解釈を許しません。踊り手達の体は彼の駒として扱われます。
これは人間の体をオブジェとして対象化し得るとの見識に基づきますが、もともと日本人の身体観は、体と環境との相互作用によって意識されるものです。
これを舞台に置き換えて説明しますと、一人の踊り手の体が、それが同居する共演者は勿論、美術、音という舞台環境、観客の生きる劇場環境と互いに気遣い合うことで初めて舞台は成立します。
私は、人間が人間として生きる上で、どうしても外せないのは形而上的なものに対する信条だと想っています。
それは、単に振付け、演出、美術、音楽、照明・・・などなど舞台に必要となるパーツをジグソーパズルに嵌め込むように、若しくはコンセプトで括ろうとするだけでは、到底辿り付けない人間同士が切実に求め合う偽りのない心情が芽生える契機を与えてくれます。
`70年代半ば、稽古場の仮設劇場の10畳(幅4,2m、奥行き3,6m)程の狭い舞台に20人程の出演者により上演された作品は、今後の舞踏の在り方を示唆するものとして注目されますが、先述しましたように、公演後、ショーダンスの仕事とアート公演の実情を知った団員は主役以外全て辞め、土方舞踏は休止します。
`70年代までの舞踏は海外では全く知られていませんでした。


■80年代海外での舞踏評価と土方舞踏のずれ

`80年代に入るとこの状況は一変します。若手舞踏家の欧米の中大劇場、オペラ・ハウスにおける彼等の活動と興行的な成功により、逆輸入するかたちで日本でも、それまで「小劇場運動」の旗手としてアンダー・グラウンドな活動に終始していた舞踏は一般的に周知されます。
この事態は東京の限定された地域の小スペースで活動していた舞踏家達だけではなく、海外進出への志向を持つ日本の現代演劇界にも衝撃を与えます。
演劇人が海外進出への野心を持っても、実際的には難しい。その理由の一つに言葉の問題が挙げられます。一時期、身体性を取り入れた表現がモードになりもしましたが、やはり脚本主体の作品制作への執着は捨て切れず、早急に身を引きます。
そんな中、ギリシャ悲劇、シェークスピアなど西洋で周知となっている古典作品を扱うことにより言葉の違いによる壁を緩め、ことさら日本的イメージを強調する演出をプレゼンテーションする劇団も現れ、一定量の評価を勝ち得ます。

`80年代、日本発の身体アートとし欧米の舞台アート界に新風を起こした舞踏です。その創始者と目された土方舞踏団にも`83年にヨーロッパから公演依頼があります。
しかし、団員は辞めてしまっているので主役の踊り手と、その衣装の着替えの間繋ぎのために呼び戻した踊り手と、出演者が2人で敢行されたヨーロッパ公演は、「この<舞踏>の創始者は沈黙を破るべきではなかった。彼はもはや何も言うべき事を持っていない。」(スイス公演、ジャン=ピエール・パストリ)、「『日本の乳房(上演された作品)』は(中略)相当の衝撃を観客に与えた。すなわち『もう御免!』という思いである。」(オランダ公演、カロリーネ・ヴィッレムス)、「土方-芦川のダンスグループは殆どの観客をどうしようもなく退屈な状態にとり残した。(中略)古いよごれた布に身を包みアメリカのテレビ番組のような音楽伴奏で一人がなめくじのように舞台に這いでる時、笑いを禁じ得ない。」(イギリス公演)と酷評を浴び大失敗に終わります。
`70年代半ばに、掻き集めのアマチュア・スタッフによる、ルーズな運営の狭い稽古場の仮設劇場での公演は当時の東京では評価されました。しかし、劇場、照明図面の読み方も知らず、照明、音響機材には無頓着だった彼の演出法は他の劇場での汎用性は全くありませんでした。それ以前に各劇場の運営システム、作品上演に至るまでの基本的な段取りの仕方も最低限の基準を満たすものではなかったことが挙げられます。現場に入ってからの即興的な指示によって成立させていた`60年代的な方法から脱却し得ていなかった訳です。
失敗の原因はそれだけではありません。それまで土方作品がテーマとして掲げていた「暗黒」「東北」に象徴される心身障害者や農奴、貧農ゆえに売られていく遊女をモチーフにした世界観は、`80年代に欧米が受け入れた若手の作品が背景にする世界観とは相容れないものと映り拒否反応を起こさせたのでしょう。


■西洋に迎合し自らのアイデンティティーを蔑ろにする舞踏

では`80年代に欧米に受け入れられた若手の舞踏家がその背景とする世界観とはどのようなものだったのでしょうか。
戦後の日本のイデオロギーは欧米型の民主主義とソ連、中国からマルクス主義が、哲学ではドイツのフッサール、ハイデガーの現象学は益々健在であり、心理学でのフロイトの影響からアートではシュールレアリズムの手法が野方図に輸入され、それらが混成する争乱の時代でした。
しかし、高度経済成長に伴い「イデオロギーの終焉」を迎えた`70年代の日本は、「一億総中流化」と呼ばれ、国民は生活の安定に伴い一時の開放感を味わいます。個人主義としてはアメリカの「ライ麦畑でつかまえて」、イギリスの「アウトサイダー」、マルクス主義を引き摺りながらもサルトルの実存主義的哲学にも関心が残ります。行き場を失った学生運動者が舞踏家に転身するのも業界の一つの特色となります。

後のバブル経済を誘因する(後に破綻する)内需の拡大により大手の商業施設の拡大と連動するように(デパート内の劇場など)文化産業としての劇場も林立し、バカンス期(夏の長期休暇)に定例となっている欧米のそれを模した演劇フェスティバルが日本各地で行われます(`90年代半ばには殆ど姿を消す)。「情報化時代」といわれるなか円高により海外渡航者が飛躍的に増え、特に欧米からの生の情報が身近に消費者に喧伝されます。
そんな背景のなか、`80年を境にフランスからの文化人類学(構造主義)、ポスト構造主義哲学が時代を語るパラダイムとなります。
人間の原初性の探求のために未開地、未開人へのフィールド・ワークをその手段とする文化人類学者が、現代アートにその痕跡を求めた時、視野に入ったのが「舞踏」でした。これは舞踏のエキセントリックな「白塗メイク」という化粧法が神秘性を感じさせ、未開人のそれを類推させたことによります。
また、確立した身体技術を持ち得ぬ故にとる思わせぶりなポーズからの緩慢な動きは、その曖昧さから、「解体、ノマド、脱構築・・・」を謳い実存の意味性を拒否するようなポスト構造主義という観念哲学の一つの具体的な表徴としての役割を担うことにもなりました。
そうした状況のなかで、日本に在住する舞踏家達の多くは、フィールド・ワークの一貫として、予め決められた編集意図を持ってやってくる海外からの雑誌等の取材陣に対して、率先して彼等がカメラのフレーム内に要求する、未開人のアニミズムを連想させるようなポーズを披露します。

西洋キリスト教の他の民族宗教に対する優越意識は人種的差別意識に繋がりかねない旨を警告する識者もいます。
彼等の文化的志向を無内省に受け入れ、安直に同期させるような姿勢は、身体的感受性を含めて歴史のなかで培われてきた自らのアイデンティティーを蔑ろにするリスクを負わされることにもなりかねません。日本は明治維新を契機に欧米文化を、翻訳という多大な労力を媒介に余りにも性急に輸入しました。その反動から「八紘一宇」、東アジア諸国を巻き込む「大東亜共栄圏」、「鬼畜米英」と極端な民族主義に奔ります。それが敗戦による反動から「欧米礼賛」へと政策変換します。それに追随する国民の変わり身の早さは戦後の驚異的な経済復興を成し遂げもしましたが、それと引き換えに失ってしまうものへの慎重な配慮を合わせ持つことがグローバル時代の日本人の形を創る上での要になってきます。

`85年、東京で「舞踏フェスティバル」が開催されますが、土方はそれに参加せず`86年に亡くなります。同じ年、歌舞伎の実験的公演の演出家であり舞台アート批評家の武智鉄二が上梓した著作『舞踊の芸』の中で、彼は「あの恐るべき消費的芸術である舞踏も、・・・、日本民族芸術のため、世界に害毒を流している」と、舞踏を厳しく指弾します。確かに欧米の批評はともかく、殆ど全ての日本人は舞踏に日本を、その「らしき」ものさえ感じ得ていませんでした。
ファッション業界ではご当地フランスのブランド店に行列をなす日本人の姿が紙上で話題にもなりました。
そんな世情のなか`87年、「友惠しづねと白桃房」が発足します。


■真の身体アートとしての舞踏の始まり

私達のカンパニー発足時の舞踏界は、その創始者・土方亡き後の覇権争いの政治に塗れ、批評家も含め、この機に乗じ手前勝手な舞踏論を展開することで蜜を吸おうとする輩(舞踏ゴロと云われる)が跋扈していました。
元々、舞踏の批評は、公演作品の背景となるとされる世界観が取沙汰されるのみで、実演における具体的な技術(振付け、演出、美術、音楽など)が取り上げられることは一切ありませんでした。
発信側の舞踏家も、時間も労力も掛かる技術の修練に興味を示さず、観客を幻惑させる思い付き的な発想によるパフォーマンスを言葉で意味付けすることに終始する者が殆どでした。彼等の発想が自身の内奥からの必然を備えていれば、技術を超える即興表現とも成り得えます。そのような行為には意味は後から追い縋るもので、手前味噌の技術に括り切られることを嫌います。即興表現は徹したアマチュアリズムを肥として常なる今に芽生える美しき生き様の表徴です。 和歌、俳句などを挙げるまでもなく、日本文化は時節に即応する感性を慮ることで、即興表現の形を模索していこうとする歴史を培ってきました。表現と生き様は不二とのイメージを喚起させます。私には両者の間隙をぬうことしかできません。

発足当初、私達のカンパニーには土方舞踏の踊り手を20年務めたメンバーもいましたが、誰一人舞踏作品を創ったことも、演出を経験したこともありませんでした。メンバーは皆、自身が踊ることにしか興味がなく、舞台創作に必須となる作品上演までの基本的な段取りなど関心の外でした。そのくせ、これは舞踏家と云われる人全般に言えることですが自己顕示欲だけは人並み以上に強い。私という存在は「オールマイティー」、上演する作品などは私を浮き彫るための手段に過ぎないという特権的、超越的な自己意識を持たせ得るのが、舞踏家にとっての舞踏の魅力でありました。
ところが、私の創作家としての心得として、一番不要とするものは常に「私」です。私だけでは、とても間に合わないからこその創作です。

私達は膨大な公演と昼夜を問わない稽古のなかで舞踏を一から立ち上げ直しました。
「舞踏メソッド確立」のために共同生活を敢行し、メンバーには照明学校に通ってもらう(舞台照明技術者一級の資格を取得。今日までの全ての舞踏団でこの資格を有した照明家を持った者は無い)など舞台アートとしての基本から学びました。こうした徹した行為は舞踏界を戦々恐々とさせました。
私は作曲家であると同時に即興演奏家として日本人だけではなく、当時、盛んに来日していたアメリカのコンテンポラリーアート界のトップミュージシャン達と活動していた経緯から、彼等をゲストに迎えてのコラボレーション公演も多くこなしました。泳げないまま海に突き落とされるような経験を強いられた素人メンバー達は、生きた心地がしていなかったと想います。

`88、`89年に参加した「利賀フェスティバル」では、「土方舞踏を継承しつつも、新しくより普遍性を持った形で発表し始めた舞踏の可能性を見る思いがする。」(立木Y子『シアターアーツ』)、また`94年のアメリカ公演では「ビヨンド・ブトー、従来の舞踏のカテゴリーを越えながらその根源を伝えるもの」(NYタイムズ紙)、「舞踏の鮮烈さは、外国の、もしくは『他者』でありながら、且つ『普遍的』であるという事実からきている、と理解するようになった。」(ヴィレッジ・ボイス誌)など、その批評はそれまでの海外の舞踏観を一新させます。


■江之翠劇場との25年に及ぶコラボレーションの始まり、周氏と講習生との出会い

1995年、台北で私の舞踏作品「蓮遥(Renyo)」のソロバージョンの上演と講習会をメンバーがやらせていただきました。
その折、公演を観劇し、講習会にも参加いただいた周氏と私達カンパニーとのご縁が始まります。周氏が主宰される伝統劇団「ガンジン・シアター」と私達カンパニーが巡り合ってから、実に25年の月日が経ちます。これは私達にとっては感慨深い出来事であり、両者がこれまで培ってきた歴史は私達カンパニーを語る上で、けして外せない大切な経験となっています。

2004年と2005年には「ガンジン・シアター」の団員の方がお一人ずつ、それぞれ5週間の講習会に参加いただきました。
それまで私達の講習会には海外からの参加者も多かったのですが欧米からの人だけでした。殆どは特別な身体訓練の経験が無い方です。
私達は彼等のために舞踏グループを作り、私達のプロデュースで私の作品、演出により主に東京近郊の(かなり有名な)小劇場などで公演活動を行いました。
その後、自国に帰って独自の活動を展開している人もいるようです。ただ、私達カンパニーの認可を与えられるレベルに達した人は一人もいません。来日し日本人のある程度知られた舞踏家達の講習会に数回参加しただけで、それをキャリアと称し、「白塗メイク」さえ施せば誰のチェックもいらない自国では一端の舞踏家として振る舞えるわけです。二股、三股掛けるような人は、私達だけではなくどこの団体でも嫌うのは当然でしょう。

ところが、舞踏は一つに組織化されている業界と勘違いされている方が海外にはまだまだいるようです。
舞踏と一言でいいましても、各団体に共通する技術は有りませんし、活動内容も全く違います。私達は土方舞踏を直接継承する唯一のカンパニーですが、土方と少しばかり関わったというだけで、土方舞踏の名を「寅の威を借る狐」の如く語る者もいるようです。
もともとメソッドというのは、それを体現することで公演実績などを通して具体的に実証されてこそのメソッドです。それが無い者に限って他人の名前に寄り縋ろうとします。
アート行為の宿願は常なる「只今」に有用であってこそ意味を為すものです。
土方が亡くなってから数年間、「土方追悼」と銘打つ公演が土方とは疎遠な舞踏家達も含め数多くなされました。それは興行的に宣伝になりますし、また、批評も緩くなります。
私は土方の名前を継ぐ唯一のポジションにありましたが、私達の活動のプレゼンテーションにおいて土方の名前を利用したことはありません。「他人の褌で相撲をとる」生き方を潔しとしないからです。
これ以上できないという実践のなかで自身の体を呈して土方舞踏と向き合うからこそ、公然と彼を否定もします。それは彼が単なる置物として据えられることが彼の人生の目的ではないことは瞭然としているとの想いをこそ受け継ぐ覚悟からです。

私達は講習会のご案内もさせていただいていますが、申し込み書の履歴に何人もの舞踏家の名を列挙される方がいらっしゃいます。前述しました通りアイテムとして舞踏家の名を挙げることで広大な沃野である舞踏を、あたかも知悉している風を装えるものと勘違いしています。そのような方にはご遠慮願っています。

私やメンバーが参加していた土方の講習会にも外国人が来られていました。土方の場合、弟子の選定基準は、「男は俺一人でいいよ」と男性は採りません。体に癖が付き初める24歳までの女性に限られていました。外国人(欧米人だけでなく、日本人と容姿が似ている韓国人も)とはしっかりと距離をとり、自身の作品に出演させることはありませんでした。 
私達の海外公演の折に、日本文化の神秘性を謳うアートに「外国人の出演はそぐわない」とプロデューサーから要請されたこともあります。
しかし、私は舞踏アートの使命は普遍性の追求におくからこそ意義を見出し得ると想いますので、人種、民族文化の違いは、これを率先して受け入れるべきものと心得ています。
また、個々人がそれぞれの人生経験で培ってきた体の特性を癖と捉えるか、個性と捉えるかで対応の仕方は全く違ってきます。私はその都度、新規な気持ちで彼等と向き合うことで、逆に彼等から問われることを契機に自身の創作を活性化し、舞踏の可能性をより深める手立てになると考えています。

「ガンジン・シアター」の方々への講習内容をプランニングする際、私達は講習の実時間の数倍掛け準備しました。
と言いますのも、伝統劇団である「ガンジン・シアター」が現代舞台アート舞踏に興味をお持ちになるのは、グローバル時代における伝統の新たな展開のあり方を模索なされてのことと思いました。国の支援を受け貴団体の代表として来られる方の意識も、さぞや高いものと思われました。そして、講習会に参加された方は実際に、そのような方々でした。貴団体の主宰者である周氏の想いも彼等を通して伝わってくるようです。
私達の講習会に来られた方々は、それまで私達が受け入れていた外国人の講習生とは明らかに違いました。東京という街はワンダー・ランドですので、ついつい羽目を外しがちですが、団体の代表として来られたからでしょうか浮つくこともなく、大変真面目な方々でした。
また、伝統芸の技術を身に付け、舞台経験もお有りですので吸収も早く、お一方にはその滞在中に、偶々私達の地元の小学校の授業の一貫として披露した公演に踊り手として出演いただきましたが、これには私としても感服いたしました。5週間という短い講習期間では一般の講習生にはとても望めることではありません。
もうお一方は楽器演奏もなされるということでしたので、音と身体とのワークも取り入れた内容にも取り組みました。ピッチやリズムを数値化する西洋音楽と違い、日本の伝統楽器にも言えることですが、倍音成分(時にはノイズとして処理される)を多く含むアジアの伝統楽器と体との関係は、これからの体と音のコラボレーションのあり方、その多様性を示唆するものとして、私達にも大きな刺激となりました。


■伝統芸と舞踏のコラボレーション

私達は日本の伝統芸とは、「義太夫」「文楽」、その業界のトップの方々とのコラボレーション公演を通して付き合いがありました。こうした実験的企画は伝統芸の方達から持ち込まれたものです。彼等は伝統という名に居座るのを快しとせず、未来の伝統芸のあり方を率先して探求される方々でした。
近年では、それまで堅牢な活動をすると思われてきていた日本古来の雅楽や、西洋クラシックの演奏家もジャンルを問わない幅広いアーティスト達とのコラボレーションを行うことが一般的にも知られることになっています。私も舞踏との共演において日本を代表する雅楽演奏家の方達に自らの作曲作品を提供しCDを上梓しています。また、NYフィルハーモニーの演奏家達はじめ多くのクラシック演奏家とのコラボレーションを経験しています。
私自身も邦楽や能を習い、華道の師範でもありますが、私達のメンバーもそれぞれ日本舞踊、華道、茶道、和舟の船頭の師範の資格を持っています。礼法、香道も嗜みます。
`80?`90年代にかけてのコラボレーションはアドリブ演奏をモットーとするジャズ系の音楽家による実験性を売りにするものが多かったようですが、作品性に拘る私は異種ジャンルでありながらも、あくまで一人間同士として共演者と親和を図ることを第一義と考えました。
踊りと即興音楽という感性レベルでのコミュニケーションは、直接的な意味を介在とする言語を用いないことで、必ずしも分かり易いとは言えないと想いますが、私のコラボレーション作品は演劇祭で大賞を受賞してもいます。

私の多種ジャンルの多アーティスト達とのコラボレーションの経験から言えることは、ジャンルの違いよりも人の違いこそが要になってくるということです。互いが互いの生き方やフィールドに爽やかな興味を持つことから始まります。
ジャンル毎に表現スタイル、システムは違いますが、その違いを興として捉える大らかな心が必要になります。
舞踏の一般的なイメージは押し出しの強い見た目上の直裁的な肉体表現がプレゼンテーションされ踊り手達への振付けに関しては二義的な意味に甘んじられているようです。これは多くの踊りのジャンルで夫唱婦随とされる舞踊音楽を舞踏は準備し切れないことにもよります。外部音楽家を雇ったところでその人は舞踏を知らない。今で云うインスタ映えする写真映像に殊更限ったプレゼンテーションをしてきた理由がそこにあります。

そんな状況の中、私達のカンパニーだけは緻密な振付けが成されていることが個性となり世界的な評価を得ています。
これは振付け、演出家である私が自身の作品の音楽家でもあることで初めて成立したことでした。私の作品は振付けも含め舞台美術、照明、音楽は元より音響操作という演出作業を同時にプランニングします。これらは密接に関わってくるからです。


■アジア人としての身体観の共有を実感、周氏の切実なる想い

日本人の身体観は、それが生きるところの環境(この場合、舞台環境)と相即不離の関係と捉えられています。どちらも、対象化して分析されることには違和感を覚えます。両者は互いに感応し合うことで「味わい」という節度ある美意識を産み出します。舞踏の振付けは両者の親密なる交わりの中で培われます。ところが、これを体の形と動きという西洋舞踊の概念から分析的に解釈しようとする人が実に多い。舞踏の体は「奥行き感」「滲み」「抜け」というような日本的美意識を体現することに持ち前を発揮します。
これは短期講習で講習生に伝授することは大変難しい。形と動きに還元しようとしても舞踏の体の本来性は西洋舞踊のそれと明らかに質感が違ってきます。これを「白塗メイク」でパッケージングすれば分かり易い舞踏のプレゼンテーションにより、この違いは見た目上ある程度緩和しもしますし、そのような方法を用いるのが私達以外の他の舞踏家達が行っていることですが、それでは目先の功利性を優先させるだけの安直な手段という他ありません。欧米人の講習生に対しては、彼等が無意識に備えている踊りに対する概念思考がネックになることが?々でした。私も彼等が出演する舞台を多く創ってきましたが、彼等の素性を受け止め私の演出力でこなしてきたというのが実情です。振付けさえある程度覚えれば、後は「白塗メイク」を施せば、少なくとも自国では一端の舞踏家を装えると思う人もいたようですが、長い目で観ると彼等の活動は頭打ちになっているのが実情のようです。やはり根から掘り起こしてゆかないと難しいのかもしれません。
ところが「ガンジン・シアター」の皆さんとは、日本文化をスタンスにした私の身体観が同じアジア人として自然に馴染めているように想いました。
仏教、儒教という同じ文化思想に根ざすことからくるのでしょうか。ただ、「ガンジン・シアター」の皆さんと私達の体から表出されるニュアンスには微妙だけれども深遠な違いがあるとも感じましたが、これは、それぞれの歴史、生活文化を反映してのことだと思いました。舞踏の振付け、演出家としては、そこに新しい舞踏の可能性を見出せた心持ちになりました。
南管音楽には、現代日本人では珍しいことですが、幼少の頃から神道系の音楽に浸かり、仏教音楽、雅楽、邦楽を嗜む私は親近感を感じました。その楽器は倍音成分を多く含みアンサンブルにおいては共演演奏家との「間」を重視する故にピッチ、リズムに還元しオープンに譜面化しようとする西洋音楽のメソッドとは馴染み切れない特質を持っています。「芸は盗むもの」と敢えて教えない師匠と弟子の「拈華微笑」による継承法も独特でしょう。
私の経験では`80年代前半までは雅楽、邦楽は独自の演奏記譜を用いていた故に、西洋音楽の譜面への写しを拒否する姿勢も見受けられましたが、グローバル時代を反映してか、近年の音楽大学では雅楽の西洋音楽への譜面化は一般化し、それ故に演奏家達の異種ジャンルとのコラボレーション活動も活発になります。

「ガンジン・シアター」の国内外を問わない幅広いジャンルとの交流を通じての技芸の習得による伝統芸の今日、未来の新たな展開を願う周氏の切実なる想いを感じさせます。これは日本の伝統芸「歌舞伎」においても日本発のアートジャンルとして喧伝されている「アニメ」、例えば日本の大ヒット漫画「ワンピース」や、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を題材とした作品を発表しています。今日の若者には最早、日本の古典とされる古い物語にはアイデンティティーを感じ得ないことから、観客層のシフトチェンジを図る苦肉の策と映ります。こうした実験的な試みは新たな技術の開発も必要になるでしょうし、これからの伝統のあり方を示唆するのかもしれません。

他ジャンルの技芸の習得はその違いによって自身の個性を再認識させるでしょうし、また同調性において、より広く豊饒なコミュニケーションの可能性を醸造させ合う契機にもなります。
また、他ジャンルの技芸の習得は、それが無意識域を含む身体的なものなのか、コンセプト・レベルに留まるものかで違ってきます。身体的なレベルでの技芸の習得の場合、無意識裡に備えていた自身の技芸との「間(時間、空間の関わり方)」の違いを闡明に意識させることになります。元々、「間」は無意識に身に付き振舞われるもので、これを意識した段階で、元の状態に戻すことは大変難しい。殆ど不可能といっていいと思います。
ですから、どのレベルで他ジャンルの技芸を踏襲するかは、主宰者の覚悟を持った存念に関わってきます。これは主宰者自らの身体感覚で判断されるべきことと想います。

私は2005年に周氏から「朱文走鬼」という伝統作品の演出を依頼されましたが、本作品は言うに及ばず、南管オペラ自体、日本では全く紹介されていませんし知る人はいませんでした。
こうした局面に遭遇した場合、私は何も考えずシャワーを浴びます。送られて来た作品ビデオを100回以上観ました。それから作品のプロットにおける台詞、音楽の構成を秒単位で把握します。戦前から`72年の日中国交回復による台湾と日本との外交関係の変容から現在の経済関係における繋がりまでを勉強し直しました。
欧米の合理的、平等主義的観念に馴れ親しんだ現代の日本人には珍しいと思いますが仏教、四書五経に可成り馴染みを持っていると自負していた私ですが、実際に仕事を通じて台湾の皆様とお会いすると、仏教にしろ儒教にしろ日本よりも遥かに生活信条として根付いているように感じられました。それは私にとって大変に刺激的な経験でした。近いからこそ微妙な差異が際立つのでしょう。

公演を前にして周氏は伝統芸能と現代アート舞台、台湾と日本の文化との距離とその親和を図るために公演の準備と合わせて台湾での舞踏講習会を企画されたのではないかと思います。講習会は2回行われましたが、1回目10日間の講習会には私を含め東京に残るメンバー達は台北?東京をテレビ会議システムを通じて参加させていただきました。
2回目の20回の講習会から私も参加させていただきました。「ガンジン・シアター」の皆様は20?30歳代とお若く、大変活き活きしていらっしゃることが印象的でした。南管オペラは元々男性のみで編成されていたと聞きますが、女性が多い。歌舞伎、能は男性のみの出演者に限られますが、雅楽では女性の演奏家も少なくありません。
最終日には皆さんと舞踏の発表会をさせていただきました。


■南管オペラと舞踏の出会い、「朱文走鬼」の演出

私の演出法は出演者同士は勿論、観客とも人間として同格のコミュニケーションを基本とします。
それは、演奏家を含めた出演者は役柄に、また観客も観客としての役割に甘んずることなくより親身な人間性によって触れ合うことで、より自然で深いコミュニケーションが得られると考えるからです。

そのコミュニケーションを導くために、私の舞台設営は舞台上と客席の場の重さ、密度を同等、同質に、また両者が常に自在な関係を保つように風が通るような「抜け」を創るよう心掛けています。
パリ公演もそうでしたが、2006年の公演では日本の「能舞台」を一つのモチーフとして舞台を創りました。事前にいただきましたビデオの中国版の作品には演奏家は映っていませんでしたが、日本の伝統芸「文楽」の演技者と演奏家の関係からイメージし、上手側に演奏家の姿が見える形をとりました。
本舞台、橋懸かり、演奏家の舞台との劇場内でのバランス、そして客席の在り方とのバランスの取り方は作品上演の胆になるエレメントです。
2006年の公演では(パリ公演でも)本舞台の位置はセンターから上手側に寄っています。また客席は下手側は高くし、その向きも舞台方向ではなく客席側を向かせています。これは日本の歌舞伎の、また一部の演芸場の客席に倣っています。この変形した客席の造り方は西洋劇場のバルコーとは根本的に発想が違います。そこに座る観客は所謂「通(つう)」とされますが、エリート意識に浸るのではなく、あくまでも一般の観客を「立てる」という意識を持っています。この劇場での舞台、客席のスタイルは日本文化のコミュニケーションの奥ゆかしい美しさを表象していると思います。
日本文化の西洋のそれと対比した時の個性は、表現者とそれを受け入れる側、両者がシンメトリーを回避することによって醸される美意識が特徴とされると思います。それを作品上演において成就することで出演者達や観客達の親密な関係が育まれると思っています。
そんな出演者達と観客達の豊潤な関係を産み出すため、「ガンジン・シアター」の公演のために私達は東京で何回もシミュレーションしてきました。特に、舞台、客席設営は図面で一度決めれば現場では直しようがないために慎重にならざるを得ません。ここで計算が狂うと、取り繕う演出は効きません。
それが私の考えです。

公演の稽古場となった文山劇場は狭く、舞台の実寸が取れません。図面を参考にしながら客席も含めての劇場空間をイメージングしていただくことになりますが、このシミュレーション作業は演出術に精通していない方には難しいでしょう。これは経験によって培われます。限られた稽古スペースのなかで周氏がどれだけリアリティーを持って劇場空間をイメージングされていたのかは分かりません。
周氏は幽霊役を演じる女性をクローズアップさせたいとの意向をお持ちだったのでしょう。その女性に向け天井から花吹雪を散らす。また、能の舞台を意匠とした橋懸の部分を高くし、その上に幽霊役の女性を立たせスポット・ライトを当てる、というご提案をいただきました。このような演出法は日本の商業演劇の舞台では今日でも行われています。しかし、私はこのご提案を丁重にキャンセルさせていただきました。
「朱文走鬼」の重要モチーフである幽霊に対する台湾と日本のイメージは随分と違います。江戸時代中期に名を馳せた日本画家に円山応挙がいます。彼の画中の女性幽霊は、その妖艶さにより日本の一つの幽霊観を確立しました。 
私は応挙の幽霊のイメージを「朱文走鬼」の幽霊にダブらせてみました。出演者それぞれには直裁的なスポットを当てないことで、各々劇場空間から滲み出るような、奥行き感と品性を備えた存在感を醸し出したかったからです。

私の美術舞台のイメージは、日本を代表する俳人・高浜虚子の俳句に「嵐山(らんざん)の闇に対する 蛍かな」があります。ブラックボックスの劇場に山として鎮座する舞台。暗転の劇場に、舞台側だけでなく客席側からも手燭を持った出演者の入場は「闇の中の蛍」にも見立てられます。闇の中に佇む山は存在の厳かさを示唆し、そのために美術舞台は客席のスペースとの関係を考慮しながら背後の空間を出来うる限りとりました。そこに頼りなくも確かに光る個という存在を対峙させることで、これから始まる「幽霊の物語」を誘わせます。
このイメージを演奏家のリーダーであるジャーワンさんにお伝えし、出演者の入場時に、このイメージに見合う演奏をしていただきました。

また、2006年台北公演ではゲストの芦川の台詞はモノローグで、他の出演者との直接的な絡みはありませんでした。
しかし、パリ公演では演奏家、出演者との掛け合いで行いました。台詞の内容も変えてあります。これは台北とパリとの文化的地盤の違いと、時代性を考慮に入れてのことでした。しかし、一番の理由は台北公演での舞台側と客席側の位相の違いから、パリ公演ではややもすると小じんまりと見える舞台側を出演者全員の絡みのシーンを加えることにより一体感を持たせることで広がりを醸したいが故でした。

初演から15年という時代を経て、携帯電話等によるネットワークシステムの変換から人々のコミュニケーションのあり方が大きく変貌するなか、2020年版の「ガンジン・シアター」による「朱文走鬼」の新たな展開を期待しています。
今回も私達のメンバーが参加させていただけるとのことゆえ、皆様の活動に少しでもご協力できることを嬉しく想っています。



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