舞踏・BUTOHの創始者土方巽を唯一継承、舞踏芸術の発展をめざし、実践する舞踏カンパニー「友恵しづねと白桃房」のウェブサイトです。




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即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 3

文:友惠しづね

 私達の即興音楽と踊りのコラボには四種類のパターンがあります。
1. 一つのシーンを短い時間で区切り、複数の音楽家と踊り手達により作品構成をしていくパターン。
2. 作品を二部構成にし、一つは作曲音楽と振付けによるパート。もう一つを即興演奏家とのコラボ・パートにする。この場合、一人の演奏家が踊り手が入れ替わり立ち代わり登場する数シーンに対応するバージョンもあります。
これは音楽家にとっては厳(きつ)い。次々に現れるテンションを上げ切った踊り手により絶え間無く変換するシーンに真摯に向き合い続けるのは至難です。ある武道の昇段審査では「十人組手(初段の場合)」といって、入れ替わり立ち替わり現れる武道家と一分ずつ計十分対戦するといいます。私達のメンバーにも、この昇段審査を受けたという人がいますが、半ば過ぎると痛いし立っているのがやっとだった、と言います。
私も数人の踊り手相手のライブで、七分一シーンを十シーン休み無く、即興でギター演奏したことがありますが、途中で泣き出したいくらい辛い想いをしたことを覚えています。自分で創った作品構成、自分で育てた踊り手達に、まさか押しまくられるとは・・・。しかし、ライブはスリリングな程、互いの個性を開示し合います。共演相手が内部者の場合、馴れ合いの関係に成り易いので作品構成には特に気を使います。
3. 作曲音楽と振付けによる作品の初めか途中に、演奏家とのコラボ・シーンを挿入するパターン。演奏家は踊り手とのコラボ・シーンの時間が少ないために、制限された時間内に自分の個性を出し切ろうとしてきます。この力によって作品全体が活性化します。このパターンの場合、作品全体の責任を担う踊り手は、即興演奏家との共演シーンでは他のシーンで施された振付けは禁じ手となります。表現のループを避けるためです。
4. 即興演奏家達と踊り手が全編に渡って共演するパターン。音楽家主催で踊り手がゲストとして参加する私の企画外のセッション。主にライブ・ハウスなどで行われます。
ライブ・ハウスには舞台美術も設置しませんし、照明スタッフも同行することはありません。フラットな場です。ギャラも頭割り。音楽家も踊り手も一表現者として何の差別もないアーティスト同士のバトルの場です。

 私は、音楽家と踊り手の即興セッションの場合、ある水準をクリアーした者で無い限り、圧倒的に踊り手は不利だと思っています。状況への即応性、場の空気感の捕らえ方ということに関して音楽家は非常に鋭敏に反応できます。音楽家にとっての無音は、自分という存在が在って尚かつ無いというペンディング状態(「間」との差異が不分明)を保てますが、踊っていない踊り手は、しかし、その場にからだがある限り不随意の表現をしてしまっています。踊り手の気持ちとは別に、見えてしまっているからだは既に顕在化された表現になっています。
音楽家との対等のセッションの場合、踊り手の置かれた状況は過酷です。例えば踊り手が「右腕だけ」で表現を行った場合、その踊り手のからだの他の部位(右腕以外)は、どこまで表現といえるのか?音楽家にとっての無音が、からだ表現では何に相当するのか?
 パフォーマー系の踊り手の多くは、表現を意識で操作している分量が多いために共演者、観客とのコミュニケーションの幅が制限されます。私も今までに演奏家として何人かの自称舞踏家とセッションしましたが、芝居に付き合わされているようで興醒めした経験があります。
 音楽家と踊り手との対等なセッションの方法はあるのか?音という聴覚野と踊りという視覚野の共通感覚野はあるのか?体感では、異種感覚野での感覚情報の変換は日常的に行われていることです。例えば色彩でいいますと、赤、黄などの暖色を見ると実際に暖かく感じる、というように。かき氷の氷を砕く音を聴いて熱くなって来たという人はいない訳です。あのシャッシャッシャという音は何故か涼しさを感じさせます。
 私はコミュニケーションにおける共通感覚野については研究し続けていることですが、その理論と舞台での実践法については別稿に譲ります。
 ここでは、演奏家と踊り手の劇場に於ける位置関係(それはそれぞれの表現者の場に対する姿勢に如実に反映してきます)の類例を提示し、表現者達が綾なすコラボの総合的な表現の在り方を観てみます。人(表現者、観客、オペレーター)はその位置関係により、場の様相を大きく変化させます。これは私達の日常生活と変わりません。
 私はそれまで、音楽家と舞踊家によるコラボの成功例に触れる機会には、あまり巡り逢えませんでした。以下は、全て私の創意により実践されたものです。

 音楽家の舞台での位置ですが、これはまず、それぞれが持つ楽器の属性を考慮に入れなくてはなりません。楽器の大きさと重量、マイクなど拡声装置の有無、坐って演奏するのか立ってなのか。
 例えば音楽家の楽器がドラムの場合は場所もとりますし、演奏終了後舞台が進行する中での楽器の撤去というのは簡単ではありません。演奏家が退けているのに楽器だけが舞台に残っているというのは不自然です。では、どうするのか?客席の中にドラムを設置してしまえば、というようなアイディアも浮かんできたりします。
 音楽家の中には、コラボする踊り手と対面した方が演奏し易いと想われる方もいます。また、観客に背中を向けることに抵抗がある場合、舞台の全体空間をからだで捉えられれば、舞台の奥でも構わないという方もいます。その演奏家には上演中殆どの時間、コラボする踊り手の背中が見えるだけなのですが、演奏のイマジネーションが湧き続けるのに支障を来すことはないようです。
 私の企画するコラボでは音楽家に対して、舞台での立ち位置の希望を訊くということは滅多にありません。訊いたところで、彼等は「どこでもいいよ」と応えるだけでしょう。如何なる状況に置かれても、そこで自分を出し切る。それが即興演奏家の信条であることを分かっているからです。だからこそ演出家は、演奏家に最善を尽くして貰うために、また彼等からより豊穣な個性を引き出すために最良のコーディネートをしなくてはなりません。空間構成と舞台での音楽家の立ち位置を決めることは演出家にとって、最も重要な仕事です。
 普通、音楽家の活動はフラットなライトの中に限られます。舞台人が経験するいわゆる「暗転」(真っ暗な場)を経験することはありません。これは舞台人にとっても危険なシチェーションですが、音楽家には、事前に公演の段取りを了解してもらうことは舞台制作の上で最低限の条件となります。音楽家のからだは元より楽器に傷でも付けるなどはあってはならないことです。

 それでは、踊り手と音楽家の舞台上での立ち位置のサンプルを幾つか提示します。
 客席、舞台共に稼動可能な小劇場、多目的ホール。どちらも可動不能である中、大劇場など、それぞれ場からの制約を受けます。


サンプル

 
スタジオ200図面1
友惠しづね
友惠しづね(g)舞台上手角
吉沢元治、小杉武久と友恵しづねと白桃房メンバー
左:吉沢元治(b)、中央正面:小杉武久(vi)
池袋西武デパート内に設けられた「スタジオ200」での、四人の音楽家と七人の踊り手によるコラボ作品「風に寄りそう女1」での舞台です。
この会場は天井も低く、客席を雛壇状に迫り上げることはできません。そこで客席を三方に囲むように踊り手の舞台を設置しました。正方形と細長い二つの舞台。その四隅に音楽家は配置されます。音楽家は各々に当てられる照明の明暗により演奏の切っ掛けとします。
出演者の個性と空間構成のバランスを考慮に入れ、音響オペレーション・ブ ースはメイン客席の正面に設置します。普段、裏方として顔を晒さない音響 家の緊張した面持ちを等身大の人間的エレメンスとして舞台空間に組み入れることにより、強者(つわもの)達の音楽家により、ややもすると観客を置き去りにする程に肥大する劇場空間の密度に、清涼な「抜け」を招き入れます。
私は、美は絶えず流動する密度、そのコントラストの基に産み出される詩情と考えています。美の必要条件であり時には充分条件とも成り得るスリルの源泉もそこに依って立ちます。
そして、観客、出演者、スタッフの、からだを媒介にしたイマジネフルな感性で味わうスリルは多彩な程、舞台アートの面白さは開示されます。

 
スタジオ200図面2
同じく「スタジオ200」。三人の音楽家と五人の踊り手によるコラボ作品「風に寄りそう女2」での舞台です。舞台を張り出し、両サイドの空間にススキの穂を活け、踊り手はススキの群れの中からも出入りします。
音楽家の立ち位置は客席を挟んでスペースの最後列に設置した台上です。音楽家はスペース全体を見渡しながら、舞台上の踊り手達と対峙します。観客は舞台を視覚に入れながらも背後で演奏する音楽家の存在を肌で感じ摂り、スペース全体に綾なすライブの蠢きを全身の感覚で捉えます。

スタジオ200すすき美術季節は秋です。ススキの穂が舞台に叙情を醸し、出演者と観客に内在する詩情と感応します。作品は「池袋演劇祭」で大賞を授賞しました。

 
台湾図面
台北国立実験劇場での台湾の伝統オペラ劇団「江之翠劇場」。四人の伝統ミュージカル俳優と七人の中国福建省の伝統楽器奏者による公演、人間とお化けの恋愛物語「朱文走鬼」の舞台です。私は演出を担当しました。ゲストで私達のカンパニーから一人の舞踏家(芦川羊子)が道化役として出演しています。
この劇場は、アメリカにはよくあるブラック・ボックス(スペースの六面が全て黒色に塗り込まれている)です。元々、雛壇状に迫り上がる客席が設置されていましたが、私はこの客席を撤去し舞台と客席を新たに立ち上げました。
俳優が立つ舞台は能舞台からインスピレーションを得たもの。それと斜に並ぶように音楽家の、これは文楽の音楽家が位置する床をイメージし、本舞台より少し低くした(七人の音楽家中一人は楽器の特性上椅子に腰掛け演奏します。他の音楽家は直坐り)ものを設置しました。二つの舞台は、何も主張しないからこそ最もイマジネーションを誘発する黒一色のスペースに浮き立つ島のようです。出演者に照明を当てると、からだは闇の空間に発光するように、時に強く浮き掘られ時に淡く滲みます。
台湾音楽家舞台
島を囲むスペースの床にはイメージの水の流れが観客の足下を浸すことで、出演者と観客がスペースを共存する、というのが私の空間コンセプトです。
この伝統オペラ劇団の従来までの公演では、主役は俳優(演技、台詞、唄、踊り)ですので音楽家は蔭に隠れる存在として対処されていましたが、私は、音楽家の演奏する音だけではなく、そのからだをも積極的に舞台エレメントとしてアピールしようと想いました。演奏時に、スポットが当たった音楽家達の活き活きとした姿は俳優達のパフォーマンスとスパークし劇場空間を活性化し、公演のライブ性を際立たせることで、作品に「抜け」の美を誘(いざな)います。私は、東洋のアートが秘める美の叙情性は、「普遍」に通底する「抜け」という回路を備えることを属性にしていると想っています。この作品は「台新芸術大賞」を授賞しました。
 

 上記の公演は実験色に彩られたものですが、作品としての自立性を目指しています。そのために、美術、照明も大きな演出エレメントとなります。作品の創作には公演のシュミレーションとその実現のための稽古に多大な時間と労力を費やしたことは云うまでもありません。
 しかしながら、私達が経験する多くのコラボレーション公演では、時間と掛けられる労力に制約があります。美術の設置は不可、照明操作は固定、公演当日に初対面の共演者と顔合わせなどというシチュエーションもあります。こんな迫られた状況もライブ舞台に欠かせないスリルの一要素と捉えれば、また見えてくるものもあります。演出家はライブ空間と共演者の人となり、実力を瞬時に捕らえ、空間構成と作品構成を決めます。
 舞台上での音楽家と踊り手の位置関係は、公演のための戦術上の布陣の執り方と捉えることもできますし、また共演者同士の融和を通じて、それぞれの個性を謳歌するための契機を導き出す創造的ヒューマン・リレーションの一つの在り方を提示しています。

 グローバル時代を迎え、アート・コミュニケーションは他民族、他国家、多種ジャンルのアーティスト達によるコラボが、より多彩で実践的な表現形式を希求しています。これは、ITに象徴されるテクノロジーの介入により益々、増幅されます。観客も表現者もスタッフもハイブリッドなライブを生きるなかで、21世紀の舞台アートの夢は模索されます。

 即興の概念を定義することは大変難しいことです。西洋で生まれたジャズやロック・ミュージックの循環コード内での個人の自由なプレーをアドリブと解釈し即興と区別する批評家もいます。そして、あらゆるコードを排除したライブこそ即興であるとカテゴライズします。しかし、「完全即興」と名付けられたコードを排除し切ったとされるコミュニケーション形態は、私達の実生活でライブされる「自由」は元より公演でも、その言葉には観念的な要素が付着しています。公演ライブでは、少なくともスペース、開演時間、終演時間(長くとも終電まで)というコードに囲われていますし、また、プレーする演奏者の個性も回数を重ねればパターン化した表現を免れることはできません。そこで、ポスト・フリーという、予めそれぞれの個性を限定付きで囲うという表現スタイル=形が模索されました。
 東洋での即興の捉え方はどうでしょう?例えば、書道は、修練によって厳密な形の習得が基本になりますが、実際の表現を一回性のライブとして見るならば、即興性が要求されるアートです。日本の定型詩である俳句なども、その創作においては即興が大きなエレメントとして関わります。茶道に象徴される日本の「わび、さび」という美意識は禅の「心境一如、自他不二」という思想にも通底しますが、「一期一会」という雄大な即興観を基にしています。
 どうやら、東洋生まれのアートは形が先行したものでも、「感応」という社会環境、自然環境に即応した生に直結するエレメントに表現者の即興性がダイナミックに関わっているようです。
 即興は洋の東西で概念上の違いがあります。では、東洋人と西洋人のコラボはどこかで齟齬を来してしまうのか?というと、少なくとも私の幾多のコラボ経験では、そんなこともない、というのが実感です。恐らく即興という概念は、個人の背景とする文化や時代、ジャンルを越えたところにまで、その根を張っているような気がします。
 自由と制約、即興と形、個性と風俗の関係が提する問題は一様には計れない動的で多彩なエレメントにより展開していく最も魅力的な課題です。

 では、最後に音楽家と踊り手の劇場による位置関係の、現代を最も象徴するライブ公演の在り方、そのサンプルを紹介します。

東京とリヨンの映像をミックスし、
電話回線で交信する機材配線図
東京とリヨンの映像をリアルタイムで
ストリーミング配信する
東京とリヨンの音響配線図
東京リヨンテレプレゼンス

 二地点の遠隔地を電話回線で結び、互いのスペースにスクリーンを設置します。互いのスクリーンにはコラボ相手の様子が写しだされ、それぞれの場でライブが同時進行で繰り広げられます。二つの場を仕切る演出家のシュミレーション能力は未踏の領域まで引き出されます。遠距離間でのコミュニケーションは、いつの場合も、もどかしいからこそ人(出演者、スタッフ、観客達)の想像力と熱意が存分に発揮されます。

 ワン・サイトはフランスのリヨン市内の劇場。五人の音楽家(市民生活に根差した活動を標榜するジャズ・カンパニー「ARFI」)が出演します。アナザー・サイトは東京の私達、踊り手のスタジオ。東京からリヨンに送る映像はPCにより私の映像美術が施されます。その模様はインターネットで世界にリアルタイム配信されます。
 フランス時間16時、日本時間24時開演。この作品はGRAME主催の"Biennale Musiques en Scene 2002"フェスティバルの招聘公演として高い評価を得ました。

 私達は、このようなコラボ公演、講習会(「e-ラーニング」の先駆けともなりました)を国内外の劇場や大学と二十回以上行っています。初期の頃は互いが送り合う映像はモザイク状になっている場合もありましたが、近年ではテクノロジーの発達により鮮明になり、遠隔地コミュニケーションの距離は縮んでいくようにも感じられます。今後のアート・コミュニケーションの重要なエレメントになるであろうことが察せられます。

 即興は形の産みの親。出会いのインスパイアは生き物達から即興を促します。あくびしていた潜在力が頭をもたげた時、人は個性という無限の可能性に寄り添います。

→みんなで楽しめるコラボ・システム

2017/10/12 UPDATE 読みもの・映像・音声
一本の木の物語 執筆:天乃宇受美
友惠舞踏メソッドによる 「ポスト・フリー・コラボ」 執筆:友惠しづね
舞踏の表現構造 執筆:友惠しづね
歩行テキスト批評 執筆:友惠しづね
舞踏、その体と心 友惠舞踏メソッド 執筆:友惠しづね
ブルース・ハープ 執筆:加賀谷さなえ
舞踏 執筆:芦川羊子
大船渡市・陸前高田市 災害支援ボランティア (入澤サタ緋呼)
団鬼六永眠 (加賀谷早苗)
舞踏の精髄 執筆:芦川羊子
からだ表現と即興 執筆:友惠しづね
詩の朗読と舞踏のコラボ 執筆:友惠しづね
「友惠舞踏メソッド」、その演出法 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド3 執筆:友惠しづね
みんなで楽しめるコラボ・システム 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 執筆:友惠しづね
即興音楽と舞踏 友惠コラボメソッド 2 執筆:友惠しづね
風のまなざし 詩:友惠しづね
大野一雄氏100歳をお祝いして 大野慶人氏インタビュー
 
聞き手:土方巽舞踏鑑 代表 カガヤサナエ
「南管オペラ」のアーティスト達 文:友惠しづね
台湾での舞踏講習会 -「江之翠劇場」の皆さんと- 文:友惠しづね
南管オペラ 文:友惠しづね

X JAPAN hide(2005年9月25日hide MUSEUM閉館に寄せて)  文:友惠しづね

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