序章 1960年代の残響と「完全即興」の地平 |
1960年代、アメリカのジャズシーンの激動の潮流から、既存のコードや楽曲の枠組みを根底から解き放つ「即興」という一つの音楽表現が産声を上げた。そして80年代、欧米の舞台アート界へと鮮烈な旋風を巻き起こした日本発の身体芸術「舞踏(BUTOH)」。この二つの前衛芸術の交錯は、単なる異ジャンル間の交流という生易しいものではなく、表現者が自らの生と身体の根底を賭けて対峙し合う、極限の実験場であった。
私が足を踏み入れることとなった即興演奏の世界には、大きく分けて三つの形態が存在する。第一に「既成の楽曲をベースとした即興」、第二に「コード進行やリズムといった枠組み(スケール)を共有した上での即興」、そして第三に「あらかじめ定められたテーマもルールも一切持たない『完全即興』」である。
私が日本の即興音楽界の嚆矢、コントラバス奏者の吉沢元治氏をはじめとする先鋭的なミュージシャンたちと繰り広げてきたセッションの多くは、まさにこの第三の「完全即興」であった。何の足場も保証されていない真っ暗闇の空間へと生身で飛び込み、音が放たれるその一瞬にすべてを懸ける。そこでは、自と他、演者と観客、果ては音楽と身体という境界線すらもが綺麗に削ぎ落とされ、やがて一つに溶け合っていく「自他不二」の境地が現出する。一見すると偶然の産物のように思える音の連打や静寂は、その極限状態において「それ以外であり得なかった」という必然性(即興即必然)へと昇華されるのだ。
吉沢元治(bass) 友惠しづね(guitar)1985年
かつてフランスのリヨン国立劇場において、オペラ作品の振付を手掛けた際、その批評のあり方に戸惑ったことがあった。コンダクター、オーケストラ、ソプラノ、テノールなどパート別の歌手、舞踏、舞台美術が、作品全体を腑分けするようにそれぞれ個別に評価されていたのだ。これは私たちの舞踏が独自に展開してきた、環境や相手の身体が発する微細な気配を察知し、自らの身体をその場に滑らかに馴染ませていく「渾溶(こんよう)」による振付思想、身体表現とは根本的に齟齬をきたす。
この「渾溶」の身体性を育む原点となったのは、他でもない私自身の生い立ちであった。幼少期から今日に至るまで私を苦しめ続けている喘息による呼吸の苦痛、あるいは青年期に身を置いた過酷な鋳物工場における労働――千度を超える火釜で溶かした真っ赤な湯(とう)を手桶で運び、型へと注ぎ込む、一瞬の気の緩みも許されない熱気と砂埃に包まれた日々。金属を切断する電動鋸で親指の腱を深く切ってしまった際、激痛の中で絶望よりも先に「ああ、これでギターの練習から解放される」という晴れやかな安堵が脳裏をよぎったことすらある。さらには深遠な宗教的背景や、時に自殺未遂にまで自らを追い込む壮絶な自己鍛錬。一見すると表現とは遠く離れた場所にあった過酷な経験のすべてが、巡り巡って私の身体に「言葉や理論に頼らない強固な足場」を形作っていった。そしてその強固な足場があったからこそ、私は癖のある伝説的ミュージシャンたちが放つ強烈な磁場に対峙し、緻密で対等な音と身体の交感を交わし続けることができたのである。
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第一章 孤高の音、破滅の幻影 |
1970年代から80年代にかけての即興音楽界には、既存の社会規範や音楽的秩序を激しく拒絶し、即興というあやふやな境界領域の中にしか自らの生の証明――あるいは死に場所――を見出せない者たちが存在していた。世に言う「破滅型ミュージシャン」と呼ばれる人種である。
1979年、わずか29歳の若さでこの世を去った伝説の即興サックス奏者・阿部薫。凄惨とも言える演奏の最中、彼の皮膚には死斑のような不気味な模様が浮かび上がっていたという逸話が残されている。吉沢元治氏とのデュオアルバム『ノード』は、日本の即興音楽史に燦然と輝く名盤として今なお語り継がれている。しかし、レコードの溝から立ち上る凄絶な音を聴く限り、私にとっての阿部薫は、ただ己の音と世界に自己陶酔しているプレイヤーに過ぎないように思える瞬間があった。
生前の吉沢氏は彼の演奏について、「9割は目茶苦茶な雑音だったが、残りの1割だけは息をのむほど凄まじかった」と回想している。もっともそれは、生前の彼の演奏を正当に認めつつも一定の距離を置いていた吉沢氏が、没後に過度な神格化を遂げていく死者に対して放った、いささかステレオタイプの言葉だったのかもしれない。
常に「いま、ここ」という切実な瞬間に己の存在理由を賭けている表現者の中に、他人が作った出来合いの評価を嬉々として受け入れるような人間は存在しない。彼らの多くは、静かな孤独に深く馴染んでいた。誰もが自分の人生を生きるだけで精一杯であり、たとえ誰かが困窮して路頭に迷おうとも、安易に手を差し伸べる者などいない厳しい世界であったからだ。
この時代、日本即興音楽界の陰のフィクサーとして暗躍したのが、音楽プロデューサーであり批評家でもあった間彰(あいだ・あきら。1980年に30歳の若さで急逝)である。彼は巨額の借金を背負い込みながら自腹を切り、当時海外で前衛と目されていた欧米のトップミュージシャンたちを日本へ招聘しては、日本のプレイヤーたちと引き合わせる刺激的な企画を連発した。当時はジャズ系の海外アーティストといえば、日本のプレイヤーも観客もひれ伏すように注目せざるを得ない絶対的な存在であった。彼がプロデュースした過激な現場からは、後に世界を舞台に活躍するトランペット奏者の近藤等則や、パーカッショニストの土取利行といった才人たちが輩出されていった。
「間さんって、一体どんな人だったんですか?」
かつて私が尋ねると、吉沢氏は短く一言、「ああ……彼は『薬屋』だよ」と吐き捨てるように答えた。そして、寂しげな目を向けながらこう続けた。
俺たちはみんな、間の手のひらの上で転がされていたんだよ。彼が急死して、俺は初めてそのことに気づいた。だけど、いまだに自分たちが転がされていたことにすら気づいていない間抜けが山ほどいる。『自分の力で回っていたんだ』って勘違いしたままでな。……俺はどんなに小さくてもいい、弱くてもいいから、自力で回ろうと思ったんだ」
吉沢氏の言葉は熱を帯びていった。「それは舞踏だって同じだろ。土方巽っていう巨大な独楽回しの手のひらの上で、みんな踊らされていたんだ。あの独楽回しはな、独楽の回転速度が落ちてくるとすかさず紐をピシッと叩きつけて加速させる。それに気づかず、みんな自分の力で踊っていると思い込んでいたんだ。……薬物はダメだな。やってる最中、どこかで『俺は自分に嘘をついている』って自覚があるはずだから」
あるライブの楽屋で、このような出来事もあった。新宿ピット・インの控え室で、「あれ、今日は高木さん(高木元輝。60年代のフランスで『怪物』と称賛された伝説のサックス奏者)は来ないんですか?」と私が尋ねると、周りのプロデューサーやミュージシャンたちが示し合わせたようにクスクスと笑い出した。「いやあ、無賃乗車で警察に捕まっちゃってさ……」と誰かが言葉を濁した。
数日後、当の高木さん本人から私の元へ電話がかかってきた。「友恵さんさ、弁護士費用で20万円貸してくれないか……? 無理なら何でもいいから仕事を回してくれよ。俺、何でもやるからさ」
呆れた話である。私だって金などないし、貸したところで返ってくるはずもないことは百も承知であった。しかし高木さんには、かつて私のレコード録音に参加してもらった恩義があったし、彼が福生のアメリカンハウス(米軍払い下げのアパート)に住んでいた頃、招かれてセッションを行った思い出もあった。私は必死の思いで頭を下げ、急遽3本のライブハウス公演を取り付けた。ところが――あろうことか彼は、決まった会場の一つに対して「うーん、そこはなんか気乗りしないから出たくないんだよね」と平然とドタキャンしてきたのである。彼の気まぐれな子供っぽさを収拾するのには、本当に胃が痛む思いをした。
私は彼の仕事に対する無責任な姿勢を冷ややかに見ていたため、自分のカンパニーの舞踏公演に彼を呼ぶことはなかった。だが、高木さんの危うさを知らないまま彼にオファーを出してしまったある舞踏家がいた。ゲストで呼ばれた初日の公演が「面白くなかった」という理由で、高木さんは二日目のステージをドタキャンした。その後の舞踏公演がどうなったのか、私は知る由もない。良くも悪くも、高木元輝という人のあらゆる行為は、その純粋さゆえにすべてが伝説として語り継がれていくのだった。
高木元輝(sax) 友惠しづね(guitar) 1985年
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第二章 孤高の弓、無頼の鼓動――吉沢元治とジョー水城 |
こうした無頼や破滅の気配が濃密に立ち込めていた即興の現場において、私にとって特別な存在であり続けたのが、コントラバス奏者の吉沢元治氏であり、ドラマーのジョー水城氏であった。
伊豆の駅長を務め、戦時中は地元の名士として「国威発揚」を威勢よく叫んでいたかと思えば、敗戦を迎えた瞬間に手のひらを返して態度を一変させた父親。そんな父親の節操のなさに激怒した吉沢氏は、「腹が立って実家の仏壇に手刀を喰らわしたら、あっけなくボロッと壊れやがったよ」と苦々しく吐き捨てていた。 戦後の混乱期、吉沢氏は中央大学に通いながら、学生ヤクザとして荒んだ日々を送っていたという。ある日、親友を殺害する寸前まで追い詰めたが、手にしていたナイフをうっかり床に落とした鋭い金属音でハッと正気に戻った。「お前、いま本気で俺を殺そうとしたな……」と自分を凄まじい形相で睨みつける友人の顔が焼きついて離れなくなり、それが彼が極道の道を捨て、音楽家を志す決定的な転機になったそうだ。終戦直前、伊豆から東京の方角が真っ赤な炎に包まれて燃え上がる光景を目撃した記憶を抱える彼は、こう語っていた。「戦争という本物の地獄を経験していない奴に、本当の極限なんて出せるわけがないんだよ」
1985年に結成して以来、私と吉沢氏は即興デュオを組み、幾多のステージを共にしてきた。「即興は、一寸先は闇なんだ」「竹刀じゃダメなんだよ。真剣で切り合いをやらなきゃ」が口癖だった吉沢氏は、妥協を一切許さない峻厳な表現者だった。酒席では「こっちがバッサリ切り捨ててやったのに、当の本人は切られたことにすら気づいてねえんだから参るよな」と毒づく。アメリカの借り物ではない「日本的即興」の地平を孤独に切り拓こうとする彼の演奏姿勢に、熱狂的な共感を寄せる観客も少なくなかった。
私と吉沢氏のデュオは、私の舞踏カンパニーが稽古場として借りていた山あいの古い民家で合宿を張り、連日連夜しのぎを削った。彼のベースは、時に弓を激しく擦りつけ、時に特殊奏法で木部や弦の軋みを空間に解き放つ。それは単なる低音の伴奏ではなく、空間の湿度や重力そのものを塗り替えていくような、圧倒的な構築力を持っていた。カンパニーの若手たちにも熱血指導を行ってくれたが、「少しレベルが上がったかと思うと、すぐ元の場所に戻っちゃうんだよな……」と頭を抱えることもあった。感覚だけに頼るのではなく、誰にとっても確固たる再現性を持った身体メソッドを創り上げなければならない――私が演出家としてその決意を固める契機となったのも、吉沢氏との濃密な対峙があったからこそだ。
吉沢元治(bass) 友惠しづね (guitar) ジョー水城 (drams)
その吉沢氏の厳格な刃とは対照的に、どこまでも大らかで、それでいて表現の芯を鮮やかに捉えて離さなかったのがドラマーのジョー水城氏である。私より一回り年長で、「寺内タケシとブルージーンズ」にも在籍した超一流の腕前を持ちながら、飄々とした風貌でいつも周囲を和ませてくれた。 地方のライブで初めてデュオを組んだ終演後、楽屋で煙草をくゆらせながら、ジョーさんは二本の指で私の肩をポンポンと軽く叩き、悪戯っぽく笑って言った。「俺もな、骨までは絶対に切らせないが、たまになら肉くらい切らせてやってもいいかなと思える奴がいるんだよ」 照れ隠しの混ざったその言葉は、私に対する何よりの信頼の証だった。ある時、ゲストとして招いた舞踏公演をいたく気に入ってくれたジョーさんは、数日後のライブで、なんと顔面を真っ白な絵の具で塗りたくってステージに現れた。「ジョーさん、絵の具なんて塗ったら肌が乾燥して大変なことになりますよ!」と慌てる私に、豪快に笑い返したあの顔が忘れられない。私は歌舞伎や芸妓が使う本格的な水白粉を用いた、肌を傷めない舞踏の化粧法を彼に手ほどきした。
晩年は大型トラックのハンドルを握りながら日々の糧を得ていたが、「ガード下の高さ制限を見落として突っ込んだら、荷台が丸ごと吹き飛んじゃってさあ」と笑い飛ばすような無頼の風情の奥に、人に対する繊細で温かな気配りを常に湛えていた。旅先の店先で小さな女の子が鳴らす商品の鈴の音に、指先でそっとリズムを重ねて即興のセッションを始めてしまうような、天性の愛すべき音楽家。噂によれば、夜の営みを豊かにするために下半身に真珠の粒を埋め込んでいたなんて真偽不明の伝説すらあった。カンパニーの団員たちも皆、ジョーさんの大ファンであった。「駅のホームで切符を落としちゃってさ……拾っても拾っても、ずっと落ちているの。駅務室に呼び出されて、飛んできた女房に頭を叩かれてようやく目が覚めたんだ」 彼が切符だと思い込んで必死に拾おうとしていたのは、ホームの縁に描かれた白色の警告線だったのだ。一歩間違えてホームの下へ転落していたら、彼が乗り込むはずだった電車は『銀河鉄道』になっていたかもしれない。
1995年、ジョーさんはアパートの自室でひっそりと息を引き取り、死後3週間も経ってから発見された(享年57歳)。追悼式は老舗ジャズスポット「横濱エアジン」で執り行われた。私は彼の遺品である、先端が少し欠けたドラムスティックを一本だけ形見として持ち帰った。そして、そのスティックの先に白い鳥の羽を一枚括り付け、自宅の同居猫である「にゃん子ちゃん」の遊び道具に使わせてもらった。ジョーさんならきっと、目を細めて笑って許してくれるはずだ。
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| メグちゃん 吉沢元治とキリンプラザ大阪にて |
一方の吉沢氏からも、ある日突然、「香典の前借りをさせてくれ」という冗談のようなライブ案内が届いた。そして、まさにその日が彼の本当の命日となってしまったのである(享年67歳)。吉沢氏の追悼ライブは、新宿ピットインでひっそりと開催された。彼と同居し、マネージャーとして彼の一番の理解者だった愛くるしい女性・メグちゃん(漫画『Dr.スランプ』のアラレちゃんにそっくりで、吉沢氏とは三回り近く歳が離れていた)が大事そうに抱えてきた遺骨が客席のテーブルに置かれ、静かな雰囲気の中で宴が始まった。私は天鼓、大友良英とのトリオでの出演を打診されていたが、どうしても気が進まず参加を辞退した。吉沢氏は私のカンパニーとあまりにも深く結びついていたため、私の代わりとして、吉沢氏と直接コラボしたことのなかった若手団員の加賀谷早苗を踊り手として舞台に立たせた。本人たちは己の美学に酔いしれて生きたのだから本望かもしれないが、その強烈な引力に振り回された周囲の人間はたまったものではない。あのアラレちゃんに似た彼女が、今も幸せに暮らしていることを、私はずっと遠くから祈り続けている。
吉沢元治の切り裂くような重低音、ジョー水城の自在に空間をドライブさせるドラム、そして私のギター。この三人が揃ったステージでは、余計な自己主張や作為は完全に消え失せ、冷徹なまでの静けさと爆発的な運動が美しく同居する、完全な無心の境地が現出した。
吉沢元治(bass) 友惠しづね (guitar) ジョー水城 (drams )
天鼓 (vocal) 姜泰煥(sax) 舞踏:天乃うずみ(友惠しづねと白桃房)
大友良英 (ターンテーブル) 友惠しづね (MIDIギター) 舞踏:友惠しづねと白桃房
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第三章 楽屋裏の洗礼と、身体表現の練磨 |
当時、プライドの肥大化したジャズ出身者が幅をきかせていた即興音楽界には、若手が潜り抜けるべき不躾な「洗礼」が存在していた。とりわけ、アコースティックなフォークギターを抱えて現場に現れた私に対しては、「おいおい、これからフォークソングでも歌うつもりかよ」と鼻で笑うような露骨な蔑視が向けられた。
ある日、5人のミュージシャンによる前半のセッションが終わり、新宿ピットインの狭い楽屋に引き上げてきた時のことである。「後半はどういう段取りでいこうか」という話になった際、ベテランの一人が私の方を一切見ようともせず、とぼけた口調で言い放った。
「駄目な奴から順番に、間引きしていけばいいんじゃないの?」
私以外のメンバーはみな常連の間柄。その刺さるような言葉が初対面の私に向けられていることは明白であった。誰も庇ってなどくれない。まさに針の筵(ムシロ)のような重苦しい空気であった。
しかし、私とて自分にできる限界まで技術を研鑽してきたという絶対の自負があった。最も自分を追い込んでいた時期には、1年間で4000時間以上の練習を重ねていたのである。関節炎で毎朝起きる度に開かない両手を力ずくでこじ開け、ギターを握らせた。潰れた水腫れの奥にはまた新たな水腫れができ、両手指先にはセロテープを貼って弦を弾いた。そこまでの厳しい鍛錬を経てなお通用しないというなら、単に自分に実力がなかったというだけの話である。見栄や背伸びが通用するほど、この世界は甘くない。
ジョー水城(d)友惠しづね(g)のデュオ、途中から坂田明(s)井上敬三(s)吉沢元治(b)が加わる
1988年 新宿 PIT INN
いざ後半のステージが始まれば、すべてを決するのは「現場で鳴らされた音の説得力」だけである。演奏が終わると、私に向けられる共演者たちの態度は一変していた。終演後、私のプレイを「彼、凄いよ」と絶賛してくれたが、そうした類の賞賛の言葉は速やかに脳内から消去するのが無難であった。言葉の浮力に惑わされると、足元をすくわれることになるからだ。
後にサックス奏者の坂田明氏には、私どものカンパニー「友惠しづねと白桃房」の舞踏公演にゲストとしてご参加いただくことになる。1991年の「キリンプラザ大阪公演」以来、2度目のゲスト参加となった1998年の銀座ソミドホール公演(サックス・坂田明、古武術家・甲野善紀、舞踏・友惠しづねと白桃房)でのことである。
普段の踊り手たちは「振付」という強固な枠組みに守られ、同時に縛られてもいる。坂田さんは、そうした踊り手たちの自主性を引き出すための即興企画であるにもかかわらず、現場では経験の浅い若手メンバーたちを自らの身体パフォーマンスでフォローし、シーンを鮮やかに収束させる演出家としての役割まで買って出てくれた。私をはじめ踊り手たちがどれほど多くのことを学ばせてもらったか分からない。ただ感謝の言葉しかなかった。人は結局のところ、人との出会いによってしか育まれないのだという事実を、私は改めて痛感させられた。

坂田明(sax) ―― 舞台中央へ歩み寄り、即興の場を鮮やかに仕切る
一方、舞踏と武術という生きるフィールドこそ異なれど、同じ「身体技術の探求者」として、そして一筋縄ではいかない多義的な表現活動へ果敢に挑み続ける甲野善紀氏に対し、私は強い親近感と同時に抗いがたい魅力を感じていた。そこで甲野氏へ直々にコラボ公演への出演を依頼したところ、彼は快く引き受けてくださった。
甲野氏には私たちの稽古場へ足を運んでいただき、逆に私とメンバーたちも彼の稽古場へお邪魔させていただく中で、私は彼の身体の所作から放たれる、透き通るような凄まじい圧力に思わず慄然とした。奇を衒うような目先の浅ましい欲とは無縁の、どこまでも求道的な彼の実像を肌で体感するにつれ、この男はアート表現のパフォーマーとしても決して一筋縄では終わらない、と確信した。
古武術家 甲野善紀氏 と 友惠しづね 西荻窪稽古場で
相手の資質など一瞬で見抜くことができる。これまではゲストアーティストが誰であれ、その場の即興的な対応ですべてをクリアしてきた。しかし――過去の実績に胡座をかくことの恐ろしさを誰よりも知っているはずのこの私が、である。身体即興技術の開発もまだ半ばで、発展途上の域を出ない若手メンバーたちが、彼の洗練された身体と同じ舞台に立つ光景を思い描き、何度シミュレーションを重ねてみても、彼と対等に渡り合える明確なビジョンがどうしても浮かんでこないのだ。本番までの猶予がない中、私はメンバーたちと徹夜で緻密な稽古を繰り返すしかなかった。
そうして迎えた本番、あるシーンで実にスリリングな現象が起きた。怖いもの知らずの最年少メンバーである加賀谷早苗が、真剣を手にした甲野氏に対して生身の体ごとガツンと挑みかかっていったのだ。それを受け止める甲野氏の、一切の無駄を削ぎ落とした鮮やかな剣捌き。客席も息をのむ圧倒的な光景であった。
だが、公演のラストシーンでのことだ。本来は私たちの踊り手1人と坂田さんによるデュオで幕を閉じる手筈になっていた。「終わりよければすべてよし」とはよく言ったものだが、直前のシーンまでに築き上げた緊張感から明らかにテンションが失速している。このままぬるりと終わってしまえば、それまでの濃密な時間がすべて瓦解し、作品全体が台無しになってしまう。
客席から演出家として舞台を見つめていた私は、即座に照明スタッフへ終わりのタイミングを指示し、すでに出番を終えて楽屋へ戻っていた甲野氏のもとへ駆けつけ、「もう一回、やりましょう」と促した。すると甲野氏は躊躇することなく、すかさず立ち上がってくれたのだ。
少々強引なラストシーンの変更ではあったが、坂田さんも突如として組み替えられた作品の流れに極めて自然に、かつ完璧に応答してくださり、公演は無事に終幕を迎えた。「芯があるけれど、抜けがある」――それこそが、舞台芸能が到達すべき一つの究極の境地だろう。甲野氏が立ったその舞台空間は、まるで余計な不純物がろ過されたかのように透き通って見えた。彼は無駄というものを一切削ぎ落とした、身体の精妙な「肖(あやか)り手」なのだ。そんな人間には、肥大化した自我に塗れた表現者の中ではまずお目にかかれるものではない。
銀座ソミドホール 坂田明(s) 古武術:甲野善紀 舞踏:加賀谷早苗 友惠しづね
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第四章 時代の変容と日常という即興 |
1960年代の狂気を生き抜いたジャズマンたち(マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンといったニューヨークの巨匠たちに魅せられた世代である)の中には、どこかアウトロー的な、ブラックアウトした危険な香りを漂わせる者も多かった。しかし、80年代以降に登場した即興演奏家たちの中に、そうした不健康な退廃を誇る人間は皆無と言っていい。一人としていないのだ。それどころか、日々の体操やフィジカルトレーニングを欠かさず、健康管理に人一倍気を配るようなプレイヤーが当たり前の存在となっていった。
かつて私が共演してきた年上のミュージシャンたちは、50代や60代という若さで早世する人が少なくなかった。しかし現代は違う。健康第一、しなやかな身体管理、中には徹底した菜食主義を貫く者さえいる。昔は「生と死」という重厚な哲学的主題を、そのまま直接アート表現として叩きつけようとする激しい人間が多かったが、現代ではテクノロジーの目覚ましい発達も相まって、多様化する価値観に応じたスマートなコミュニケーションへと人々の関心がシフトしてきているのだろう。
こうした時代の変遷を目の当たりにしながら、では自分自身はどちらの側に足場を置いて生きてきたのかと振り返れば、私のスタンスは明快だった。時代のモードによって表現の様式は変化していくものである。あらかじめ構築された概念や原理を先行させる生き方はそれとして、日々の切実な現場で何を発見し、何を身体に馴染ませ、何に心を揺さぶられるのか――そうした生々しい経験から後付けで原理を導き出していく生き方の方が、私にはどこかすこやかで確かなものに思えるのだ。もちろん、表現者としての私自身には、理論と実践というその両輪が必要不可欠であるのは言うまでもない。だが、何も四六時中、眉間にシワを寄せて真面目一辺倒で生きてきたわけではない。日々ギターの練習に明け暮れる一方、金のない私はたまの息抜きとして、六本木のディスコへ繰り出すこともあった。現場のムンムンとした熱気に煽られ、締め上げたネクタイが汗で固まって解けなくなるほど踊り明かした。「ねー、歳いくつ?」「いくつに見える〜?」などという他愛のないやり取りを飽きるほど繰り返し、酒の勢いで見知らぬ女性と言葉を交わした甘酸っぱい記憶も確かにある。当時の六本木スクエアビルが全フロア踊り場だった頃の眩しい話だ。(同じ時期、赤坂のディスコ「MUGEN」では、舞踏の創始者である土方巽も、女性ダンサーたちを引き連れて夜な夜なフィーバーしていたらしい)。 だが、いくら息抜きをしたところで、遊んでばかりいてはギターなど上手くなるはずもない。不渡り手形の借金を返済するため、雀の涙ほどの賃金で家業の鋳物屋を手伝い、夜は眠気と闘いながらギターを弾き倒す。そんな厳しい現実に引き戻される日々であった。
表現者というものは、舞台の上だけで完結して生きているわけではない。ステージの上の過激な響きと、ふとした日常の素顔。そのギャップの妙味にこそ、人間の愛すべき本質が潜んでいる。
ライブの前半が終わり、楽屋で一息つく演奏者たち。みな煙草をくゆらせ、ビールの小瓶くらいは飲んだりするが、中には酒も煙草も一切嗜まない、生真面目なプレイヤーも混ざっている。 「煙たくて悪いね」と肩をすぼめる共演者に対し、飄々とした爽やかな笑顔を返してくれる男――ステージに上がれば一転して猛獣のように豹変し、過激(時にやり過ぎなほど)な音響を撒き散らすロッカー、灰野敬二その人である。彼は、驚くほどの紳士なのだ。
灰野敬二 吉沢元治 友惠しづね 天乃うずみ(友恵しづねと白桃房)
ステージの上の凄絶な響きと、楽屋裏の素顔。そのギャップの妙味。腹を抱えるような冗談を飛ばす者もいれば、楽屋の隅で斜に構える者もいる。けれど、彼らの意識の深い場所は、驚くほど冷たく醒めている。誰かが「……、そろそろ行きますか」と低く呟くと、全員が無言で立ち上がり、ステージへと向かっていく。
即興演奏の世界において長期間にわたり高いテンションを維持できるのは、案外、人間的に裏表のない素直な人間である場合が多い。楽屋裏で顔色を伺いながらの駆け引きは、表現者にとって致命的なエネルギーの無駄遣いになりかねない。私は楽屋においては、最低限の挨拶以外、余計な喋りは一切口にしない。誰に対してもへらへらとお愛想を振りまいたことなど一度もない。たとえ共演者の可愛らしい女性が別の意味で気になったとしても、声をかけるような勇気など最初から持ち合わせていないのだ。
己の演奏を厳しく見つめる「他者の視線」と、音を奏でている「自分自身の視線」。プレイヤーにとっては、そのどちらも欠かすことのできない重要な眼差しである。しかし、もしその両者を上空から静かに俯瞰するような、第三の視点が存在するとしたら……。それはもはや形だの即興だのという表現スタイルの違いを超えて、表現に身を投じるすべての人間が羨望してやまない、「永遠」という名の視座なのかもしれない。
社会的な規範やアカデミズムといった既成の枠組みが、必ずしも万人に共通する豊かな人生観をもたらしてくれるわけではない。それどころか、あらかじめ与えられた規範に馴染むことができず、そこからはみ出してしまった規格外の感性のエネルギーを、いかにして個人の「個性」として収斂させ、花開かせていくか。それこそが、放置すればすぐに権威主義や既得権益によって硬直化してしまう社会を、内側から活性化させるための強力なエレメントになり得るのだ。
最低限、人間が二人存在すれば、そこにはもう「社会」が成立する。では、完全な一人っきりの状態ではどうか?……かつて長い間、行き着く先も見えないまま部屋に、時に押入れに閉じこもり、ひたすらギターの猛練習を続けていた私を、周囲は「孤絶した人間」と見ていただろう。だが私自身は、頭の中の観念においてであれ、常にまだ見ぬ『誰か』を想定し続けていた。ただ、指先に痛みを突きつけてくる楽器という物質は、私の観念が都合のいい空想へと逃避することを決して許してはくれなかったのだ。
「完全即興音楽」は、決まりきった机上の理論よりも、生身の人間同士が交わす微細な感情の機微を何よりも重んじる。だからこそ、本当の意味での即興演奏家が、ステージ外で高説めいた音楽論をのたまうことなどあり得ない。それは共演者に対する思想の押し付けになりかねないからだ。すべては、目の前の共演相手を尊重し、受け入れることから始まる。それは同じ環境世界の中で、生身の身体を通して交わされる、極めて濃密で純粋な対話そのものなのだ。
私たちが生きる「日常」もまた、無数の即興で満ちている。玄関の乱暴な足音一つで子供の不機嫌を察知し、叱るか、気遣うか、あるいはあえて黙り込む(休符を置く)か――。生身の人間同士が交わす微細なアクションとリアクションの連鎖こそ、日常という舞台を賭けた切実な即興そのものだ。既成のルールや机上の理論に頼るのではなく、目の前の他者が発する微かな気配を受け入れ、自らの身体で即座に応答していくこと。それこそが、人間にとって最も根源的で豊かなコミュニケーションの姿なのである。
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第五章 異文化の足場と身体の対峙――欧米と東アジアの先鋭たち |
1980年代から90年代にかけての即興音楽シーンには、大物海外アーティストたちが続々と来日を果たした。ニューヨークのコンテンポラリー・ミュージック界の寵児として世界的に注目を集めていたサックス奏者のジョン・ゾーンをはじめ、同じくサックスのネッド・ローゼンバーグ、ギタリストのフレッド・フリス、エリオット・シャープ、マーク・スローンといった面々である。
ジョン・ゾーン(s) 吉沢元治(b) 友惠しづね(g)舞踏:翔子(友惠しづねと白桃房)
同じギタリストという立場から彼らのプレイを観察してみると、非常に興味深い事実が見えてくる。フレッド・フリスはまな板の上の野菜を包丁で刻む音など、日常の生活音を音楽へと昇華させる映画制作を手掛けたり、エリオット・シャープは手の指を型取った2つの針金をギターの6本の弦に挟み込んで弾くことで弦を揺らし、ひたすら刺々しいノイズを精緻に鳴らし続けるコンセプチュアルな表現を披露していた。またマーク・スローンやネッド・ローゼンバーグにしても、極限のコントロール下でアコースティックやエレクトロニクスの音響を拡張していく。だが、彼らが自作のコンポジション(作曲作品)で見せる楽器のテクニックは、ぐうの音も出ないほど圧倒的に巧緻を極めており、そして土台が頑丈であった。
Elliott Sharp エリオット・シャープ(g) 舞踏:美斗(友恵しづねと白桃房) 「'96テレプレゼンス TELEPRESENCE」(東京)―(NY)
Ned Rothenberg ネッド・ローゼンバーグ 舞踏:友恵しづねと白桃房
「'96テレプレゼンス TELEPRESENCE」(東京)―(NY)
舞踏、音楽、文楽、モーションキャプチャー、映像によるコラボレーション 「'97テレプレゼンス TELEPRESENCE」ソニービル(東京)―ニッティングファクトリー(NY) 総合プロデュース・ディレクター 友惠しづね
ARFI & TOMOE SHIZUNE & HAKUTOBO リヨンと東京を結んだテレプレゼンス公演 「Near and Distant Meeting, Lyon-Tokyo 」
彼らのプレイの背景に透けて見える「足場(黒人のブルースのみならず、白人のカントリーや移民の民族音楽が濃厚に溶け込んだもの)」の密度の深さに比べれば、欧米のコピー文化を鵜呑みにしがちであった従来の日本人の足場は、あまりにも淡白で薄味に見えてしまうことがあった。
日本人には、自分たちの文化の深層に根ざした独自の足場が必要不可欠なのではないか――そう痛感し続けてきた私は、三味線や龍笛といった伝統楽器を師について学び、周囲から「そんなものは邪道だ」と嘲笑されようとも、ギターという洋楽器を使って三味線や琴、一弦琴、和太鼓、和笛特有のフレーズやテクスチャーを奏でる研究を重ねてきた。
ギターの純粋なメカニカル・テクニックという一点においてのみ言えば、本場のトッププレイヤーたちにも決して負けていないという確固たる自負が私にはある。しかし、表現において真に重要なのは、しなやかで折れない「芯」が演奏者の身体に通っているかどうかだ。それを養うためには、単に演奏技術の練習に励むだけでなく、自分自身の「身体のあり方」を含めた、自他の文化領域への深い探求が必要となってくる。そうしてこそ、戦後アメリカの輸入文化を浴びるようにして育った世代の一人として、欧米のミュージシャンたちの生の実体を正当に捉えることもできるのだ。
では、地理的にも文化・歴史的にも私たちに最も近い東アジアの国々のアーティストたちはどうだろうか。近いからこそ、かえってその微細な「違い」が鮮烈に浮き彫りになってくる。
1980年代後半、未だ自国においてモダン・ジャズすら定着していなかった韓国から、最前衛の即興プレイヤーとして活動していたパーカッショニストのキム・デファン(金大煥)氏や、サックス奏者のカン・テーファン(姜泰煥)氏らが来日するようになった。日本との距離が近く、渡航費が安く抑えられることも手伝って、日本の即興ミュージシャンたちと連携したライブ活動が盛んに行われるようになったのである。
カン・テーファンは、循環呼吸を駆使した独自のノンブレス奏法によって、どこか宗教的な静寂を感じさせる演奏を披露し、日本の即興音楽シーンに強烈なインパクトを与えた(それはもはやジャズというよりは、瞑想音楽と呼ぶべきものであった)。毎朝起きると2時間のサックス練習を欠かさず、夜はひたすら瞑想に耽るのが彼の日常だという。「あなたのメソッドとは何ですか?」と私が尋ねると、彼は静かに「メソッドというものは、表現の後から勝手についてくるものですよ」と返してきた。
カン・テーファン(s) 舞踏:翔子(友恵しづねと白桃房)
一方のキム・デファンは、韓国グループサウンド協会の会長を歴任した音楽界の重鎮であり、同時に微小な米粒の上に般若心経を毛筆でびっしりと書き写すパフォーマンスでギネスブックにも登録された、韓国文化界の伝説的な名士であった。彼は両手の指の間にそれぞれ3本ずつ、計6本のスティックを挟み込むという前代未聞の奏法を編み出し、シンプルなパーカッションから凄まじい音圧を叩き出した。自己紹介を求められると、決まって「黒雨(黒い雨)」と言い切る男。
その佇まいからは、切実な情念めいたものすら漂っていた。私より一回り年上の彼ら韓国のプレイヤーたちには、一筋縄ではいかない強烈な骨太さがあった。演奏のオリジナリティという点において、際立った独創性を備えていたのである。
同じ仏教や儒教のカルチャーを共有する東アジア圏とはいえ、どこか自然との調和を好む日本の浄土教や禅(茶道や華道に繋がる世界観)と、彼らの演奏から放射される野太い迫力とでは、音の質感が根底から異なっていた。儒教的思想が日本より色濃く残るといえども、単に頭で『四書五経』を読んでいるだけの日本人が、彼らが自身の歴史(戦前の日韓関係も含め)を血肉化させている生々しい精神性には安直に同調し得るものではない。
私自身、純粋な創作上の興味とは別に、「自分自身が一体何者であるのか」を根底から洗い直すために、異文化コミュニケーションとしての即興コラボを精力的に推し進めていった。そうした流れの中で、私たちはキムさんやカンさんをゲストに招き、自らの舞踏公演を開催することとなった。
……が、企画が決まった後で冷静になって考えると、これはとんでもなく難易度の高い挑戦であった。私のカンパニーの若手アーティストたちが、彼らのような怪物的な個性を放つミュージシャンと渡り合えるだけの身体を備えているだろうか? しかし、既に公演のチケットは売り出され、ポスターも街に貼り出されている。この公演のプロデューサーは私自身だ。私が何としてでも、この船を目的地まで導かなければならない。
キム・デファン、吉沢元治、友惠しづねによる即興演奏 『眠りへの風景』(キリンプラザ大阪)
1994年、パーカッショニストのキムさん、そして韓国を代表する現代美術家のユック・クンビョン(陸根丙)さんとの共演作品の打ち合わせのため、私とメンバー数人はソウルへと飛んだ。現地ではみな温かい笑顔で私たちを大歓迎してくれた。
しかし、酒宴の席で打ち解けてくると、やはり避けては通れない歴史の影が顔を覗かせるのだ。同席していた韓国人スタッフの一人が、ふと真顔になって囁いた。
「韓国語のウラミには二つの種類があるんです。『怨み』は時間が経てば忘れられますが、『恨(ハン)』の感情は、決して消えることはないのです」それが戦前の日本による歴史の記憶を指していることは重々理解できた。私としてはどう言葉を返していいか分からず、ただ沈黙するしかなかった。私の複雑な表情に気づいた彼らは、「もちろん、一般の国民に罪はありませんよ。悪いのは当時の国家ですから」とフォローを入れてくれたが……。90年代の出来事とはいえ、韓流ブームが定着した現代においてすら、そうした割り切れない感情を胸の奥に抱えている人々は少なくないのだろう。近年であっても、ライブで訪れたソウルで、見知らぬ老人から不意に「豊臣秀吉」の名を突きつけられることすらあるのだから。
戦後一貫してアメリカやイギリスのポップカルチャーを素直に享受してきた私たちと、長らく軍事政権の重圧下に置かれ、他国のカルチャーに対して強い警戒感を抱かざるを得なかった韓国の人々とでは、文化に対する根本的なスタンスが異なっている。私より一回り以上年上のキムさんにしてもカンさんにしても、欧米のジャズやポップスの影響を受けつつも、それを咀嚼し育んできた土壌の違いが、奏でられる音の表情に端的に表れていた(韓国では長期間にわたり日本のポップスや歌謡曲の販売が法律で禁止されていたため、独自の純度で進化を遂げていたという背景もある)。
「騎馬民族である韓国人と、農耕民族である日本人とでは、身体に染みついた根本のリズムが違う」といった批評が当時はよく囁かれていたものだ。そうしたアート上の表現の違いとは別に、現地での接待の席で印象的な出来事があった。同席していた咥え煙草をした年長の方からすっと顔を向けられた私は、咄嗟にライターの火を差し出した。それはどこか、厳格な儀式に参加させられているかのような緊張感を伴っていた。
若者は年長者に対して静かに火を捧げる。若者や女性が目上の人間とお酒を交わす際には、横を向き、袖で杯をそっと隠しながら飲み干す……。日常の細やかな立ち振る舞いの中に、日本よりも遥かに濃密な儒教的道徳が息づいていた。無意識の底に燻る「恨」の記憶か、あるいは民族としての深い自己省察の歴史か。いずれにせよ、カンさんやキムさんが発する音の質感は、日本人の鳴らすそれとは根底の部分で明確に異なっていたのだ。
キムさんを迎えての本番。ステージ上でキムさんのパーカッションと私のギターが激しく火花を散らすシーンにおいて、私は何の不都合も感じなかった。相手の発する圧倒的な「音圧」を前にした瞬間、私の意識は自動的に完全な無心へと切り替わるからだ。剥き出しの身体でぶつかってくる本物のプロに対しては、こちらも全身全霊で正面から向き合う以外に道はない。そこに一切の無駄な駆け引きは存在しないのである。
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第六章 即興と舞踏を結ぶ空間と時間の演出論 |
コラボレーション創作の絶対条件は、互いの心身が透明で「浄」な状態に保たれていることである。だが最大の課題は、うちのカンパニーの踊り手たちに対する演出であった。
一流の即興ミュージシャンと舞台上で対等に渡り合い、尚且つ一つの作品として纏め上げるだけの身体技術を、団員全員が備えているかと言えば……残念ながらそれは極めて厳しいと言わざるを得ない。ステージの上に踊り手がいて、演奏家がいる。「さあ、みなさんご自由に表現してください」と野放しにしたところで、そんなものがまともな作品として成立するはずがないのだ。そこで重要になってくるのが、踊り手・演奏家両者が自然に共有できる「空間環境」と「時間環境」の設定である。
第一に「舞台美術を含めた空間の再構築」である。どんな立派な劇場であれ、何も手が加えられていない更の舞台空間は、無遠慮かつ無骨に独自の主張を撒き散らしている。演出家はまず、その舞台空間を自分がコントロールすべき舞台環境へと手懐けなければならない。これは舞台芸術全般に共通する鉄則である。
 美術の質感と色彩を身体に感応させ、空間と一体化する 『眠りへの風景』(キリンプラザ大阪)
ただし、即興演奏家とのコラボにおいては、通常の公演とは異なる特殊な配慮が求められる。演奏家を舞台上のどの位置に配置(ポジショニング)するかによって、踊り手との身体的な距離だけでなく、客席の観客も含めた劇場空間全体との関係が一変し、結果として彼らの紡ぎ出す演奏内容そのものが劇的に変化してしまうからだ。
そして第二の課題が、「作品の時間的構造(タイムライン)」の設計である。現代アートにありがちな「実験」という便利な言葉の陰に隠れ、自己満足に満ちた身勝手な作品を「難解さ」を言い訳にして観客に押し付けるような姿勢を、私は心底憎む。アングラ演劇の巨星・寺山修司は「退屈は悪だ」と言い切ったが、私もその意見には全面的に同意する。ただ演劇と違い言葉が介在しない私たち舞踏の舞台の場合、出演者たちは言葉を一切使わず、身体の雄弁さだけで勝負する点が異なっている。
明治の文明開化以降、日本の演劇界が西洋から輸入し血肉化してきた作品構成の代表的な型は「起承転結」であった。しかし、60年代後半に寺山修司や唐十郎らが巻き起こした小劇場運動において、彼らが用いた構成手法は一風変わっていた。一見すると互いに何の関係もないように見える短く断片的なシーンを脈絡なく列挙し(現代美術のコラージュ手法に近い)、それらを唐突に連携することで観客を少しずつスリルへと巻き込み、最終的に鮮やかなカタルシスへと誘導していく。この構造は、大枠で見れば日本の伝統芸能である「能」の構成美「序破急」と見事なまでにシンクロしているのだ。
私の舞踏作品の構成もまた、様々なバリエーションを持ちながらも、短く濃密なシーンを時系列に繋ぎ合わせ、全体として「序破急」の大きなうねりを作り出していくスタイルをとっている。また、私の場合、公演の音楽を作曲する者として、メインテーマやサブテーマとなる楽曲を作品の中で数回繰り返し(アレンジを変えながら)登場させることで、全体を一本の太い骨組みで貫くようにしている。
ゲストミュージシャンを迎えたセッション作品においても、この「短く区切られたシーンの連続」という構成手法が絶大な効果を発揮する。 例えば、ミュージシャンがA、B、Cの3人、踊り手がa、b、c、d、eの5人いたとする。1シーン目ではミュージシャンAと踊り手a、b、cが絡む。2シーン目ではミュージシャンB、Cのユニットと踊り手d、eがぶつかり合う……といった具合に、シーンごとに出演者の組み合わせを変化させていくのだ。
この構成は、ミュージシャン側にとっても非常に評判が良い。他のプレイヤーのパフォーマンスを客観的に観察しながら作品全体の大きな流れを把握でき、自分の出番においては限られた時間にすべてのエネルギーを集中させることができるからだ。観客にとっても、めまぐるしく展開するシーンの変化によって舞台が常に活性化されるため、「即興と舞踏」という難解に思われがちなコラボレーションを、スリリングではあるが受け入れやすいライブ作品として楽しむことができる。(1989年の第1回「池袋演劇祭」において、私たちの即興ミュージシャンとのコラボ作品が優勝を果たしたのは、まさにこの時空間構成の成果と言える)。

1989年の第1回「池袋演劇祭」スタジオ200 舞台写真と図面
そして何より踊り手たちにとって、1回の出演時間が短く限定されることで、作品全体の重圧に押し潰されることなく、目の前の自分たちの出番だけに全神経を注ぎ込むことができるという最大のメリットがあった。
もちろん、作品を美しく着地させたいというのは、演出家としての切実な想いだ。しかし、客分であるゲストミュージシャンに対して「こういう演奏をしてください」などと口を出せるはずもないし、そんな野暮な注文は一度たりともしたことがない。かといって、手塩にかけて育てた身内の団員たちの崩れた姿も見たくはない。何より、公演の評価という最終責任を負うのは主催者である私たちカンパニーなのだ。私が自軍の踊り手たちに即興の立ち回りを事細かに指示することには十分な正当性があるし、共演するミュージシャンたちもその意図を深く理解し、納得してくれていた。すべては、「即興=必然」という高みの作品を成立させるためである。
コラボ・ライブのプロデュース公演において、私は即興であってもゲストミュージシャンが放つ音の定位をあらかじめ予測している。相手の身体の構えや表情を一目見れば、その人間がプレイヤーとしてどのような資質を持っているかは瞬時に見抜けるからだ。 もっとも、これは私に限った特殊な能力ではない。即興に関わるミュージシャンという人種は、共演相手の出方を異常なまでに警戒し、現場での神経を極限まで研ぎ澄ませている。相手の身体を見ただけでその資質を察知してしまうのは、自身も踊り手として舞台に立つ私特有の習性かもしれないが、多くのミュージシャンもまた、リハーサル時の音出しの感触から無意識のうちに相手の呼吸を掴み取り、自らの演奏における心身の構えを整えているものなのだ。
ここで、私が本番直前に踊り手たちに与えていた具体的な指示の一例を紹介しよう。ニューヨーク公演でのこと。初対面のサックス奏者と共演する際、私は出番前の踊り手にこう耳打ちした。
「あのサックス吹きはね、君が自分の演奏にどう反応するかを試すために悪戯心で、演奏の途中で必ずスロー・バラードに切り替えてくるよ。その時、素直にユッタリと楽調に合わせて踊ったら、『なんだ、こいつは俺の音に従うだけの者か』と見下されるから、その時は早い踊りで対応するの。意表を突かれた相手は演奏の切り替え時からテンションを上げてくるよ」と。
本番、私の予言は寸分違わず的中した。こうした現場での冷徹な予測とリスク管理ができて初めて、舞踏コラボの演出家としての役割を果たせるのだ。 私自身が音楽家でもあるからこそ、現場に立つ共演ミュージシャンの心理は痛いほど理解できている。そしてミュージシャンの側も、「この演出家は俺の企みを見抜いているな」と察するからこそ、微笑みながら余計な駆け引きを捨て、安心して己の演奏に集中できるのだ。 出演者全員が安心して暴れ回れる「明確な足場」を整えてあげること――それこそが演出家の唯一にして最大の使命である。さもなければ、誰もその現場に積極的に関わり責任を持てなくなってしまうからだ。即興という荒野に身を投じるプレイヤーたちは、みな驚くほど心を開いているピュアな表現者たちなのである。
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第七章 地蔵体の構えと、永遠への対話 |
再び韓国のアーティストたちとのセッションに話を戻そう。
噂では聞いていたが、日本という異国で産声を上げた「舞踏とは一体何なのか」を、どこか探るような鋭い視線を投げかけてきていたカンさんやキムさん。彼らとの共演にあたっては、事前のシミュレーションに長い時間を費やすこととなった。
通常、初めて共演するミュージシャンとのコラボにおいて、あらかじめ彼らの音源(CDやテープ)を稽古場で流しながら踊りの練習をするような真似は絶対にしない。録音された過去の演奏から得られる彼らの演奏スタイルやテクニックといった情報は、ナマの現場においては役に立たないばかりか、むしろ有害ですらあるからだ。 しかし当時の私は、韓国のミュージシャンたちが抱え持つ特有の音の深みや、その背景にある歴史の重量感を読み切り切れずにいた。試しに彼らの録音テープを稽古場で流し、団員たちに踊らせてみたところ、案の定、結果は散々であった。音と身体が、噛み合わないのだ。「日本人の体とは何か」を身体アート・舞踏のテーマとして考え続ける私には、大きな課題が突きつけられることとなった。
悩み抜いた末に私がたどり着いた答えはこうだ。あらかじめ意図や自己主張を持って音に対抗しようとする思念を一切捨てること。目の前の相手を丸ごと受け入れる柔軟な身体のあり方――権力や権威におもねることもなく、ただそこに佇み、置かれた自然環境と静かにシンクロし続ける「お地蔵さん」のような身体。私が提唱したこの「地蔵体(じぞうたい)」という身体の構えで本番に挑もう、と団員たちに提案したのだった。 日々の瞑想を日課としていたカン・テーファンとの共演現場において、この「地蔵体」というアプローチは、奇跡的なまでの深いフィット感を見せることとなった
 地蔵(東京杉並区) 写真撮影:入沢サタ緋呼(友惠しづねと白桃房)
4日間にわたる公演の3日目、演出に多忙を極めていた私が満を持してステージに上がった。キム・デファンのパーカッション、吉沢元治のベース、そして私のギターによるトリオの即興セッション。その激しい演奏が終わった瞬間、それまでどこか警戒の色を解かなかったキムさんの表情から硬さが消え、私とカンパニーに対する視線が、一気に温かい親愛の情へと変わったのを皮膚で感じた。言葉を超え、生身の身体と音を媒介として交わされるこうしたアートコミュニケーションこそが、私が生涯をかけて模索し続けてきた「真の異文化交流」の姿なのだと確信している。
この時の貴重なセッションの模様は、2012年に制作された美術家ユック氏の映像とのコラボDVD作品『眠りへの風景』の中に収録されている。この演奏に対し、韓国で名のある音楽誌『jazzpeople』は非常に熱のこもった批評を寄せてくれた。
「舞台の上には、金大煥先生のトレードマークである黒いシャツとサングラス、そして中折れハットが佇んでいる。先生の放つ圧倒的なカリスマ性は少しも衰えていない。吉沢はボウイングや特殊な擦弦技法を駆使して音のテクスチャーを立ち上げ、既存のコントラバスの限界を軽々と突破しながら全体を力強く牽引していく。音の変化の主導権を握っているのは吉沢だが、金大煥と友恵しづねの放つ強烈なエネルギーが、サウンド全体の美しいハーモニーを見事に結実させている。友恵は陸根丙との対話の中で『一念三千』という言葉に言及しているが、彼らがその瞬間に醸し出した凄絶なサウンドこそは、まさにその深遠な世界観を瞬時に凝縮してみせたと言えるのではないか。短いながらも、あまりにも深い余韻を残す名演である」
大絶賛と言っていい内容であった。言葉の端々から感じられる美意識には、日本の音楽一般に対する批評体系とはまた異なる、どこか土着的聖性を感じさせる深い熱量が込められていた。
 「田の神さぁ」石像(鹿児島県) 写真撮影:入沢サタ緋呼(友惠しづねと白桃房)
2004年にキム・デファンさんがこの世を去った後、「金大煥メモリアルコンサート」が毎年3月1日(かつて韓国が独立運動を起こした歴史的な記念日である)にソウルで開催されるようになった。
生前のキムさんを深く慕っていた韓国のミュージシャンや舞踊家をはじめ、日本からも能楽鼓奏者の大倉庄之助氏、石笛奏者の横澤和也氏、ハープ奏者の中野智香子氏といった才人たちが集結した。私たちのカンパニーからも加賀谷早苗、天乃うずみ、入沢サタ緋呼らが、韓国の国民的歌手であるチャン・サイク氏の主宰による同コンサートに2012年から2024年にかけて毎年参加し、私の作曲した楽曲に乗せた舞踏の披露にとどまらず、数多くの韓国伝統芸能の担い手たちと白熱のセッションを繰り広げた。韓国の国民的歌手チャン・サイク氏の魂を揺さぶる歌声と、韓国舞踊の巨匠・河龍富(ハ・ヨンブ)氏、そして私たちの舞踏が舞台上で交錯した瞬間の熱量は、国境や歴史の壁を越え、純粋な身体の祈りとして昇華されていった。日本人としての生き方、その一つの切実な表現として舞踏という責任ある表現を抱え、メンバー一人ひとりの生身の身体を通して韓国の地で提示し続ける機会を得られたことを、私は心から誇りに思い、嬉しく感じている。
第12回金大煥メモリアルデー ~ 歌と韓国舞踊と舞踏の共演 ~
歌:張思翼(チャン・サイク)氏「西風賦」 韓国舞踊:河龍富(ハヨンブ)氏 舞踏:加賀谷早苗 会場:民俗劇場風流(ソウル)
チャン・サイク氏ショート・インタビュー 聞き手:加賀谷早苗
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第八章 空間を変容させる小杉武久 |
さて、ここでもう一人、私とカンパニーが即興コラボのゲストとして迎え、80年代後半以降の日本の即興音楽シーンを語る上で外せない、極めて異彩を放つヴァイオリニストをご紹介したい。小杉武久その人だ。
1985年8月、新宿伊勢丹デパートの裏にあったジャズ・ライブハウス「ピット・イン」での来日後初となるステージで、私は彼と共演した。当時の彼の第一印象は、とにかく「誰も拒絶しない人」というものだった。共演者はもちろん、客席にいる観客の一人ひとりに至るまで、その場に存在するすべての空気と状況を丸ごと包み込もうとする凄まじい包容力を、彼は身をもって実践していた。それはプロとしてのサービス精神といった生ぬるいものではなく、「客席のあなたもまた、この演奏の不可分な共演者なのだ」という強い美学に基づいたスタンスだったのだ。
客席の観客すらも強制的に表現の共演者へと巻き込んでしまう、規格外の音楽性を持った男。彼は現代音楽の巨匠ジョン・ケージとともに、アメリカを代表するコンテンポラリー・ダンス「マース・カニングハム舞踊団」の専属音楽家を務めていた。彼らの公演において、舞台と客席との間に横たわるオーケストラピットに陣取った小杉さんは、単に舞台上のダンサーのために伴奏を奏でるという従属的なスタンスとは全く異なる、強烈な「個」としてのフェーズを身体に宿していた。それこそが、ジョン・ケージが提示した現代音楽の革命的なあり方を、まさに体現していたと言える。舞台の上のパフォーマーを客席から鑑賞させるという特権的なプレイヤーの構造を、彼は頭のコンセプトではなく、持ち前のチャーミングな人間性によって自ずと解体してしまうような、軽やかな演奏スタイルを実践していたのだ。大劇場で行われるダンス公演の最中、あろうことか彼は納まるべきオーケストラピットを軽々と抜け出し、観客が埋め尽す客席の通路を悠々と歩きながら、手にした自作の発信機でノイズ音を撒き放つという、劇場空間そのものの意味を変容させてしまうようなパフォーマンスを平然とやってのけた。
小杉武久 Kosugi Takehisa Improvisation Music & Butoh 『風に寄りそう女』(スタジオ200)
1994年、その「マース・カニングハム舞踊団」の公演が開催された翌週、NYのダンス専門劇場「ジョイス・シアター」で、私たち舞踏カンパニーの単独公演が控えていた。カニングハムの終演後、楽屋で顔を合わせた小杉さんは、気さくに声をかけてくれた。「僕、来週からはヨーロッパツアーに旅立っちゃうから、友惠さんたちの公演を観られないんだよね。……この劇場は客席が狭いからさ、空間の使い方が……」 そこまで言ってから、小杉さんは「まあ、僕が余計なアドバイスをするのも野暮だよね」といたずらっぽくニヤリと笑った。
この小杉さんの言葉は、私にとって極めて切実な問いを突きつけていた。「ジョイス・シアター」は客席数470ほどのモダンで洗練された劇場だ。しかし、舞台の床面が幅6m、奥行き3.6m、天井高3mに満たない稽古場公演で作り上げられた土方舞踏を継承する私たちからしてみれば、幅13m、奥行き10.82m、天井高6.4m――舞台体積にして実に14倍も違う、途方もなく壮大な舞台である。この巨大な空間を前にして、私たちは一体どのように立ち向かうべきなのか。演出家である私は、従来の舞踏が抱えていた構造的欠陥と真っ向から対峙せざるを得なかったのである。
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第九章 舞踏の「型」と実地現場の決定的な乖離 |
ここで少し、歴史の話をしなければならない。70年代半ば、土方巽の稽古場公演は、彼が考案した振り付け法によって舞踏で初めて作り上げられたメソッドでの公演として高い評価を得た(しかし、土方が意匠として用いた「白塗りメイク」によって定着した舞踏の型に追随した今日までの自称舞踏家たちで、未知なる身体表現のための実験的な行為や、新たな身体表現のメソッドを提示しようとする者は、今日まで私以外誰もいないというのが実情だ)。
80年代初め、舞踏が海外で注目され、その創始者として土方の舞踏が臨んだ1983年のヨーロッパ5カ国ツアーにおいて、現地の批評家たちが下した判定は残酷なまでに辛辣であった。
「土方=芦川ダンスグループは、観客をどうしようもなく退屈な状態に取り残した 。古い汚れた布に身を包み、アメリカのテレビ番組のような音楽の伴奏で一人がなめくじのように這い出るとき、笑いを禁じ得ない。観客が必要としたのは、カルチャー・ショックを克服する助けとなるような説明であった」(『ノティンガム・プレイハウス公演評』)
「この公演は、我々にとって恐ろしい経験となった。そこで出会ったものは西欧音楽の最も俗っぽい効果の累積――電子ノイズや安っぽい映画音楽の断片が混沌と一体化したものにすぎない」(オランダ・フェスティバル『アムステルダム公演評』)
「<日本の乳房>にはある種の期待はずれを感じざるを得ない。この舞踏の創始者は沈黙を破るべきではなかった。彼はもはや何も言うべき事を持っていない」(ジャン=ピエール・パストリ/『ジュネーブ新聞』)
「観客の頭を混乱させ、すっかり疲労させてしまった。暗黒舞踏が不透明と不明瞭と醜悪の演劇を現出させるつもりならば、その目的は完全に達せられたとすべきだろう」(オランダ・アルへメン・ダフブラト新聞)
なぜこれほどの惨敗を喫したのか。原因は極めて単純だった。土方の舞踏メソッドは振り付け法においては斬新であったが、実際の劇場における「演出法」に関しては全くの手付かずだったからだ。演出法と舞台環境の統制を完全に欠落させたまま、密室の狭い稽古場で作られた踊り手と等身大の「型」と「白塗り」のイメージだけを大劇場の空間に放り投げてしまったのである。
 土方巽作品 稽古場公演『ひとがた』
それまでの土方公演は主役1人と10人から20人ほどの脇役たち(ほぼレッスンを受けて数ヶ月のビギナー)で行われていた。しかしヨーロッパ・ツアーでは主演の芦川羊子と、衣装替えの間を繋ぐ元団員1人の、計2人しか出演者がいなかった。失敗の原因を「出演者の少なさ」だと分析した土方は、85年の「舞踏フェスティバル」を見送り、87年に予定されていた「銀座セゾン劇場杮落とし公演(キャパ700人)」の団員集めのために講習会を連発した。
それでも不安を拭えなかったのか、ゲスト出演を視野に入れ、元来「人たらし」として知られていた土方は、東京で燻る40歳前後の中堅舞踏家たちへ終日酒を飲み交わす懸命の「営業」を行ったのだ。「俺は不死身だ」と豪語していたものの、元々下戸の彼が酒席で若手に勝てるはずもない。この過酷な酒席が畳み掛け、肝硬変によって土方の寿命を一気に縮める直接的な原因となってしまった。土方のヨーロッパ公演の失敗という事実は、私が当カンパニーに関わった当時は一切知らされていなかった。東京の舞踏界全般も同様だ。海外での成功は大々的にアピールするが、失敗の記録は綺麗に隠蔽される。
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第十章 演出なき「イメージ」の限界と、身体技術の再構築 |
土方は主演の踊り手を「闇の舞姫」と名付けたことからも分かるように、踊り手を境界領域に生息する「異形」のキャラクターに仕立て上げ、詩的なコピー言語で脚色して「舞踏」を現代アートとしてプレゼンテーションすることに拘り続けた。そのために考案された振り付け法は踊り手の身体の前面だけに注視した等身大のものであり、側面や背面への関心は皆無だった。
私が自らの振り付け法を根本から見直すことになったのも、まさにこの点においてである。土方の手法だけに頼っていては実際の舞台作品など到底成り立たないという厳しい現実に、創作の現場で直面し続けたからだ。
土方は過去の限定された時空間での成功例にすがっていたため、ヨーロッパ・ツアーでも狭い稽古場公演と同じ高さ180cmのパネルを並べただけの舞台美術しか用意しなかった。それは加山又造の「夜桜」を模し、桜の花びらのスタンプを押しただけのものだった。自作の楽曲やライブ演奏も用意せず、音響や照明の操作手順すら確立していなかった。土方から突然演出を託された芦川も、作品を作った経験などあるはずがない。演劇には「台本・役者・演出」の3要素が必要だが、舞踏界には「初めに舞踏家ありき」という超越的な幻想だけが肥大化していたのだ。だが、リアルな現場は観念など容易く粉砕する。失敗を知らされた土方は芦川を稽古場の階段から突き落としたというが、本質的な原因は、土方自身が自ら作った舞踏の技術的限界を理解していなかったことにある。
土方亡き後、私たちはその「型」の先にある、実質的な舞台芸術としての舞踏をゼロから構築し直さなければならなかった。1989年、利賀フェスティバルで発表した『皮膚宇宙のマグダラ』において、その格闘の成果はすでに確かな兆候として捉えられていた。
「現在、友惠しづねを中心に創作に打ち込む『白桃房』の舞踏の中に土方舞踏を継承しつつも、新しくより普遍性を持った形で発表し始めた舞踏の可能性を見る思いがする」(立木燁子/『シアターアーツ』)
そして迎えた1990年、5ヶ月をかけて精緻に創り上げた『蓮遥(れんよう)』の初演(松本演劇祭)は、目の肥えた舞台関係者たちを深く揺さぶることとなった。
「白桃房の舞台から立ち登った、あの懐かしい感じは一体なんだろう。……観終わった後、痺れるような感覚の奥に、ふっと湧き上がる柔らかなものを実感した。それは厳しさと優しさに包まれ、冷たさと温かさに支えられている古い記憶にまつわる感情だ。なつかしさのようなもの、アイデンティティーの零度といってもいい。上演された三十六作品のなかで最も強烈にオリジナリティを発揮した舞台であった」(『第四回松本現代演劇フェスティバル』公演評)
巨大な劇場に対応するためには、踊り手の身体のあり方を根本から、極めて論理的かつ緻密に見直す必要があった。舞台上の音響や照明は、単なる背景や装飾ではない。私はかつて『ジャズ批評』誌上(「音場と身体」1992年)において、音と身体が切り結ぶ空間のあり方をこう記した。
「舞踏空間の中の音は『音場(おんじょう)』という肢体を持って、他の舞台要素と共に生息している。これと積極的に共存するため、身体じゅうに幾つもの目を張り巡らせる『身体の拡張と収縮』が必要とされるのだ。
遠くの山間を眺める目と、足元の草花に見惚れる目とでは、感情と距離の違いによって視線の質感がまるで異なる。このとき視線は対象まで拡張している。舞踏の身体には、その視線のような感知器官が全身に張り巡らされていなければならない」
身体を取り巻く空間環境のすべてと能動的に即応し、空間の果てまで自身の知覚を押し広げていく技術――それが私の提唱した「身体の拡張」であった。
空間を統制する演出と、その環境に全身の皮膚感覚で呼応する「身体の拡張」。この両輪が噛み合って初めて、巨大な劇場の気圧に呑まれることなく舞台を成立させることができる。しかし、当時この身体技術を十全に体現できたのは私一人であった。土方舞踏の「観念」に浸ることで満足していた者たちは、ことごとく取り残されていったのである。私は土方舞踏を継ぐ者として、先人の作業を冷徹に見直さざるを得なかった。
実際、舞踏のもう一人の創始者である大野一雄さんや、息子の慶人さんが「みんな自分、自分で……やる気があればできると思っている」と講習生の意識の低さを嘆き、私に愚痴をこぼしていたのも無理はない。大野一雄さんに至っては、「今の私には準備ができていません。準備ができたら、ご一緒させて頂けるのに」と悲痛な言葉を漏らされたほどだ。
 大野一雄先生と友惠しづね
大野慶人氏へのインタビュー 聞き手:加賀谷早苗
それでも私は、土方を信じている。土方が奇抜な稽古に怯える講習生たちに対して言い放った「人生に予行演習はないんだよ」という言葉は、人生への普遍的な箴言そのものであった。例え彼のアートへの志向が対外効果を優先するあまり、安直な手法に落とし込まれていたとしても、舞踏を自立した身体表現として確立しようとした真摯な姿勢だけは本物だったからだ。だからこそ私は、彼が残した「型」の先にある、実質的な舞台芸術としての舞踏を構築しなければならなかったのだ。
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第十一章 異世界としての舞台アートと、照明という戦場 |
それまで私が演奏活動をしていたライブの現場では、プロの演奏家に対してスタッフは至れり尽くせりだった。楽器一本抱えて行けば事足り、わずかであれ確実にギャラが出た。しかし、舞台アートの世界はまったくの「異世界」だった。身銭を切って劇場を借り、舞台美術や衣装の制作に膨大な労力と費用を注ぎ込み、メンバー総出で何千枚ものチラシを配布・発送する。
音響は身内の私が担当していたのでコストは抑えられたが、最大の課題は舞台シーンにダイレクトに関与する照明だった。当時の多くの照明家たちは自らの技術を「専売特許」のように囲い込み、機材に触ろうものなら一触即発の空気が流れた。手伝っていた実家の鋳物屋の職人たちが「技術は盗むものだ」と呟いていたのを思い出し、私は頼んだ照明家の仕込み配置や回路図面をノートに几帳面に記譜し、独学でアンペア計算やセッティング方法を叩き込んだ。十数キロの機材が落下すれば大事故になる。照明の重要性を痛感した私は、メンバーに生活費のためのアルバイトをやめさせ、照明専門学校に通わせて資格を取得させた。
外部の照明家とのやり取りは、毎回が真剣勝負だった。作品の流れを追いながら踊り手を舞台に立たせ、私が操作する音響とのタイミングを図りながら一つひとつ明かりを決めていく。ほぼ二分ごとに場面転換を要請する私の演出では、二時間の作品であれば実に六十回ものキュー出しを行うことになる。照明家はその都度操作手順をノートに書き込み、本番ではすべて手作業による過酷な操作を強いられた。創作に対して一切妥協しない私に対し、「あんたほど注文の多い演出家は他にいない」と言い放ったのは関根一郎氏である。私より一回り年長だった関根氏は、当時舞台アートの素人だった私の無茶な要望を真正面から受け止めてくれた、照明技術者としての唯一の師であった。
 照明卓につく関根一郎氏(右)と、音響卓を操作する友惠しづね(左)
そうした試行錯誤を経て、やがて照明操作もカンパニーの内部で柔軟に賄えるようになっていった。そして、私が舞台に出演する際の音響操作も、入団早々の加賀谷早苗が見事に応えてくれた。日々刻々と変わる私の変則的で繊細な指示に対応し、音を舞台上の生き物として「見る」――そうした直観的な身体感覚を備えていることこそが、私の舞台における音響操作の絶対条件だった。
1990年、5カ所のアメリカツアー公演では、私が演出・振付・照明・音響をすべて一人で兼任し、現場の図面から具体的ビジョンを読み取って現地スタッフへ的確な指示を出した。現地スタッフからは「友恵の笑顔が一回でいいから見たかった」と苦笑されたが、プロとして完璧な舞台を作ることに全神経を集中させていたのだ。この過酷な現場処理能力の体得こそが、その後展開する私たちの海外公演の確固たる足場となったのである。
なぜ本稿で舞台照明の構造を語るのか。それは、演奏家と舞踏家の「即興コラボ」において、照明や音響のセッティングを固定(変化させない)することが絶対のルールだからだ。演奏家は踊り手の身体だけでなく、空間全体の環境を感知して音を繰り出す。照明が途中で勝手に変われば、演奏家の足場を崩されたも同然になる。即興の現場は演者に対してどこまでもフェアでなければならないのだ。
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第十二章 「白塗り」を捨てる決断――ビヨンド・ブトーの地平 |
1992年のロサンゼルス日米会館(キャパ700人)から、1996年のエジンバラ演劇祭キングス・シアター(キャパ1500人)。キャパ100席に満たない稽古場公演をベースに作られた土方舞踏からしてみれば、格段と違う大舞台の天井高に合わせた巨大な美術幕を制作するべく、学校の体育館や大劇場を100回ほど借り、布の収集から染め付け、裁断縫製まで手作業で1000時間以上を費やした。

1992年 ロサンゼルス日米会館/ジャパンソサエティ用の美術幕
200 枚の着物を染め直した美術幕 重さ500Kg
「黒とオレンジ色のぼろ布の背景幕は、『蓮遙』の主題の一つである火山の流れに似ている。それは動かないが神秘的に流動している印象を与える。」デボラ・ジョウイット(『ヴィレッジ・ヴォイス』紙)

1994年 NY ジョイスシアター用の美術幕
「舞台の縄のような自然主義的な背景幕は、『人間』と『石』という作品のテーマによく合っている。ここでいう『石』とは八人の踊り手たちであり、地蔵である。友惠しづねは言う。『地蔵の皮膚をめくると、溶岩が流れ出す』」ジャニス・バーマン (『NEW YORK NEWS DAY』紙)

1996年 エディンバラ・フェスティバル キングス・シアター用の美術幕
質感の比較検証(左:染料染め / 右:墨染め)
それぞれの幕を背にした踊り手の立ち姿や光の吸い込み方を確かめ、
作品の空間にふさわしい風合いを探る稽古風景
幕そのものが主張するのではない。光を吸い、音を受け止め、身体と切り結ぶことで、そこに「在る」ものとなる。互いがあって初めて立ち現れる――縁起の思想を体現した三層構造。背景ではなく「音・光・身体と対等に関わり合うひとつの生きた要素」として位置づける。
【三層構造の美術幕 物理的設計】
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① 基底となる栗皮色染め布
② 海松色の紗幕
③ 墨染め・染料染め混交の紐幕 |
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舞台の光を単に反射させるのではなく、一度奥へと呑み込ませ、闇の底からじわっと滲み出させるための三
重仕立て。それぞれの幕の間にわずかな空間層(エアポケット)を確保することで、光の重層的な吸光と陰
影の深まりを生み出している。
そしてこの大劇場に立ち向かう中で、私はひとつの大きな決断をした。1994年以降、「白塗りメイク」を完全に放棄したのだ。
白塗りには、踊り手の存在感を3割ほど底上げする(下駄を履かせる)効果がある。舞台美術や照明との関係バランスを極限まで能動的に築き続けなければならない私たちの舞台において、下駄を履くことは有利に働くだろう。それでも放棄したのは、観客に対してフェアではないからだ。演じる側も観る側も、同じ一つの身体を持った人間である。対等な立ち位置に立ってこそ、深く自然なコミュニケーションが実現する。「体=自己」が環境とどう能動的に関わっていくか。それこそが、私が提示したい舞踏作品の意味そのものだからだ。
生身の身体と研ぎ澄まされた舞台演出だけで挑んだ私たちの試みに対し、ニューヨーク・タイムズ紙のジャック・アンダーソンが掲げた劇評のタイトルは、すべてを物語っていた。
ビヨンド・ブトー(舞踏を超えて)1994年
「友恵しづねと白桃房の踊りは多様であり、仮面のような白塗りもない。舞踏が何であるかといった狭い概念で論じるのではなく、日本の現代舞踊の実例として見られるべきものである」(ジャック・アンダーソン/『ニューヨーク・タイムズ』)
アデレード・フェスティバル招聘公演評 1994年
「友恵しづねと白桃房は、簡潔な舞台装置と洗練された照明により、踊り手自身を媒体として芸術の本質を見せた。オーストラリアで見た最も思考を刺激し、没頭させられる公演であった」(ジル・サイクス/『シドニー・モーニング・ヘラルド』)
エジンバラ国際演劇フェスティバル招聘公演評 1996年
「第50回フェスティバルは間違いなく、驚くほど素晴らしい日本の友惠しづねの舞踏が初参加したことで記憶されるであろうし、またその価値がある」(ドン・モリス/『スコッツマン』)
「白塗りの異様な姿を見せさえすれば、観客は前衛の神秘性に息をのむはずだ」という、作り手側の幻想を拒絶したとき、舞台にはごまかしの利かない「人間対人間」の真摯な空間が立ち現れたのである。
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第十三章 空間を切り裂く覚悟と、小杉武久の真情 |
話を小杉武久さんに戻そう。 舞台構造や演出の論理をどれほど緻密に突き詰めたとしても、最終的に舞台を動かすのは演者の生身の覚悟である――その真理を、私は小杉さんとの即興の現場で骨の髄まで叩き込まれることとなった。
ある年の瀬、東京・国立市の小さな喫茶店で行われたクリスマス・ライブ。狭い店内の片隅、畳3畳ほどのわずかなスペースで、小杉さん、私(友惠)、吉沢元治氏によるトリオの即興セッションが始まった。 1時間が経過したあたりから演奏のスピードが異常なまでに加速し、暴走するアンサンブルは抜け出せない悪夢のようなループへと突入した。演者も客も「誰かがこの停滞を打ち破ってくれ」と切望していたが、誰もそのきっかけを掴めない。 その瞬間だった。小杉さんはエレクトリック・ヴァイオリンのアンプコードをバチンと引き抜き、音が消えたヴァイオリンを生音で激しく掻き鳴らしながら、奇声を発して客席の密集地帯へと突進していったのだ!
みっしりと詰まった観客の身体に、自分の身体を力ずくで擦り付けながら突き進む小杉さん。――その瞬間、重く停滞していた現場の空気は一変した。怒濤の展開を経て、トリオ演奏は無事に感動的なフィナーレを迎えることができた。 椅子に座ってギターを弾く私や、人間大のコントラバスを抱え込む吉沢氏には動くことなど不可能だった。プロとしての体裁やプライドをかなぐり捨て、生身の身体ひとつで混乱の現場へ乱入していった小杉さん……。あの土壇場で見せた覚悟は、簡単に真似できるものではない。
終演後の居酒屋で、吉沢氏のマネージャーが擦り切れた私の右手の指先を心配してくれた時、隣の小杉さんはピッチカート奏法でボロボロになった自身の指先を見せて「ははは、僕の指なんて、とっくにボロボロだよ」と笑った。欧米でスター扱いされていた彼だったが、どんな小さな現場であっても全身の神経を擦り減らすようにして真剣勝負を挑んでいたのだ。
「最近さ、神経のせいか腕が上がらなくなってきちゃってさ。もしヴァイオリンが弾けなくなったら、モンゴルに渡って『ホーミー』でも勉強しようかな」遠くを見つめる目でそう漏らしていた姿が忘れられない。
その日、舞踏カンパニーを主宰する私の顔をまじまじと見て、彼は可笑しそうに言った。「土方(巽)さんってさ、稽古場に呼ばれた時、難しいこといっぱい喋ってたけど、僕にはさっぱり分からなかったよ」
合点がいった。演奏家は、現場での鋭敏な身体感覚ですべてを捉える。どれほど高尚で洗練されたアート論であれ、自分自身の身体にとって生々しいリアリティが感じられないものは本能的に拒絶するのだ。土方巽の周囲に集まっていたのは現場を遠巻きに眺める文学者や批評家ばかりで、生身でライブに関わる音楽家はいなかった。言葉によるベールで覆い隠された実地現場の構造的欠陥が、そこにもはっきりと表れていたと言える。
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第十四章 脱ジャンル化と「ポスト・フリー」のスリル |
あらゆる異業種間での即興コラボが当たり前となった現在だが、その原点にあったのは、自身が拠って立つジャンルからの「脱却(脱ジャンル化)」という命がけの行為だった。安全な庇護を捨て、素の身体を晒すからこそ人の本音は輝く。それこそが「即興」の本質である。
もっとも、「完全即興」は漫然とした雑音に陥るリスクと常に隣り合わせだ。そこで開発されたのが、あえて厳密なルールを組み込む「ポスト・フリー」というアプローチだった。1980年代半ば、ジョン・ゾーンが来日時に持ち込んだこのメソッドは、演奏家一人ひとりに付かせたプロンプターを介して演奏指示をリアルタイムに出し合うスリリングなシステムで、私もギタリストとして参加した。また、同時期にサックス奏者・広瀬淳二氏も独自のアプローチで「ポスト・フリー・メソッド」を考案していた。私と大友良英は、彼に呼ばれたライブ現場で彼の考案したルールに従って演奏したことがあった。この時代を境として、現在に至るまで、数多くの素晴らしい即興演奏メソッドがプレイヤーたちの手によって開拓され続けていくこととなる。
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第十五章 誰にでもできる「How to 即興」と講習会 |
かつて先鋭的な舞台やライブ空間で繰り広げてきた極限の即興表現――その本質を、閉ざされたアートの世界から人々の生活の場へひらいていく試みとして、近年、私たちカンパニーは学校や福祉施設などでの即興ワークショップを積極的に重ねている。楽器の経験やアカデミックな音楽理論など必要ない。「はじめに身体ありき」。赤ん坊の産声と同じく、声を出せない人間などいないからだ。 まずはただ、息を吐くように声を放ってみる。隣の人の声に耳を澄ませ、自分の声をそっと重ねる。正解など求めなくていい。相手の声の震えから伝わる「感情のゆらぎ」に返事をするように声を漏らす。気づけば、互いの心と身体が空間の中で美しく共鳴し合っている。これこそが即興アンサンブルの最もピュアな原点だ。
この即興メソッドは、80年代にNYの先鋭たちと渡り合ったスーパー・ヴォーカリスト・天鼓(テンコ)さんのテキストに基づくものだ。彼女と私は80年代後半、ライブハウスでの共演をきっかけに親しくなり、彼女には何度も私たちの公演に出演いただき、稽古場でのワークショップでも団員たちに「即興の本来の楽しさ」を肌で実感させてくれた。
 スーパーヴォーカリスト・天鼓氏による即興音楽講習会
そして、長年の友人である広瀬淳二氏によるワークショップもまた、極めて実践的でフラットな「即興アート」のあり方を提示してくれている。彼らには今年も稽古場へお招きし、踊り手たちに即興の講習をしていただいたばかりだ。
 Sax 広瀬淳二氏 による即興音楽講習会
「いま、ここ」を生きる身体の模索に、終わりはない。歩みは常に、その只中にある。
二部「実践篇」につづく
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